第二章 朱雀の目覚め 第十五話『約束の夜』
「わ、私も……。」
思わず零れた本音だった。
言った瞬間、ミサははっと我に返る。
――しまった。
心の奥へ押し込めていたはずの想いが、唇をすり抜けてしまった。
篤久はゆっくりと顔を上げる。
蒼色の瞳が小さく揺れた。
「……今、何て言った?」
信じられないものを聞いたような声だった。
ミサの頬がみるみる朱に染まっていく。
「な、何でもない!」
慌てて首を横に振る。
けれど、篤久は小さく笑った。
「聞こえた。」
その言葉だけで、胸がいっぱいになる。
五年間。
届くはずがないと思っていた想い。
それが今、確かに報われた気がした。
嬉しさを隠しきれず、篤久の口元が自然と緩む。
一方のミサは、恥ずかしさから逃げるように腕の中を離れた。
「そ、その……。」
抱えていた本を胸の前へ差し出す。
「これ……返さないといけなかったの。」
篤久は本へ視線を落とし、思わず苦笑した。
「ああ。」
そっと受け取ると、懐かしそうに表紙を撫でる。
「そんなの、いつでも良かったのに。」
その一言が、かえってミサの胸を締め付けた。
本を返せば終わり。
そう思って来たはずだった。
それなのに、終わらせたくないと願う自分がいる。
その想いに気付かれる前に、ミサは一歩そっと後ろへ下がった。
「じゃ、じゃあ……。」
少しだけ震えた声。
「用も済んだし……帰るね。」
踵を返そうとした、その時。
――チリン。
澄んだ鈴の音が、静かな夜へ溶けていく。
ミサの足が止まった。
篤久も思わず息を呑む。
鈴が鳴る。
それは五年前と同じように、二人の心が大きく揺れ動いた証だった。
「ミサ!」
慌てたような声が響いた。
次の瞬間、手首を掴まれる。
ひんやりとした指先に触れられ、ミサの身体が小さく震えた。
「……ちょっと待って。」
逃がしたくない。
そんな想いが滲んだ声だった。
けれどミサは振り返れなかった。
振り返ってしまえば。
きっと、もう離れられなくなる。
「ミサ。こっちを向いて。」
優しい声だった。
だから余計に苦しかった。
ミサは小さく首を横へ振る。
「……分かった。」
篤久が諦めたように呟いた。
その声を聞いて、少しだけ胸が痛む。
――ごめんなさい。
そう思った瞬間。
ふわりと背中が温もりに包まれた。
「……っ。」
後ろから抱き締められていた。
逃げ道を塞ぐように。
けれど、その腕に込められた力は、乱暴なものではなかった。
失うことを恐れているような抱擁だった。
「離して……。」
慌てて声を上げる。
しかし篤久は腕を緩めない。
むしろ、ほんの少しだけ強く抱き寄せた。
「どうして泣いてるんだ?」
その言葉に、ミサは息を呑む。
気付かれていた。
隠していたつもりだったのに。
「……篤、離して。」
「どうして泣いているのか聞いてる。」
低く静かな声。
怒っているわけではない。
ただ、誤魔化されたくないという意思だけが伝わってくる。
もう二人きりでは会わない。
そう決めただけなのに。
涙は勝手に溢れていた。
理由など、自分でも分かっている。
好きだから。
離れたくないから。
それでも、言えるはずがなかった。
ミサが黙ったままいると、篤久もまた何も言わなかった。
離したくなかった。
五年。
ようやく再び会えた。
やっと腕の中にいる。
それなのに。
今のミサは、まるで遠くへ行ってしまうような顔をしていた。
そのことが、どうしようもなく怖かった。
もし―――
抱き締められることすら嫌で泣いているのなら。
そう考えるだけで胸が締め付けられる。
それでも、今だけは離せなかった。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、ミサの涙が少し落ち着く。
そっと篤久の腕へ触れた。
「……篤。」
小さな声。
「帰るから……離して。」
「ダメだ。」
返事はあまりにも早かった。
迷いなど、一切なかった。
ミサは小さく息を呑む。
力で敵わないことは、誰よりも分かっている。
何度抜け出そうとしても、篤久の腕はびくともしない。
止まりかけていた涙が、また滲む。
そして、鼻をすすりながら、ようやく言葉を絞り出した。
「……篤、私……あず姫様を裏切ることはしたくない。」
消え入りそうな声だった。
けれど、篤久にははっきり届いた。
「……裏切る?」
思わず聞き返す。
意味が分からなかった。
「ミサ。何の話をしている?」
篤久は少し強引に、ミサの身体を自分の方へ向ける。
顔を見ようとするが、ミサは逃げるように胸へ額を押し付けた。
その仕草が愛しくて。
同時に、痛かった。
篤久はそっとミサを抱き込む。
今度は、ミサは拒まなかった。
それだけで、胸の奥に安堵が広がる。
「ミサ。」
できるだけ優しく呼ぶ。
「聞かせて。」
しばらく沈黙が続いた。
やがて観念したように、ミサが呟く。
「あず姫様の婚約者と二人で会うなんて……裏切り以外の何ものでもない。」
「……は?」
篤久の思考が止まった。
何を言われたのか理解できない。
「あず姫様の婚約者なんでしょ……篤は。」
ぎゅっと服を掴む小さな手。
顔は見えない。
けれど、泣きそうになっていることだけは分かった。
篤久は静かに息を吐く。
そして―――
「誰に聞いた?」
低い声が落ちた。
ミサの肩が小さく震える。
「と、東宮様……が。」
その瞬間。
篤久の中で全てが繋がった。
――やっぱり。
五年。
ようやく再会できたというのに。
よりにもよって、ミサに余計な誤解を残していくとは。
篤久は込み上げる怒りを必死に抑えた。
「あ、篤……?」
恐る恐る顔を上げるミサの姿を見て、篤久ははっとした。
違う。
怒りを向ける相手は、ここにはいない。
目の前にいるのは、五年ぶりに再び会えた大切な少女だ。
怯えさせたいわけではない。
篤久はゆっくりと息を吐き、表情を和らげる。
そして、ミサの頬に残った涙の跡へそっと指を伸ばした。
「……ごめん。」
小さく呟く。
「怖がらせるつもりはなかった。」
ミサは首を横に振る。
けれど、まだ不安そうな瞳をしていた。
篤久はその瞳を真っ直ぐ見つめる。
「ミサ。」
静かな声だった。
「あず姫様とは、婚約していない。」
蒼色の瞳に迷いはなかった。
「もちろん、他に婚約者もいない。」
「……え?」
ミサの目が大きく開く。
信じられないという表情だった。
「でも……東宮様が……。」
「あいつの言うことは真に受けるな。」
即答だった。
「むしろ、聞かなくていい。」
「あ、あいつって……?」
ミサが戸惑ったように瞬きをする。
篤久は何でもないことのように答えた。
「東宮だよ、東宮。」
「……と、東宮様を、あいつって。」
ミサの表情が固まる。
当然だった。
東宮とは、この国の次代を担う御方。
その方を「あいつ」などと呼ぶ者が、宮中にどれほどいるだろう。
普通ならば、不敬を問われてもおかしくない。
けれど。
篤久にとっては、それほど特別な存在なのだろう。
「そういえば……。」
ミサはふと、以前の会話を思い出す。
『優秀な文官がいないと政が回らない』
東宮がそう言っていた。
あれは冗談ではなかったのだろうか。
疑問が次々と浮かんでくる。
「あ、篤って……。」
ミサは恐る恐る尋ねた。
「一体、何者なの?」
「……え?」
篤久は目を瞬かせる。
今、その質問なのか。
思わず呆然としてしまう。
けれど。
目の前のミサはいたって真剣だった。
その真っ直ぐな瞳を見ていると、可笑しさが込み上げてくる。
しばらく見つめ合った後。
どちらともなく、吹き出した。
「あはは……!」
「だ、だって気になるし!」
五年ぶりだった。
ミサの笑い声を聞くのは。
その声を聞いただけで、張り詰めていた何かが少しだけほどけていく。
篤久は小さく笑いながら、棟へ視線を向けた。
「……座ろうか。」
ミサも素直に頷く。
二人並んで腰を下ろす。
あず姫の婚約者ではない。
その事実を知っただけで、ミサの胸に張りついていた重苦しいものが少しずつ消えていく。
――良かった。
その瞬間。
自分がどれほど安堵しているのかに気付き、ミサは戸惑った。
そんな資格などないと思っていたはずなのに。
篤久の隣にいることを、嬉しいと思っている。
その気持ちを認めることが、少しだけ怖かった。
しばらくして。
「少し待ってて、すぐ戻る。」
そう言い残すと、篤久は一度部屋の中へ戻っていった。
取り残されたミサは、瓦へ腰を下ろし、静かに夜空を見上げる。
夏の終わりを感じさせる夜風が、頬を優しく撫でていく。
五年前。
同じように、この人と夜空を見上げたことがあった。
けれど、あの時とは違う。
あの頃の篤久は、まだ幼さを残した少年だった。
そして自分も。
何も知らず、ただ一緒にいる時間が楽しいと思っていた。
それなのに。
五年という歳月を越えて再会した今も。
胸の奥にある想いだけは、少しも変わっていなかった。
ふと、夜空を一筋の光が駆け抜ける。
「あっ……。」
思わず声が漏れた。
「篤!見た?」
振り返る。
そこには、いつの間にか戻ってきた篤久が立っていた。
けれど。
その手には盆があり、もう片方の手には上着が抱えられている。
「流れ星。」
ミサの瞳は、まるで幼子のように輝いていた。
その姿を見た瞬間。
篤久の胸の奥が温かくなる。
五年前もそうだった。
ミサは、どんな小さなことにも真っ直ぐ喜ぶ少女だった。
「見てない。」
正直に答えると。
「えぇ!?」
ミサは本気で残念そうな顔をした。
その反応が可笑しくて、篤久は思わず笑う。
「そんなに驚くことか?」
「だって、流れ星だよ?」
「見たかったな。」
「え?」
「ミサが願い事をするところ。」
さらりと言われた言葉に、今度はミサが固まる。
「……え?」
篤久は何でもないように盆を置いた。
その横顔を見て、ミサの顔が少しずつ熱くなる。
「隣、座っていい?」
促され、ミサは小さく頷いた。
篤久が腰を下ろすと、持っていた上着をそっとミサの肩へ掛ける。
「夜は冷える。」
「あ……。」
自分の肩に残る温もり。
遅れて気付いた。
「これ……。」
「羽織っていて。」
「でも……。」
「風邪を引いたら困る。」
短い言葉。
けれど、その優しさが胸に染みた。
「ありがとう。」
小さく礼を言い、ミサは湯呑みを受け取る。
両手で包み込むように持ち、一口飲む。
「……温かい。」
ほっと息を吐く姿を見て、篤久の表情も自然と緩んだ。
しばらく。
二人の間には静かな時間が流れた。
沈黙が苦しくない。
ただ隣にいるだけで、満たされていく。
「何をお願いしたんだ?」
不意に篤久が尋ねる。
「へ?」
「流れ星に。」
その言葉で、ミサは目を見開いた。
「あっ……!」
そして。
「あぁ……忘れてた……。」
本気で悔しそうに肩を落とす。
その姿があまりにもミサらしくて。
篤久は堪えきれず笑った。
「そんなに大事な願いだったのか?」
「うん……たぶん。」
「たぶん?」
「だって、流れ星なんて久しぶりだったから……。」
そう言って、ミサは空を見上げる。
篤久も同じように夜空を見る。
「何か叶えたい願いでもあるのか?」
何気ない問いだった。
けれど。
ミサの表情が、ほんの一瞬だけ曇った。
篤久は見逃さなかった。
それでも。
ミサが隠したいのなら、無理に聞くつもりはなかった。
「…美味しいものいっぱい食べたい!」
明るく笑う。
作った笑顔だと分かっていたが、今はその笑顔を守りたかった。
「それくらいなら、叶えてやれそうだ。」
「え?」
ミサが首を傾げる。
「どうやって?」
篤久は空を見上げたまま、少しだけ笑った。
「明日……いや、もう今日か。」
そして。
「空いてる?」
ミサは目をぱちぱちと瞬かせた。
「えっ?」
ミサは目を瞬かせた。
「なんで…知ってるの?」
「ん?」
「私がお暇を貰ったこと。」
今度は篤久が驚く番だった。
まさか、そこを疑問に思われるとは思っていなかった。
自分はただ、また会うための口実として誘っただけだったから。
「…秘密。」
「えぇっ!」
まさか本当に時間が空いているとは。
胸の奥に、小さな喜びが広がる。
けれど、それを表に出すことはしない。
「じゃあ、決まりだな。」
「え?」
「辰の刻頃に迎えに行く。」
あまりにも自然に告げられ、ミサは慌てる。
「あ、あの……何をするの?」
「それも秘密。」
真顔で返され、ミサは思わず言葉に詰まる。
五年ぶりに会ったばかりなのに。
こんなにも自然に誘われるとは思っていなかった。
戸惑う気持ちと。
嬉しいと思ってしまう気持ち。
その二つが胸の中で入り混じる。
「じゃあ、決まりだ。」
篤久が微かに笑った。
その笑顔を見るだけで、ミサの胸はまた苦しくなる。
――駄目なのに。
そう思っているのに。
嬉しい。
その感情を隠すように、ミサは俯いた。
「あと……これ。」
篤久が懐から二冊の本を取り出す。
「これ……。」
見覚えのある一冊。
五年前に借りたままになっていた本だった。
「読んでないだろ。」
「えっ!?」
ミサは目を見開く。
「どうして分かるの?」
篤久は本を手に取り、少しだけ笑った。
「見れば分かる。」
「そんなので分かるの?」
「あぁ。」
実際には簡単なことだった。
本を開けば分かる。
最初の頁に挟んだ栞が、五年前から一度も動いていなかった。
けれど。
それを言えば、きっとミサは気にする。
だから言わない。
「この物語は、ここから面白くなる。」
そう言って差し出す。
ミサが受け取ろうと手を伸ばした瞬間だった。
ぐい、と腕を引かれる。
「えっ……?」
気付けば。
篤久の顔が、すぐ目の前にあった。
蒼色の瞳が、真っ直ぐ自分を見ている。
「……もしかして。」
低い声が落ちる。
「もう会わないようにしようと思ってた?」
心臓が跳ねた。
図星だった。
「な、なんで……。」
思わず漏れた声。
篤久は苦笑する。
「やっぱり。」
「……。」
ミサは何も言えない。
まさか気付かれているとは思わなかった。
「さっきから、ずっと逃げようとしている。」
「逃げてなんか……。」
反射的に否定する。
けれど。
その言葉に自分自身が一番傷付いた。
逃げている。
本当は。
篤久からではなく。
この想いから。
「ミサ。」
名前を呼ばれる。
優しい声だった。
だから余計に苦しい。
「五年前、オレはミサを探してた。」
その言葉に、ミサは息を呑む。
「突然いなくなって。」
「何も分からなくて。」
「もう二度と会えないと思っていた。」
静かな声。
けれど。
その奥にある寂しさが伝わってくる。
「だから……。」
篤久は少しだけ目を伏せた。
「今、こうして会えている時間を手放したくない。」
胸が締め付けられる。
そんなことを言われたら。
諦められなくなる。
ミサは慌てて視線を逸らした。
「……でも。」
小さく呟く。
「私は……。」
その先を言えなかった。
篤久は何も急かさない。
ただ静かに待つ。
その優しさが、また苦しかった。
そして。
不意に。
篤久の表情が僅かに歪む。
胸元へ手を当てた。
「……篤?」
「いや。」
短く答える。
けれど。
いつもの篤久とは違った。
呼吸が少し乱れている。
「何でもない。」
そう言いながら。
一歩、距離を取る。
ミサには分からなかった。
その理由が。
自分を遠ざけるためではなく。
近づきすぎないためだということを。
篤久は拳を握り締めた。
――薬は飲んだはずなのに。
身体の奥で湧き上がる衝動が、まだ消えない。
目の前にいる。
五年間、ずっと求め続けた少女。
抱き締めたい。
触れたい。
けれど。
今の自分がそれを望むことが、何より許せなかった。
「ミサ。」
平静を装う。
「もう遅い。」
優しく告げる。
「帰った方がいい。」
ミサの瞳が揺れる。
「……え?」
「明日、迎えに行く。」
「……うん。」
「気を付けて帰れ。」
そう言い残し。
篤久は逃げるように部屋へ戻っていった。
残されたミサは、その背中を見つめる。
なぜか―――
胸の奥に、小さな不安が残った。
「あ……。」
その時。
肩に掛けられたままの上着に気付く。
返しそびれていた。
そっと触れる。
まだ温もりが残っている。
そして、いつもの香りがした。
その香りに包まれるだけで。
胸が少しだけ満たされる。
けれど。
夜空を見上げた瞬間。
思い出してしまった。
朱雀の言葉を。
『女を抱いては取っ替え引っ替えしてるようだな。』
『とりあえず青龍は女に困らない。』
忘れたいのに。
忘れようとするほど、鮮明になる。
――そうだ。
あず姫様の婚約者ではなかった。
でも、それだけだ。
篤久には、自分以外にもきっと多くの女性がいる。
分かっている。
最初から分かっていたことだ。
それなのに。
どうして。
こんなにも胸が痛いのだろう。
ミサはそっと胸元へ手を当てた。
「……苦しい。」
そして無意識のまま。
篤久の上着を、ぎゅっと抱き締めた。




