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第二章 朱雀の目覚め 第十九話『救いたい命』

下級妖魔に取り憑かれた人間は、思っていた以上に多かった。


だが篤久は、その全てを呼び止めることもなく祓っていく。


肩が触れるほど近くを通り過ぎる。


それだけ。


次の瞬間には、そこにあった妖気が消えている。


何度見ても信じられなかった。


「取り憑かれて間もないから出来るんだよ。」


篤久は何でもないことのように言う。


だがミサには到底真似できる芸当ではなかった。


妖気の場所を探り、核だけを正確に見抜く。


そして相手を傷付けることなく祓う。


それは長い年月をかけて磨き上げた技術なのだろう。


改めて思う。


自分とは住む世界が違うのだと。


そんなミサの隣で。


篤久は別のことを考えていた。


先ほど。


握り返された手。


その意味を。


――嫌じゃなかったってことだよな。


無意識に口元が緩む。


そんな篤久の隣で、ミサは先ほど買った饅頭を嬉しそうに頬張っていた。


その姿を眺めながら、篤久も最後の一口を口へ運ぶ。


そして。


少しだけ意地悪をしたくなった。


「それで?」


「ん?」


ミサが顔を上げる。


篤久の視線は、繋いだままの手へ落ちた。


その視線を追って、ミサもようやく気付く。


「あ……。」


頬が熱くなる。


「だ、だって……」


「うん。」


「はぐれないようにしてくれてるんでしょ?」


「……え?」


予想外の返事だった。


篤久が思わず間の抜けた声を漏らす。


ミサは少しだけ頬を膨らませた。


「迷子にならないように。」


上目遣いで見る。


「してくれてるんでしょ?」


沈黙。


そして。


「……っ。」


篤久の肩が震えた。


「あははははっ。」


とうとう堪えきれず笑い声が漏れる。


「な、何!?」


ミサが不満そうに睨む。


「どうせ五年間寝てたから子供だって思ったんでしょ!」


「思ってない。」


「絶対思った!」


「思ってないって。」


否定しながらも笑いは止まらない。


けれど。


本当にそう思ったわけではなかった。


むしろ。


嬉しかった。


変わっていないことが。


誰にも染められず。


五年前のままのミサが、今ここにいることが。


だから。


どうしようもなく愛おしかった。


「そんなに笑わなくても……。」


「ごめん。」


ようやく笑いを収め、篤久は息を吐く。


「お詫びに、もっと美味しいもの食べさせてあげる。」


「本当に?」


「ああ。」


「美味しくなかったら許さないからね。」


「大丈夫。」


そう言って。


二人は再び歩き出した。




※ ※ ※




結局その後も。


妖魔を祓って。


団子を食べて。


饅頭を食べて。


焼き菓子を食べて。


また妖魔を祓って。


気付けば、陽は大きく傾き始めていた。


「あー……もうお腹いっぱい。」


ミサが満足そうに空を見上げる。


その表情を見て、篤久は小さく笑った。


「それは良かった。」


「?」


「玄武地区も、ほとんど回れたからな。」


「でも……。」


ミサは少しだけ視線を落とす。


「私、何もしてないよ。」


申し訳なさそうな声。


けれど篤久は首を横に振った。


「そんなことはない。」


「でも、妖魔を祓ったのは篤だし……。」


「俺には充分だ。」


即答だった。


ミサが顔を上げる。


篤久は穏やかな表情で続けた。


「ミサが楽しそうにしてくれていた。」


「それだけで。」


少し間を置く。


「俺には充分だよ。」


胸の奥が、少しだけ温かくなる。


そんな言葉を、篤久が言うとは思っていなかった。


いつも冷静で。


何でも一人で背負ってしまう人。


そんな篤久が。


自分が笑っているだけでいいと言ってくれる。


「……。」


ミサが何も言えずにいると。


篤久は繋いでいた手を一度離した。


「あ……。」


思わず声が漏れる。


だが次の瞬間。


今度は指を絡めるように、握り直された。


「っ……。」


距離が近い。


さっきまでより、ずっと。


心臓が大きく音を立てる。


「俺はさ。」


篤久が静かに口を開く。


「例えミサが守護者じゃなくても。」


蒼色の瞳が真っ直ぐ向けられる。


「側にいてくれるだけで充分だ。」


息が止まりそうになった。


守護者じゃなくても。


その言葉が胸に引っ掛かる。


返す言葉を失ったミサが、ゆっくりと視線を落とした瞬間。


腰元の朱色の組紐が揺れた。


――チリン。


小さな鈴の音が、夕暮れの街へ静かに溶けていく。


篤久は一瞬だけ、その音へ視線を落とした。


けれど。


何も言わなかった。


ただ。


繋いだ手に、ほんの少しだけ力を込める。


まるで。


今ここにいるミサを、確かめるように。


「……篤。」


ミサが小さく名前を呼ぶ。


「それって……。」


聞きたい。


何を知っているのか。


なぜ、そんなことを言うのか。


その時だった。


「キャーーーーッ!!」


遠くから悲鳴が響いた。


二人の表情が一瞬で変わる。


次の瞬間には、同時に走り出していた。


妖気。


しかも強い。


「まだ明るいのに……!」


ミサが呟く。


篤久は険しい表情で前を見る。


「いや。」


短く答える。


「これは……取り憑かれた人間の妖気だ。」


最悪の想像が脳裏を過った。


角を曲がる。


そこにいたのは。


数人の男に押さえ込まれている一人の男だった。


だが次の瞬間。


男の身体から放たれた力で、押さえていた者たちはまとめて吹き飛ばされる。


「うわああん!」


幼い声が響く。


「お父ちゃーん!」


まだ五歳ほどの小さな子供が、涙を流しながら父親へ駆け寄ろうとしていた。


だが。


その声はもう届いていない。


濁った瞳。


荒い息。


理性を失った表情。


男の目に映るものは、全て敵だった。


「篤!」


「ああ。」


二人は一瞬で状況を理解する。


男が振り上げた腕を、篤久が受け止めた。


その間に、ミサは子供の元へ駆け寄る。


「危ない!」


小さな身体を抱き寄せ、後方へ下がる。


「……青龍の名の元――」


篤久が術を発動しようとした瞬間。


「篤! 待って!」


ミサの声が響いた。


詠唱が止まる。


篤久が視線を向ける。


だが妖魔に支配された男は止まらない。


唸り声を上げながら、今度はミサへ掴みかかろうとする。


「……動くな。」


低い声。


次の瞬間。


篤久の肘が男のみぞおちへ深く突き刺さった。


大柄な身体がくの字に折れる。


そのまま男は地面へ崩れ落ちた。


「父ちゃん!」


子供が駆け寄る。


周囲の男たちも慌てて集まった。


「せ、青龍さま……。」


一人が震える声で尋ねる。


「こいつは……。」


篤久は倒れた男を見下ろした。


表情は重い。


「ああ。」


静かに答える。


「妖魔に取り憑かれている。」


そして。


「しかも末期だ。」


その言葉に、周囲の空気が凍り付いた。


「末期……?」


誰かが呆然と呟いた。


篤久は倒れた男を見下ろしたまま、静かに続ける。


「逢魔が刻までに祓わなければ、身体ごと妖魔に呑まれる。」


その言葉に、周囲の者たちは息を呑んだ。


「……そんな。」


「助からないってことか……?」


不安の声が漏れる。


だが篤久は首を横に振った。


「まだ間に合う。」


その一言に、僅かに希望が戻る。


「数日前から風邪のような症状が出ていたはずだ。」


篤久が周囲を見る。


「なぜ診療所へ行かなかった?」


男たちは顔を見合わせた。


やがて一人が申し訳なさそうに口を開く。


「源さん……数日前まで行商で街を離れていたんです。」


「昨日戻ってきて……今日、診療所へ行くつもりだったみたいで……。」


男は視線を落とした。


「でも……奥さんの具合が悪くなって。」


「看病していたんです。」


その言葉に、篤久は黙り込む。


責めることなど出来なかった。


誰かを想う気持ちが、時に自分自身を追い詰める。


それは、この都では珍しいことではない。


篤久は無言のまま、倒れた男を肩へ担ぎ上げた。


「家はどこだ。」


小さな子供が震える指で方向を示す。


「……あっち。」


「長屋の一番奥。」


「分かった。」


短く答え、篤久は歩き出した。


ミサもすぐ後を追う。




※ ※ ※




長屋の一番端。


小さな家へ入ると、そこには布団に横たわる女性の姿があった。


夫を抱えて入ってきた篤久を見て、女性は慌てて身体を起こそうとする。


だが。


「無理をするな。」


篤久が静かに制した。


ミサはすぐに空いている布団を広げる。


篤久がそこへ男を寝かせた。


後から近所の者たちも恐る恐る中へ入ってくる。


重苦しい沈黙が部屋を包んだ。


その時。


小さな声が響いた。


「青龍さま……。」


男の子だった。


涙を堪えながら、篤久を見上げている。


「父ちゃん……どうなるの?」


篤久は一瞬だけ目を伏せた。


そして。


「……俺が妖魔を祓えば。」


静かな声で告げる。


「お前の父親は、五体満足ではいられない。」


部屋から音が消えた。


幼い顔が固まる。


母親の肩が震える。


「篤……。」


ミサが思わず名前を呼ぶ。


けれど篤久は視線を逸らさなかった。


嘘をつくことは出来ない。


末期まで進んだ妖魔憑き。


青龍の力で無理に祓えば、身体への負担は大きい。


それが現実だった。


「私の……せいです。」


女性が涙を流す。


「私が倒れたから……この人は……。」


「違います。」


ミサの声が響いた。


皆が驚いて彼女を見る。


朱色の瞳が真っ直ぐ女性を見つめていた。


「奥さんのせいじゃありません。」


声は震えていた。


それでも。


「悪いのは妖魔です。」


はっきりと言い切る。


「誰も悪くなんてありません。」


女性の目から涙が溢れた。


男の子が母親へ抱きつく。


ミサはしゃがみ込み、小さな頭へそっと手を置いた。


「ごめんね。」


優しく声を掛ける。


「大きな声出しちゃったね。」


男の子は涙で濡れた顔のまま、ミサを見る。


「……父ちゃん。」


震える声。


「助かる?」


その問いに。


ミサは迷わなかった。


「大丈夫。」


根拠なんてない。


それでも。


「私たちが必ず助けるから。」


その言葉に、男の子の瞳が僅かに揺れる。


ミサは立ち上がった。


そして。


真っ直ぐ篤久を見る。


その目を見た瞬間。


篤久には分かった。


何を言おうとしているのか。


「篤。」


静かな声。


「表に出て。」


篤久は小さく息を吐いた。


「ああ。」


二人は外へ出る。


残された人々は、ただ祈るようにその背中を見送った。




※ ※ ※




外へ出た瞬間。


ミサは深く頭を下げた。


「篤。」


声が震える。


それでも迷いはなかった。


「私に……神力を分けて下さい。」


夕暮れの風が、二人の間を静かに通り抜ける。


篤久はすぐには答えなかった。


ただ。


目の前で頭を下げる少女を見つめていた。


しばらく――


篤久は何も言わなかった。


夕暮れの光が二人を包む。


遠くでは、人々の声が聞こえる。


けれど、この場所だけは、まるで時間が止まったようだった。


「……顔を上げて。」


低い声。


ミサはゆっくりと顔を上げる。


そこには、いつもの冷静な篤久がいた。


しかし、蒼色の瞳の奥には、隠しきれない迷いが浮かんでいた。


「本当に良いんだな。」


「うん。」


即答だった。


迷いのない返事。


篤久は小さく目を伏せる。


分かっていた。


きっとミサなら、そう答える。


目の前で苦しんでいる人を見て。


何もしないなんて出来るはずがない。


それがミサだ。


だからこそ。


怖かった。


もう一度、朱雀の力を使えば。


もう二度と普通の暮らしには戻れない。


妖魔と戦うことになる。


狙われることになる。


命を懸けることになる。


それでも。


この少女は迷わない。


「……ミサ。」


名前を呼ぶ。


「ここで朱雀の力を使えば、もう戻れなくなる。」


ミサは黙って聞いていた。


「朱雀の守護者として生きることになる。」


「妖魔が現れれば戦う。」


「傷付くかもしれない。」


「命を狙われるかもしれない。」


一つ一つ。


確かめるように言葉を重ねる。


「普通の暮らしは出来なくなる。」


沈黙。


それでも、ミサの瞳は揺れなかった。


「……それでも。」


小さな声。


けれど。


はっきりとした声だった。


「助けたい。」


その言葉を聞いた瞬間。


篤久は目を閉じた。


分かっていた。


分かっていたはずなのに。


胸の奥が苦しくなる。


本当は――


このまま何も背負わずにいてほしかった。


妖魔のことも。


朱雀のことも。


全部、自分が引き受ければいいと思っていた。


けれど、そんなことが出来ないことも分かっている。


この少女は、誰かが傷付いているのを見過ごせない。


それがミサだから。


だから。


どうしようもなく惹かれるのだ。


ゆっくりと目を開く。


朱色の瞳と蒼色の瞳が重なる。


迷いはない。


恐れもない。


ただ。


誰かを救いたいという想いだけが、そこにあった。


「……分かった。」


篤久は静かに呟いた。


そして。


ミサの腕を取る。


「え?」


そのまま人目につかない長屋の裏手へ歩いていく。


建物の影。


周囲に誰もいないことを確認すると、篤久は足を止めた。


「篤?」


不思議そうに見上げるミサ。


その顔を見た瞬間。


胸の奥が痛んだ。


この先へ進めば。


ミサは朱雀の守護者として生きることになる。


それでも。


目の前の少女は選んだ。


誰かの命を救うことを。


篤久はゆっくりと息を吐く。


そして。


気付けば。


ミサを壁際へ追い込んでいた。


「篤……?」


突然近付いた距離に、ミサの声が揺れる。


逃がさないように。


離れていかないように。


両腕を壁につき、その身体を囲う。


「良いんだな?」


眼鏡を外す。


隠されていた蒼色の瞳が、真っ直ぐミサを見る。


「これを選べば。」


「もう、以前のようには戻れない。」


ミサは黙って見つめ返した。


そして。


小さく頷く。


「うん。」


その答えを聞いた瞬間。


篤久は静かに目を閉じた。


しばらくして。


ゆっくりと目を開く。


「……分かった。」


それだけだった。


けれど。


その一言に、迷いはなかった。


ミサの手を取る。


今度は離さないように。


その冷たい指先を、強く握った。


そして。


青い光が二人の間に淡く灯った。

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