第三章 朱雀の宿命 第二十三話 『巫女の覚悟』
「只今戻りました。」
柑橘の香がほのかに漂う部屋へ足を踏み入れ、ミサは御簾の向こうへ恭しく頭を下げた。
今日は香を変えたのだろうか。
そんなことを思いながら顔を上げると、
「そこじゃなくて、こっち。」
なぎの上の声が飛んでくる。
「え?」
「聞こえなかった?」
「いえ。」
素直に御簾を上げ、中へ入る。
いつものように几帳越しではなく、すぐ近くへ座るよう促され、ミサは少しだけ首を傾げた。
「なぎの上様、お身体の方は……。」
「もう大丈夫よ。」
なぎの上は扇を揺らしながら微笑む。
「心配掛けたわね。」
その穏やかな表情に、ミサはほっと胸を撫で下ろした。
「良かった……。」
「それより。」
間髪入れず、なぎの上が言った。
「探し物は見つかったわ。」
「あっ、そうでしたか。」
「だから次は私の番。」
嫌な予感がした。
「どこへ行っていたの?」
にっこりと笑うなぎの上に、ミサは今日の出来事を順を追って話し始めた。
長屋で起きた騒動。
妖魔に取り憑かれた源のこと。
春太と、その母親。
そして、浄化の炎で妖魔を祓い、神力を使い切ったことまで。
ただ一つだけ。
篤久から想いを告げられたことには触れなかった。
話し終えると、なぎの上は静かに頷く。
「なるほど。」
そして、手にしていた扇を閉じた。
――パチン。
乾いた音が静かな部屋に響き、ミサの肩がぴくりと震える。
「まだ報告していないことがあるわね?」
「っ……。」
完全に見抜かれていた。
「守護者ではないことを知られました。」
観念したように答える。
東宮から朝の出来事を聞いていたのだろう。
なぎの上は驚く様子もなく、小さく息を吐いた。
「巫女のことは?」
「知られていません。」
「そう。」
そこで終わるかと思った。
だが、終わらなかった。
なぎの上はじっとミサを見つめる。
「それだけ?」
「え?」
「他にも何か言われたでしょう?」
「な、何も……。」
言い掛けて止まる。
脳裏に浮かんだのは、夕暮れの帰り道。
『守護者じゃなくても、側にいてくれるだけで充分だ。』
思い出した瞬間、頬が一気に熱を帯びた。
「あら。」
なぎの上の目が細くなる。
完全に獲物を見つけた時の顔だった。
「守護者じゃなくても?」
「……。」
「続きは?」
「……。」
「言いなさい。」
逃げ場はなかった。
ミサは俯いたまま、小さな声で呟く。
「……側にいてくれるだけで充分だ、って。」
「へぇ。」
なぎの上の声が、少しだけ楽しそうに弾む。
ミサは思わず両手で顔を覆った。
熱い。
顔が熱すぎる。
「それで?」
「それで、って……。」
「それだけじゃないでしょう?」
なぎの上の笑みがさらに深くなる。
「っ!」
ミサは固まった。
なぎの上の肩が小さく震える。
笑っている。
絶対に笑っている。
「で、口付けされたのね。」
「えぇぇぇぇぇぇぇっ!?」
思わず立ち上がる。
「な、なんで分かるんですか!?」
「分かるわよ。」
なぎの上は涼しい顔で答えた。
「その髪を見れば。」
「あっ……。」
ミサは慌てて自分の髪へ触れた。
指先に触れた髪は、神力を帯びた証である美しい朱色へと変わっている。
今さら隠そうとしても遅かった。
神力を受け取った証は、髪が何より雄弁に物語っていた。
「で?」
なぎの上は容赦なく問い掛ける。
「どうだったの?」
「どう、って……。」
「宮廷一の色男に口説かれた気分。」
ミサの顔が一気に真っ赤になる。
「な、なぎの上様!」
「誰も落とせなかった男を、うちのシノビが落とすなんてね。」
くすくすと笑う。
その声は楽しそうだった。
けれど、その奥底には五年前の出来事を黙っていたことへの複雑な想いも滲んでいる。
ミサはそれを感じ取り、静かに頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。」
「で、いつ思い出したの?」
「……口付けされた時です。」
一瞬。
なぎの上は言葉を失った。
そして大きく息を吐く。
「あぁ……。」
呆れたようでいて、どこか納得したような声だった。
「倒れた原因、それだったのね。」
「……はい。」
「本当にもう。」
そう言いながらも、その表情には安堵が浮かんでいた。
すべてを思い出したのなら、それで良かった。
そう思えたからだ。
やがて、なぎの上は表情を改める。
そして扇の先で、そっとミサの顎を持ち上げた。
「で。」
漆黒の瞳が真っ直ぐミサを見据える。
「肝心のあんたの気持ちは?」
逃げられない。
もう誤魔化せない。
ミサはゆっくりと目を閉じる。
そして、小さく答えた。
「私も……五年前から、篤が好きでした。」
その声はか細かった。
けれど、その想いだけは誰よりも真っ直ぐだった。
その瞬間。
ミサの腰元で、小さな音が鳴った。
――チリン。
朱色の組み紐に結ばれた鈴が、僅かに揺れている。
まるで。
五年前、閉ざされたままだった想いが、ようやく届いたことを知らせるように。
なぎの上はしばらく何も言わず、ミサを見つめ続ける。
やがて静かに息を吐いた。
「そう。」
短い一言だった。
だが、その中には様々な感情が込められていた。
「それを朱雀に喰われたわけね。」
「……はい。」
ミサは俯く。
五年前。
ようやく自覚した恋心は、目覚めた朱雀によって飲み込まれた。
想うことすら許されないと思った。
想えば想うほど苦しくなると知った。
だから忘れようとした。
忘れられなかったけれど。
「朱雀も無理難題を押し付けたものね。」
なぎの上は苦々しく呟いた。
「……。」
「巫女に性欲を求めるなんて。」
その言葉に、ミサの肩がぴくりと揺れる。
「処女でなくなれば、巫女ではいられない。」
神に仕える巫女としての資格を失う。
それは、決して覆ることのない掟だった。
なのに朱雀は言った。
もっと欲を知れ、と。
もっと感情を知れ、と。
もっと人を求めろ、と。
あまりにも矛盾している。
「まるで解けない謎掛けね。」
なぎの上は皮肉げに笑う。
「欲を抱けと言いながら、その先は禁じる。」
「……はい。」
「神というのは、本当に勝手なものだわ。」
ミサは思わず苦笑した。
なぎの上が神へ愚痴を零す姿は珍しい。
けれど、それほど理不尽な試練なのだと、改めて実感する。
「それで?」
なぎの上は静かに問い掛けた。
「今のあんたは、どうなの?」
「え?」
「篤久に口付けされて。」
ミサの頬が、一瞬で朱に染まる。
「なっ……!」
「神力は満ちた?」
逃げ場を与えない問いだった。
ミサは俯き、指先をもじもじと絡める。
「……少し。」
「少し、ねぇ。」
なぎの上は意味深に呟き、小さく笑った。
「なるほど。」
その一言だけで、すべてを察したようだった。
「あの……なぎの上様。」
「なに?」
「性欲って……どうすれば生まれるんですか?」
その瞬間。
なぎの上の動きが止まった。
数秒。
部屋に静寂が流れる。
「……は?」
「え?」
「今、なんて言ったの?」
「ですから、性欲って……。」
「聞こえてるわよ!」
思わず声を上げる。
普段は滅多に取り乱さないなぎの上らしくない反応に、今度はミサが驚いた。
「ど、どうしたんですか?」
「それを私に聞くの?」
「駄目ですか?」
あまりにも真剣な表情だった。
なぎの上は思わず額へ手を当てる。
「裸同士で抱き合えば生まれるものなんですか?」
その一言で耐え切れなくなった。
「ぶっ……!」
なぎの上は盛大に吹き出した。
「……誰に聞いたの、その話。」
「前に女房さんたちと侍女さんたちがお話しされているのを、少しだけ聞いたことがあって……。」
「ああ……なるほど。」
ようやく合点がいく。
きっと話の一部分だけ耳に入ったのだろう。
肩を震わせながら笑い続ける。
しばらく笑いが止まらなかった。
「そ、そんなに変なことを聞きました?」
「変というより……。」
なぎの上は目尻に浮かんだ涙を拭う。
「誰だって最初は知らないものだけれど、あんたの場合、真顔で聞いてくるから駄目なのよ。」
「……?」
意味が分からず、ミサは小さく首を傾げる。
その様子を見て、なぎの上はまた笑いそうになるのだった。
「まあ、その件は私が預かるわ。」
ひとしきり笑ったあと、なぎの上はようやく息を整えた。
「預かる?」
「そう。」
「……?」
「今は知らなくて良い。」
「はあ……。」
納得はしていない様子だったが、ミサは素直に頷いた。
なぎの上は扇を閉じると、小さく息を吐く。
そして、表情を改めた。
「ミサ。」
その声に、ミサも自然と背筋を伸ばす。
先ほどまでの和やかな空気が静かに消えていく。
「酷なことを言うわ。」
「……はい。」
何を言われるのか。
それは、もう分かっていた。
「篤久とのこと。」
その名前を聞いただけで、胸が締め付けられる。
「分かっています。」
ミサは静かに俯いた。
「篤に想いは告げません。」
その声は驚くほど穏やかだった。
けれど、その静けさが余計に痛々しい。
なぎの上はすぐには何も言わなかった。
扇を膝の上へ置き、静かに目を閉じる。
考えるように。
迷うように。
やがて、ゆっくりと瞼を開いた。
「……本当に、それで良いの?」
「え……?」
思い掛けない言葉に、ミサは顔を上げる。
「私は反対もしない。賛成もしない。」
なぎの上は真っ直ぐミサを見つめた。
「巫女だから諦めなさい、とも言わない。」
「なぎの上様……。」
「けれど。」
その声が少しだけ柔らかくなる。
「後悔だけはしないで。」
ミサの瞳が揺れた。
「人はね、自分で選んだ痛みには耐えられるの。」
静かな声が部屋に響く。
「でも、自分で選ばなかった後悔は、一生残る。」
その言葉が、静かに胸の奥へ沈んでいく。
ミサは何も返せなかった。
返せるはずもなかった。
「二人のことは、二人で決めなさい。」
なぎの上は穏やかに言った。
「私も、あずも、東宮も、口は出さない。」
「……。」
「篤久も馬鹿じゃない。」
ふっと微笑む。
「守護者ではないあんたを好きだと言ったのでしょう。」
「それが、あの子の答えよ。」
その言葉に、ミサの胸がぎゅっと締め付けられた。
嬉しくて。
苦しくて。
泣きたくなるほどに。
「……はい。」
ようやく絞り出した声は、小さく震えていた。
なぎの上はそれ以上何も言わなかった。
ただ静かに。
実の娘を見守るような優しい眼差しで、ミサを見つめていた。
※ ※ ※
ミサが部屋を後にすると、遣戸が静かに閉じられた。
その小さな音だけが、静まり返った部屋に響く。
なぎの上はしばらくの間、閉じられた遣戸を静かに見つめていた。
「……まったく。」
小さく息を吐く。
手にした扇を見つめるが、開く気にはなれなかった。
「篤久も、本当に厄介な子を好きになったものね。」
思わず苦笑が漏れる。
青龍の守護者。
誰よりも真面目で。
誰よりも不器用で。
一度決めたことは、何があっても曲げない男。
そんな篤久が五年間想い続けた相手が、よりにもよって朱雀の巫女だった。
笑い話にもならない。
もしミサが普通の娘だったなら。
もし朱雀の巫女でなかったなら。
もし五年前、あの日のまま時が止まらなかったなら。
二人は、とっくに結ばれていたのだろう。
誰も反対などしなかった。
きっと皆が祝福していたはずだ。
だが、現実は違う。
ミサは朱雀の巫女。
いずれ神へその身を捧げる宿命を背負っている。
その運命だけは、誰にも変えられない。
「だからといって、諦めなさいとも言えないのよね。」
なぎの上は静かに目を閉じた。
篤久は五年間、一人で抱え続けてきた。
誰にも打ち明けられず。
誰にも頼れず。
ただひたすら、その想いを胸に秘めて生きてきた。
ようやく再会できた相手に。
ようやく届けることのできた想いに。
「諦めなさい。」
そんな残酷な言葉を、自分は口にできなかった。
「私も甘くなったものだわ。」
自嘲するように笑う。
けれど、もし自分がミサの立場だったなら。
きっと同じだった。
好きな人がいる。
その人も自分を好きだと言ってくれた。
それなのに、未来がないから諦めろと言われて、素直に諦められる者などいるだろうか。
「だから、自分で決めなさい。」
誰へ向けた言葉でもない。
静かな独り言だった。
「幸せになるのも。」
少し間を置き、ゆっくりと続ける。
「傷付くのも。」
その声は、誰に届くこともなく静かな部屋へ溶けていく。
御簾の向こうでは、夜の気配がゆっくりと宮中を包み始めていた。




