第二章 朱雀の目覚め 第十七話『初めての約束』
後宮の奥深く。
まるで隠されるように造られたその部屋を訪ねてくる者は、ほとんどいない。
知らなければ通り過ぎてしまうような場所にあるミサの部屋は、今日も静かな時間が流れていた。
篤久との約束までは、まだ少し時間がある。
朝早くになぎの上とあず姫へ挨拶へ向かったものの、二人はまだ休んでいて会うことは叶わなかった。
自室へ戻った後も落ち着かず、くないを磨いたり、部屋の中を片付けたりして時間を潰していた。
だが、それにも限界がある。
ふと、借りた本の存在を思い出した。
今の自分なら。
平仮名だけの本くらいなら、読めるかもしれない。
そう思い、本へ手を伸ばした時だった。
「ミサ、居られますか?」
御簾の向こうから控えめな声が響く。
「えっ? なほ? どうぞ!」
思わぬ来客に驚きながら声を掛ける。
すると、ほんのり甘い香りと共になほが部屋へ入ってきた。
「おはようございます。」
「おはよう! なほ。こんな朝からどうしたの?」
向かい合って座ると、なほは嬉しそうに微笑む。
そして袖から一通の文を取り出した。
「言付けを賜りましたので。」
差し出された文を受け取り、ミサは首を傾げる。
悪い知らせではなさそうだ。
軽い気持ちで紙を広げる。
そこに書かれていた文字は――。
『おもてもんひろばでまってる。あつひさ』
すべて平仮名だった。
男性らしい力強さを残しながらも、不思議なほど丁寧で読みやすい字。
思わず頬が熱くなる。
――五年前の日記より、字が綺麗になってる。
そんなことに気付いてしまう自分が、少し恥ずかしかった。
「藤原様からは何と?」
なほが興味津々に身を乗り出す。
「えっと……広場で待ってるって。」
「あらあらまあまあ!」
なほの瞳が輝く。
「待ち合わせですの!? 素敵ですわ!」
「え?」
「早く行かれませんと!」
勢いよく立ち上がったなほは、ミサの腕を掴む。
「え、でも……」
その途中。
なほの視線が止まった。
「……あら。」
見ていたのは、ミサの髪だった。
朱色の組み紐で簡単に束ねただけの髪。
なほはそっと紐を解く。
「な、なほ?」
「少し失礼いたします。」
そう言って櫛を取り出した。
「御髪を整えましょう。」
「へ?」
「せっかくの逢瀬なのですから。」
「えっ!?」
ミサが否定する暇もなかった。
なほは優しく髪を梳かし始める。
黒く艶やかな髪が、指の間を静かに流れていく。
やがて髪は頭の上で綺麗にまとめられ、組み紐で結ばれた。
「出来ましたわ。」
差し出された手鏡を見る。
そこに映っていたのは、いつもの自分とは少し違う姿だった。
ミサは思わず毛先へ触れる。
「……。」
ほんの少し。
本当に少しだけ。
嬉しかった。
「とてもお似合いですわ。」
なほの言葉に、ミサは照れたように目を逸らす。
すると今度は腕を引かれた。
「さあ、行かれませ。」
「いや、でも篤が言ったのは辰の刻くらいで――」
「だから急ぐのです。」
なほは真剣な顔で言う。
「一刻も早く、ミサに会いたいに決まっていますわ。」
「……それは違うと思うけど。」
そう呟きながらも、結局押し切られてしまった。
「……行ってきます。」
部屋を出る。
しかし、足取りは重かった。
明るいうちに宮廷の外へ出るのは初めてだ。
緊張する。
ふと、自分の姿を見下ろす。
白拍子姿。
いつもの変装。
――この格好で街に出ても大丈夫かな。
少し考える。
けれど。
――まぁ、いっか。
すぐに諦めた。
被衣で顔を隠し、表門へ向かう。
何事もなく出られる。
そう思っていた。
だが――。
「おい! そこの者!」
門番の声が響く。
「止まれ!」
「え?」
周囲を見る。
誰もいない。
つまり、自分だった。
「ど、どうかしましたか?」
「なぜ顔を隠している?」
しまった。
怪しい。
非常に怪しい。
どう答えるべきか迷っていると、別の武官が近付いてきた。
「どうした――あっ!」
突然、声を上げる。
「朱雀の守護者様!」
「「えっ!?」」
ミサと門番の声が重なる。
次の瞬間。
武官はミサの手を握っていた。
「お会いしたかったんです!」
「えっ?」
「助けていただいて、本当にありがとうございました!」
どうやら先日、朱雀門で助けた武官らしい。
しかし、ミサには覚えがなかった。
「よく分かったね?」
「背丈と瞳です!」
興奮した様子で答える武官。
そして握った手を見ながら首を傾げる。
「それにしても朱雀さま、意外と手が――」
最後まで言葉は続かなかった。
「ぐぇっ!?」
いつの間にか背後へ現れた人物が、門番を羽交い締めにしていた。
気配など、まるで感じなかった。
「武官が簡単に背後を取られるな。」
低い声。
聞き慣れた声だった。
眼鏡を外したその姿に、武官たちの顔色が変わる。
「せ、青龍さま!」
篤久だった。
篤久は小さく息を吐く。
「……やっぱり迎えに行くべきだった。」
小さな呟き。
誰にも届かない声だった。
その時。
――チリン。
かすかな鈴の音が、静かな門前へ響いた。
ミサが歩くたび、揺れる組み紐の先についた小さな鈴。
それは五年前と変わらない、どこか懐かしい音だった。
篤久の蒼色の瞳が、わずかに揺れる。
この音を。
この気配を。
五年間、忘れたことなど一度もなかった。
ミサは不思議そうに首を傾げる。
「……どうしたの?」
「あ……いや。」
篤久は小さく首を振る。
「何でもない。」
そう答えながらも。
胸の奥では、確かに感じていた。
ようやく戻ってきたのだと。
五年前に失ったものが。
今、もう一度、自分の前にあるのだと。
そして篤久は武官たちへ視線を向ける。
「朱雀の守護者の件は、他言するな。」
「はっ!」
二人が頭を下げる。
確認を終えると、篤久は当然のようにミサの手を取った。
「行くよ。」
「え、あ……うん。」
振り払えなかった。
冷たい手が、心地よかったから。
篤久もまた同じだった。
先ほど別の男に手を握られている姿を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
だから。
思わず手を取った。
離したくなかった。
「あ、篤。」
「ん?」
「どこへ行くの?」
そこで初めて、篤久は足を止めた。
「あ。」
本当に忘れていたらしい。
「ごめん。説明していなかった。」
二人は並んで歩き出す。
「下級妖魔は、本成じゃ探せないんだ。」
「そうなの?」
「だから普段は、交代で街を巡回している。」
ミサは初めて聞く話だった。
「ミサなら妖気を感じられるだろ?」
篤久が優しく問い掛ける。
「手伝ってほしい。」
だが、ミサは俯いた。
「私……今、役に立てないよ。」
神力のことだ。
篤久はすぐに理解した。
そして少し笑う。
「妖気が分かるだけで十分だ。」
そう言って、頬へ触れる。
ミサの肩が小さく震えた。
「それとも。」
篤久は少しだけ意地悪そうに笑う。
「神力、分けようか?」
「だ、大丈夫です!」
即答だった。
顔を真っ赤にして両手を振る。
その反応に、篤久は少しだけ傷付いたような顔をした。
けれど、すぐに笑う。
「じゃあ…」
優しい声で。
「欲しくなったら、いつでも言って。」




