第二章 朱雀の目覚め 第二十話『白き炎』
青い光が二人の間に淡く灯った。
唇を通して神力が流れ込んでいく。
冷たい水のような青龍の神力。
その力が少しずつミサの内へ満ちていく。
必要な分だけ。
そう決めていたはずだった。
それなのに。
もっと触れていたいという衝動が理性を揺さぶる。
「んっ……」
唇が重なったまま、身体の奥へ熱が流れ込んでくる。
それは神力だった。
けれど、それだけではない。
胸の奥まで震わせるような熱。
身体の芯を満たしていく温もり。
昨日の一瞬とは違う。
逃げ場のないほど近い距離に、篤久の存在を感じていた。
肩を抱く腕。
腰を支える手。
重なる吐息。
そのすべてが近すぎて、思考が追いつかない。
「ぁ……」
力が抜けそうになる身体を、篤久は静かに抱き留める。
神力はもう十分なはずだった。
それでも篤久は唇を離せない。
離したくなかった。
ミサを求める気持ちが、篤久の胸の内で膨らんでいく。
それが神力を渡すためではなく、自分自身の想いから生まれたものだと、篤久は気づいていた。
そして―――
ようやくゆっくりと唇が離れる。
糸を引くような静かな余韻だけが二人の間に残った。
ミサの頬は朱に染まり、浅く息を繰り返している。
「篤……」
震える声で名を呼ぶ。
篤久は答える代わりに、そっと額をミサの額へ預けた。
「……駄目だな。」
掠れた声だった。
「えっ?」
「今の俺、多分……全然余裕ない。」
苦笑する。
けれど蒼色の瞳は少しも笑っていなかった。
熱を帯びたその眼差しに、ミサの心臓が大きく跳ねる。
「な、何言って――」
言い終えるより早く。
「あれ? 青龍さまたち、どこ行っちまったんだ?」
男の声が聞こえた。
二人は同時に息を呑む。
「こっちじゃねぇのか?」
「さっき出ていったよな?」
近付いてくる足音。
現実へ引き戻される。
篤久は小さく息を吐いた。
「……最悪の間だな。」
「篤!」
ミサは慌てて篤久の胸を押す。
離れようとするが、腰へ回された腕は簡単には離れてくれない。
「ちょ、ちょっと!」
「……もう少し。」
掠れた声だった。
「駄目!」
迷いのない即答。
その返事に篤久は思わず吹き出す。
「少しくらい迷ってくれてもいいのに。」
「迷わない!」
ようやく腕が離れた。
解放されたミサは慌てて数歩分離れる。
顔が熱い。
心臓がうるさい。
まともに篤久の顔を見ることができない。
首に掛けていた被衣を慌てて頭から被る。
朱色へと変わった髪を隠すため。
そして何より、今の自分の顔を見られたくなかった。
「じゃ、じゃあ先に戻るね!」
「ミサ――」
呼び止める声も聞かず、ミサは駆け出した。
ぱたぱたと足音が遠ざかっていく。
その姿が見えなくなると、篤久はその場にしゃがみ込む。
両手で顔を覆い、深く息を吐いた。
「あー……。」
漏れたのは、情けないため息。
「……何やってるんだ、俺は。」
神力を渡すだけだった。
そのはずだった。
それなのに。
自分を信じ、何の迷いもなく身を委ねたミサを前にした瞬間、理性はあまりにも脆く崩れ去った。
壁にもたれ、静かに天を仰いだ。
耳まで赤く染まったまま、篤久はしばらくその場を動けなかった。
※ ※ ※
先を急ぐように、ミサは妖魔に取り憑かれた男の待つ部屋へ戻った。
部屋へ入ると、男の子は父親の手を固く握り締め、母親も布団の上で祈るようにその様子を見守っていた。
ミサは男の子の隣へ静かに腰を下ろす。
「……ぼく、名前は?」
出来るだけ優しい声で問い掛ける。
男の子は涙を拭いながら、小さく答えた。
「……春太。」
「春太か。」
ミサは微笑んだ。
「大丈夫。助けるよ。」
春太の目を真っ直ぐ見つめる。
「お父さんを、妖魔にはしないから。」
力強く、それでいて優しい言葉だった。
その一言に、春太の母親は堪え切れず涙を零し、深く頭を下げた。
そこへ篤久も戻ってくる。
外で待っていた男たちを静かに下がらせると、戸を閉め、部屋の中には春太の家族とミサ、そして篤久だけが残った。
ミサは源の傍らへ移り、胸へそっと手を添える。
ゆっくりと目を閉じた。
静寂が部屋を包む。
やがて、小さく息を吸い込み――。
「朱雀の名の元に――。」
穏やかな声が響く。
「あなたを浄化します。『浄化』」
そっと手のひらを上へ向ける。
その瞬間だった。
白い炎が、源の身体を静かに包み込んだ。
春太と母親が息を呑む。
けれど、その炎に熱はない。
燃やすための炎ではなかった。
慈しむように。
包み込むように。
身体の奥深くへ染み渡り、潜んでいた妖魔だけを優しく浮かび上がらせていく。
やがて、白炎の中から黒い靄のような妖気が姿を現した。
苦しげに蠢いた妖気は、白い炎に包まれながら静かに空へ昇り、そのまま跡形もなく消えていく。
妖気は、完全に消えた。
そして、被衣の中でミサの髪色は黒に染まっていく。
構わずミサは源の胸へ手を添えたまま静かに確かめる。
もう、妖魔の気配はどこにもない。
ゆっくりと目を開き、春太へ微笑みかけた。
「春太。」
優しく名前を呼ぶ。
「もう、お父さん大丈夫だよ。」
春太は不安そうな顔でミサを見つめる。
「……ほんと?」
「うん。」
迷いなく頷いた。
その瞬間。
春太の表情がぱっと明るくなる。
「ありがとう! 朱雀のお兄ちゃん!」
母親が慌てて口を開く。
「春太、失礼でしょう!」
けれどミサは笑って首を横に振った。
「大丈夫。」
そう言って春太の頭を優しく撫でる。
その笑顔に、春太もようやく安心したように笑った。
「朱雀さま……ありがとうございます……」
母親が涙ながらに礼を口にする。
けれどミサは、ゆっくりと首を横に振った。
「まだ終わっていません。」
そう言って母親の傍らへ歩み寄り、その手をそっと包み込む。
その様子を見て、篤久が不思議そうに目を向けた。
「ミサ?」
「もう妖気は感じないが。」
ミサは静かに微笑んだ。
「私は……私たちは、神様じゃない。」
母親の手を両手で包み込んだまま、優しく言葉を紡ぐ。
「病を治すことは出来ません。」
その言葉に、母親は寂しそうに目を伏せた。
けれど、ミサは穏やかな表情のまま続ける。
「でも。」
「病が癒えるように祈ることは出来ます。」
そう言って静かに目を閉じた。
「朱雀の名の元に――」
部屋に澄んだ声が響く。
「あなたの病が癒えるよう、心から祈ります。」
何も起こらない。
光も。
奇跡も。
神託も。
何一つ起こらなかった。
それでもミサは祈り続けた。
春太が一日でも長く父と母、二人と笑って過ごせるように。
この家族へ穏やかな日々が訪れるように。
ただ、その幸せだけを願って。
「……それなら。」
静かな声が隣から聞こえた。
篤久だった。
ミサの隣へ腰を下ろすと、その手に自分の手をそっと重ねる。
「俺にも出来る。」
そう呟き、静かに目を閉じた。
「青龍の名の元――」
穏やかな声が重なる。
「あなたの病が癒えることを願います。」
言葉を終えると、二人はしばらく静かに祈り続けた。
その姿を見つめながら、春太の母親は堪え切れず涙を流す。
「ありがとう……ございます……。」
その涙は、絶望の涙ではなかった。
希望を信じることができた涙だった。
その時だった。
布団に横たわる源の指先が、ぴくりと小さく動く。
春太が目を見開いた。
「……父ちゃん?」
源の瞼がゆっくりと震える。
やがて薄く目が開き、ぼやけた視界の先に映ったのは、今にも泣き出しそうな息子の顔だった。
「……春太。」
掠れた声が名を呼ぶ。
「父ちゃん!」
春太は堪え切れず源へ飛びついた。
源は何が起きたのか分からないまま、それでも震える腕で息子を抱き締める。
その光景を見た母親も涙を流しながら二人へ寄り添った。
小さな部屋に、安堵の涙が溢れる。
家族三人が抱き合う姿を見つめながら、ミサはようやく肩の力を抜いた。
心の底から安堵したように、小さく息を吐く。
その横で、篤久が苦笑を漏らした。
「……だから嫌だったんだ。」
「え?」
ミサが首を傾げる。
篤久は家族の姿から目を離さないまま、小さく笑った。
「そういう顔をするから。」
「……?」
意味が分からず首を傾げるミサに、それ以上は何も言わなかった。
人を救えたことを、自分のことのように喜ぶ笑顔。
そんな顔を見せられるたびに、何も言えなくなる。
だから困る。
どうしようもなく、惹かれてしまうから。
部屋には、春太の笑い声と、両親の涙混じりの声が静かに響いていた。
その穏やかな時間を壊さないように。
篤久はそっと戸へ向かう。
ミサももう一度だけ家族へ微笑みかけ、小さく一礼すると、その後に続いた。
夕暮れの風が、二人を静かに迎えた。




