第二章 朱雀の目覚め 第二十一話『五年越しの想い』
逢魔が時。
夕暮れに染まった王都を、ミサと篤久は並んで歩いていた。
昼間の賑わいが嘘のように、人通りは少ない。
宮廷の決まりで夜の外出は禁止されているためか、たまに見掛ける人影も皆、足早に帰路を急いでいた。
そんな中、二人の間には不自然なほど静かな時間が流れていた。
春太の家を出てから、まともに視線を合わせていない。
ミサの視線は何度も篤久の左手へ向かう。
さっきまで繋いでいた手。
そして――あの口付け。
思い出すだけで頬が熱くなる。
神力を分けてもらうためだった。
それは分かっている。
分かっているのに、それだけだったとはどうしても思えなかった。
思わず自分の唇へ触れそうになり、慌てて手を引っ込める。
そんなミサを横目で見ながら、篤久もまた別の意味で苦しんでいた。
――駄目だ。
――ミサといると理性が利かなくなる。
神力を分けるため。
そう自分に言い聞かせていた。
だが、本当は違う。
あの瞬間、自分は神力のことなど考えていなかった。
ただ触れたかった。
抱き締めたかった。
口付けたかった。
その事実が、自分自身を責め続けていた。
無意識に漏れた溜め息。
それを聞いたミサが肩を震わせる。
「あ、篤……ごめんなさい。」
「え?」
突然の謝罪に、篤久は足を止めた。
ミサは視線を落としたまま続ける。
「嘘、ついてたから……。」
朱雀の守護者。
そのことを言っているのだと、篤久はすぐに分かった。
だが、静かに首を振る。
「謝らなくて良い。」
その声は驚くほど優しかった。
「なぎの上様とあず姫様のことだ。黙っていたのも理由があるんだろう。」
ミサは何も答えない。
それが答えだった。
篤久はそれ以上追及しなかった。
今は聞く時ではない。
そう思ったからだ。
代わりに、胸の奥へしまい続けてきた想いを口にする。
「ミサ。」
「……?」
「さっき、俺が言ったこと覚えてる?」
その瞬間。
夕暮れの風が二人の間を通り抜けた。
――チリン。
腰元の朱色の組紐が揺れ、小さな鈴が静かに鳴る。
ミサは息を呑む。
篤久はその音を聞きながら、ゆっくりと眼鏡を外した。
「守護者として世に出ても良いのかって……?」
「その前。」
「……あ。」
思い出した瞬間、ミサの頬が一気に赤く染まる。
篤久は思わず笑ってしまった。
「思い出した?」
「守護者じゃなくても……側にいてくれるだけで充分って……。」
言葉が止まる。
一歩。
また一歩と距離を縮める。
そして、そっとミサの頬へ手を添えた。
「それって……。」
震える声。
逃げたいのに逃げられない。
そんな表情だった。
「言葉のままの意味だよ。」
蒼色の瞳が真っ直ぐミサを見つめる。
五年間、一度も変わることのなかった想いを乗せて。
「好きだ。」
その一言に、ミサの瞳が大きく揺れた。
「ミサ。俺は五年前から、ずっとミサが好きだった。」
夕陽が二人を優しく照らす。
もう隠すつもりはなかった。
篤久はそっとミサの手を取り、静かに抱き寄せる。
驚くミサを腕の中へ包み込んだ。
「守護者だからじゃない。」
耳元で囁く。
「朱雀だからでもない。」
抱き締める腕に自然と力が入る。
「ミサだから好きなんだ。」
ミサは何も言えなかった。
胸が苦しいほど熱い。
嬉しい。
ただ、それだけなのに。
どうしてこんなにも涙が出そうになるのだろう。
篤久は静かに息を吐いた。
「……ミサは、青龍の守護者が目覚める条件を知ってる?」
突然の問いに、ミサは腕の中で小さく首を横に振る。
「青龍の守護者は……女を抱くことで覚醒する。」
その言葉に、ミサの肩が小さく震えた。
篤久は苦く笑う。
「ずっと、なぎの上様や宮廷の者たちから、早く覚醒するよう言われ続けてた。」
「どんな女性を勧められても断った。好きな相手以外を受け入れる気になれなかったから。」
夕暮れの風が二人を優しく撫でる。
「でも妖魔は増えた。被害も広がった。守護者が必要になった。」
篤久は自嘲するように笑う。
「最後は帝から勅命が下ったよ。」
その笑みは、あまりにも寂しかった。
「俺の意思なんて関係なかった。」
ミサは何も言わず、そっと篤久の背中へ手を添えた。
その温もりだけで、胸が締め付けられる。
「篤……。」
「……ごめん。」
篤久は静かに顔を上げる。
「本当はこんな話、したくなかった。」
掠れた声だった。
「でも、ミサにだけは隠したくなかった。」
「隠したく……なかった?」
「格好悪いだろ。」
そう言って笑う。
けれど、その笑顔は弱々しかった。
「再会するまで、何人もの女性を抱いた。」
ミサの指先が小さく震える。
篤久は静かに続けた。
「でも誰も違った。」
「誰もミサじゃなかった。」
その一言が、ミサの胸へ真っ直ぐ届く。
「口付けしたいと思ったこともない。」
「もう一度会いたいと思ったこともない。」
「会いたかったのは、ずっとミサだけだった。」
互いの吐息が触れ合うほど近い距離。
篤久は真っ直ぐミサを見つめた。
その蒼色の瞳には、五年間伝えられなかった想いだけが宿っている。
「好きだ。」
「返事は急がなくていい。」
「でも、この想いだけは……もう隠したくなかった。」
夕暮れの風が静かに二人の間を吹き抜ける。
ミサは唇を震わせた。
言いたい言葉はある。
胸の奥に溢れるほどある。
それでも――まだ、口にすることはできなかった。
ただ、篤久の胸へそっと額を預ける。
その小さな仕草だけで十分だった。
篤久は何も言わず、優しくミサを抱き締め返した。
夕陽が沈みゆく空の下。
五年越しの想いは、ようやく互いの心へ届いた。




