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第二章 朱雀の目覚め 第二十二話『返事の代わりに』

「……。」


返事ができなかった。


喉まで言葉は出かかっている。


それなのに、どうしても声にならない。


篤久は急かさなかった。


ただ静かにミサを見つめている。


その優しさが、余計に胸を締め付けた。


「……困らせてる?」


小さな問い掛けに、ミサは慌てて首を横に振る。


困っているわけじゃない。


むしろ、その逆だった。


嬉しくて。


幸せで。


このまま全部忘れてしまいたくなるほど。


だから困るのだ。


篤久は小さく笑った。


「そうか。」


責めることも、答えを求めることもしない。


ただ、その一言だけだった。


だからこそ、ミサは苦しくなる。


何か伝えたい。


この想いを届けたい。


そう思うのに、言葉だけが見付からない。


篤久はそっと頬へ触れる。


その手は、どこまでも優しかった。


「返事は急がなくていいから。」


蒼色の瞳が真っ直ぐミサを映す。


その一言だけで、胸がいっぱいになった。


目の奥が熱くなる。


どうして、この人はこんなにも優しいのだろう。


「篤……。」


名前を呼ぶのが精一杯だった。


篤久は微笑み、ゆっくりと距離を縮める。


逃げようと思えば逃げられる距離。


けれど、ミサは動かなかった。


いや――動けなかった。


唇が触れそうになる。


あと少し。


ほんの少しで重なってしまう距離。


――今だけ。


ミサは心の中で小さく呟く。


今だけだから。


少しくらい夢を見てもいいだろうか。


ほんの少しだけ。


この幸せに甘えても。


ゆっくりと目を閉じる。


その仕草だけで十分だった。


篤久の呼吸が僅かに乱れる。


そして。


そっと唇が重なった。


触れるだけの、優しい口付け。


神力を分けるためではない。


ただ、五年間伝えられなかった想いを重ねるような口付けだった。


夕暮れの風が二人の髪を優しく揺らす。


どちらもすぐには離れない。


失いたくない宝物へ触れるように。


ようやく唇が離れると、篤久はそっとミサの額へ自分の額を預けた。


「……ごめん。」


掠れた声だった。


「え……?」


「返事も聞かないうちに、口付けするつもりなかったのに…。」


篤久は小さく苦笑する。


「でも……止められなかった。」


その正直な言葉に、ミサの胸が熱くなる。


嫌だったわけじゃない。


むしろ、その逆だった。


嬉しかった。


胸が苦しくなるほど。


それなのに、その想いを言葉にすることだけは、どうしてもできなかった。


俯いたまま、小さく首を横に振る。


その仕草を見た篤久は、安堵したように微笑むと、朱色に戻ったミサの髪を撫でるように触れる。


「……ありがとう。」


何に対する「ありがとう」なのか。


ミサには分からなかった。


それでも、その優しい笑顔を見ているだけで胸がいっぱいになる。


夕暮れの空は、少しずつ茜色から紫へと色を変え始めていた。


本当なら、もう宮廷へ戻らなければならない。


それなのに。


二人とも動こうとしなかった。


あと少しだけ。


ほんの少しだけ。


この時間が続けばいい。


互いに、同じ願いを胸へ抱きながら。


その時だった。


『ミサ!』


『篤久!』


ほぼ同時に、二人の懐から声が響いた。


現実へ引き戻されるように、二人は弾かれたように顔を上げる。


互いを見つめたまま、一瞬だけ固まる。


そして同時に、小さく笑った。


あまりにも間の悪い呼び出しだった。


いや――。


二人にとっては、あまりにも間の良すぎる呼び出しだったのかもしれない。


あと少し遅ければ。


あと少しだけ、この時間が続いていたなら。


そんな想いを胸へしまい込みながら、それぞれ懐へ手を入れる。


「……本成。」


篤久は小さく息を吐き、通信鏡を取り出した。


一方、ミサも慌てて懐から通信鏡を取り出す。


映し出された相手を見た瞬間、自然と背筋が伸びた。


「なぎの上様、お呼びでしょうか。」


『ミサ! 探し物が見付からないの! 今すぐ戻ってきてちょうだい!』


切羽詰まった声に、ミサは思わず目を丸くする。


「は、はい。すぐ戻ります。」


短く返事をして通信を終える。


鏡を懐へ戻し、そっと顔を上げると、篤久はまだ本成と話していた。


『…だから今日も薬いると思ってさ。』


鏡の向こうから聞こえてきた言葉に、ミサは首を傾げる。


――薬?


不思議そうに見つめるミサとは対照的に、篤久は露骨に眉をひそめていた。


『宮廷で待ってても戻ってこないし。どこで何してるんだろうなぁって思って。』


どこか含みのある声だった。


返事をしない篤久を不思議に思い、ミサはそっと通信鏡を覗き込む。


『あれ?』


鏡の向こうで本成が目を丸くした。


『ミサも一緒だったの?』


「あっ、待たせちゃってごめんなさい。」


反射的に頭を下げる。


すると本成は、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。


『気にしなくていいよ。ゆっくりしてきても良かったのに。』


「私も、なぎの上様に呼ばれたから。」


『あぁ、なるほど。』


意味ありげに頷く本成。


その様子に篤久は小さく溜め息を吐いた。


「……ミサ。」


名前を呼ばれ、ミサは振り向く。


「先に戻ってて。」


先ほどまでの甘い空気は消え、いつもの青龍の守護者の表情へ戻っていた。


けれど、その瞳だけは少しだけ名残惜しそうに揺れている。


ミサの胸がきゅっと締め付けられた。


「……うん。」


小さく頷き、被衣を整える。


数歩歩いてから、ほんの一瞬だけ立ち止まる。


振り返りたい。


もう一度だけ、篤久の顔を見たい。


そう思った。


けれど、振り返ってしまえば離れられなくなる気がした。


ミサはそっと前を向き、そのまま宮廷への道を歩き始める。


夕暮れの中、小さくなっていくその背中を、篤久は静かに見送っていた。


つい先ほどまで腕の中にいた。


その温もりも、柔らかな唇の感触も、まだ鮮明に残っている。


やがてミサの姿は角を曲がり、夕暮れの街並みへと消えていった。


それでも篤久は、しばらくその場から動けなかった。


『……また邪魔しちゃったみたいだね?』


通信鏡の向こうから、本成が苦笑混じりに声を掛ける。


篤久は視線を前へ向けたまま、小さく息を吐いた。


「そうだな。」


短く返すと、本成は肩を竦めるように笑った。


『あー……悪かった?』


「悪かったと思うなら切れ。」


即答だった。


『それは認めるんだ。』


「認めるも何も、事実だろ。」


呆れたように答えながらも、その口元には僅かな笑みが浮かんでいた。


その表情に気付いた本成は、優しく目を細める。


『篤久。』


「なんだ。」


『良かったね。』


その一言に、篤久は何も返せなかった。


五年間。


長かった。


探し続けた。


諦めようとしたこともある。


忘れようとしたこともある。


けれど、そのたびに思い出したのはミサの笑顔だった。


誰を抱いても。


誰と過ごしても。


心だけは、一度も満たされることはなかった。


だから今日。


ようやく触れることができた温もりが、夢のようだった。


無意識に指先が自分の唇へ触れる。


まだ、あの柔らかな感触が残っている気がした。


思い出すだけで胸が熱くなる。


嫌がられなかった。


拒まれなかった。


それだけで十分だった。


『おーい。聞いてる?』


本成の声に現実へ引き戻される。


「あぁ、聞いてる。」


『じゃあ早く宮廷へ戻っておいで。薬も用意してるから。』


「……分かった。」


短く答え、通信を切ろうとした、その時だった。


『あ、そうだ。』


「なんだ。」


『返事、聞けた?』


篤久の動きがぴたりと止まる。


数瞬の沈黙。


『……まさか。』


「聞いてない。」


『えっ。』


思わず間の抜けた声が漏れる。


『あれだけ良い雰囲気だったのに?』


「…見てたのか?」


『二人の表情を見れば分かるよ。』


本成の意味深な表情に、珍しく篤久が苛立ちを露わにする。


「途中でお前が通信を寄越した。」


『あ。』


再び沈黙が流れる。


本成は静かに視線を逸らした。


完全に自分のせいだった。


『……ごめん。』


「そう思うなら、しばらく話しかけるな。」


『それは無理。』


即答だった。


篤久は深く息を吐く。


そのやり取りに呆れながらも、不思議と機嫌は悪くなかった。


返事は聞けなかった。


それでも。


ミサは逃げなかった。


自分を拒まなかった。


それだけで十分だった。


焦る必要はない。


急かすつもりもない。


だから――。


返事は、また今度聞けばいい。


そう心に決めると、篤久は通信鏡を懐へ仕舞い、ゆっくりと宮廷への道を歩き始めた。


夕暮れの風が静かに吹き抜ける。


その穏やかな風は、二人の新しい物語の始まりを、優しく祝福しているようだった。


――第二章 朱雀の目覚め・了――


ここまで読んでくださりありがとうございます。


思ったよりたくさんの方に読んでいただいてるようで恐縮です。


明日から第三章入ります。20時に更新です。

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