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第二章 朱雀の目覚め 第十四話『静かな熱』

ミサの後を追うように、篤久と本成も宮廷へ戻った。


そのまま皇宮の奥の間へ向かおうとした、その時だった。


渡殿の先で、なほが静かに一礼する。


「藤原様、九条様、なぎの上様より、本日はこれにてお開きとの仰せにございます。」


穏やかな声に、篤久は足を止めた。


どうやら言伝てを預かっていたらしい。


本成と視線を交わし、小さく頷き合う。


「仕方ないね。」


「ああ。」


短く答え、二人は踵を返した。


そこへ、遅れて新太が戻ってくる。


肩を回しながら、大きく息を吐いた姿は、今日一日の激戦を物語っていた。


「新太。お帰り。お疲れ様。」


本成が柔らかく声を掛ける。


篤久も静かに頷き、労いの意を示した。


すると新太は、二人を見るなり大げさに肩を落とす。


「お前ら! 俺をこき使いすぎだろ!」


「主に篤久がね。」


本成は悪びれる様子もなく、さらりと言い放つ。


しかし当の篤久は、そのやり取りに一切反応しなかった。


どこ吹く風と言わんばかりに歩き出し、自室への廊を進んでいく。


「篤久! 今日のは一つ借りだからな!」


背中へ飛んできた新太の叫びに、篤久は振り返らない。


ただ左手を軽く上げ、それだけを返事とした。


それだけで十分だった。


先に現れた妖魔の討伐。


そして、なぎの上とあず姫から上級妖魔出現の報せを受け、途中で作戦を切り替えたこと。


すべては、ミサを守るため。


その一点だけを思い、剣を振るっていた。


やがて夜は更け、子の刻を過ぎる。


篤久は正門の門番たちへ労いの言葉を掛けると、静かに馬へ跨った。


蹄が石畳を鳴らし、ゆるやかに宮廷を後にする。


ふと夜空を仰ぐ。


昨日よりわずかに欠けた下弦の月が、群青の空に静かに浮かんでいた。


新月まで、あと七日――。


その淡い月明かりを見つめながら、篤久の脳裏には先ほどの出来事が鮮やかによみがえる。


神力を使い果たし、力なく倒れかけたミサ。


その小さな身体は、まるで助けを求めるように篤久の胸へ寄りかかった。


反射的に抱き止めた。


細く華奢な身体。


腕に伝わる温もり。


あの瞬間――離したくないと思った。


誰にも渡したくない。


このまま自分だけのものとして、永遠に傍へ閉じ込めてしまえたなら。


そんな醜い願いが、一瞬だけ胸をよぎる。


だが次の瞬間。


ミサは怯えたように身を引き、篤久から距離を取った。


その仕草が、胸へ鋭く突き刺さる。


――嫌われているのだろうか。


そう思うだけで、胸の奥が重く沈んだ。


篤久は、ミサの二の腕を支えた右手を静かに見つめる。


そこにはもう、彼女の温もりは残っていない。


ゆっくりと拳を握り締めた。


「……嫌われたくないなぁ。」


誰へ向けるでもない呟きが、夜風へ溶けて消えていく。


その時だった。


胸の奥が、じわりと熱を帯びる。


まるで身体の内側で何かが目を覚ますような、不穏な感覚。


篤久はわずかに眉を寄せた。


先ほどミサへ神力を分け与えたこと。


そして、妖魔との激戦。


思っていた以上に神力を消耗していたらしい。


今はまだ理性で抑え込める。


だが、丑の刻を迎えれば――青龍の代償は、さらに牙を剥くだろう。


「……厄介だな。」


静かに吐き出した声は、夜風にさらわれて消えていく。


冷たい風が火照る身体を撫でても、その熱は少しも鎮まらない。


篤久は手綱を握り直した。


月明かりだけが、その横顔を淡く照らしている。


誰も知らない葛藤を胸に抱えたまま、馬は静かな夜道を進み続けた。




※ ※ ※




どれほど夜が更けようとも、屋敷の主が戻れば、使用人たちは必ず門前まで迎えに出る。


篤久は、そのたびに申し訳なさを覚えていた。


「夜分まで、ご苦労だった。」


静かに労いの言葉を掛けると、飲み物だけを自室へ運ぶよう頼み、それ以上の世話は丁重に断る。


使用人たちが一礼して下がるのを見届けると、篤久は屋敷の最奥にある自室へと足を向けた。


着替えを済ませた頃、戸口の向こうから控えめな声が響く。


「若様、白湯をお持ちしました。」


「あぁ。」


運ばれてきた湯気立つ白湯へ目を向けると、篤久は穏やかに頷いた。


「もう今日は休んでくれ。」


その一言だけを残し、使用人を下がらせる。


静かに戸が閉まる音を聞くと、篤久は白湯の乗った盆と魔光石を手に取り、屋敷の屋根へ上がった。


夜風が頬を撫でる。


見上げた先には、昨日よりわずかに欠けた下弦の月が、澄み切った夜空に静かに浮かんでいた。


「……下弦の月、か。」


ぽつりと呟き、湯呑みを口元へ運ぶ。


思った以上に熱い白湯が喉を通り、冷え始めていた身体の奥までじんわりと温もりを広げていく。


篤久は小さく息を吐き、湯呑みを盆へ戻した。


冷ますように夜風へ晒しながら、もう一方の手で魔光石へそっと触れる。


淡い蒼白の光が静かに灯り、辺りを柔らかく照らした。


その光を見つめた瞬間、不意に五年前の記憶が胸によみがえる。


幼いミサが手のひらへ灯していた、小さな光。


夜闇の中でも優しく揺れていた、あの灯火だった。


「……変わらないな。」


思わず笑みが零れる。


昨日、そして今日。


たった二日しか経っていない。


それなのに、何年もの歳月を共に過ごしたかのような、不思議な充足感が胸にあった。


ミサが再び現れるまでの日々は、ただ政務と妖魔討伐を繰り返すだけの毎日だった。


何かが欠けていることには気付いていた。


けれど、その欠けていたものが何だったのか、今なら分かる。


――ミサだ。


ミサが戻ってきただけで、止まっていた時間が再び動き出した。


自分の人生には、やはりミサが必要なのだと、改めて思い知らされる。


冷め始めた白湯をゆっくり飲み干した、その時だった。


「そんなところで隠れていないで、こっちへ来たらどうだ。」


振り返ることなく声を掛ける。


屋敷の反対側の屋根。


夜陰に紛れて立っていた人影が、観念したように肩を竦めた。


「なぁんだ。気付いてたの?」


聞き慣れた声に、篤久は小さく息を吐く。


「この屋敷に結界が張ってあることくらい、お前も知っているだろう。」


「もしかして、入った瞬間から?」


「あぁ。」


短い返事に、本成は苦笑を浮かべた。


五年前。


――いつか、ミサが戻ってきた時のために。


篤久は屋敷を守る結界へ、さらに新たな術式を重ねた。


既存の結界を壊すことなく、もう一つの結界を重ねる。


言葉にすれば簡単だが、それほど精密な術を扱える者は都でもほとんどいない。


宮廷の大結界を除けば、同じことができる者はいないだろう。


「本当に規格外だね、君は。」


「そうか?」


篤久は首を傾げる。


本人にとっては、当たり前のことだった。


だからこそ、本成は苦笑するしかない。


「それより。」


そう言って篤久の隣へ腰を下ろすと、懐から小さな瓶を取り出した。


「頼まれていた薬。今飲めば、一日は持つよ。」


篤久は瓶を受け取り、ためらうことなく栓を抜く。


そのまま一息に飲み干した。


次の瞬間――。


「……順番を間違えた。」


苦々しい表情で呟く。


「あはははは!」


本成の笑い声が夜空へ響いた。


「白湯を残しておけば良かったのに。」


薬の強烈な苦味が口いっぱいに広がる。


篤久は空になった湯呑みを恨めしそうに見つめ、小さく眉をひそめた。


その珍しい反応がよほど可笑しかったのだろう。


本成は腹を抱えながら、しばらく笑い続けていた。


本成の笑い声は、静まり返った夜の屋根へいつまでも響いていた。


篤久は空になった湯呑みを見つめたまま、小さく息をつく。


口の中には、薬の強い苦味だけがいつまでも残っていた。


「……戻る。」


ぽつりと一言だけ残し、篤久は立ち上がる。


「え?」


本成がきょとんと目を瞬かせる間に、篤久は屋根から音もなく身を躍らせた。


ほどなくして再び姿を現した時、その手には新たな盆があった。


湯気を立てる白湯が、湯呑みに二つ。


月明かりに照らされ、白い湯気がゆらゆらと揺れている。


篤久はその一つを本成へ差し出した。


「……前より苦くなってないか。」


受け取りながら、本成は思わず笑みを浮かべる。


「違うよ。」


「?」


「前は、何を食べても何を飲んでも、君が味を感じていなかっただけ。」


静かな声だった。


篤久は湯呑みを口元まで運んだまま、その言葉に動きを止める。


本成は白湯を一口含み、ふっと息をついた。


「今の反応が普通なんだ。」


「……そうか。」


短く返した声は、どこか複雑だった。


思い返せば、五年前のあの日から。


何を口にしても、美味いとも不味いとも思わなかった。


腹を満たすためだけに食べ、喉を潤すためだけに飲む。


それだけの日々。


そんな毎日が当たり前になっていた。


「味を感じられるようになったってことは、それだけ心も戻ってきたってことだよ。」


本成は穏やかに微笑む。


その笑みには、安堵が滲んでいた。


篤久が最も荒れていた頃を知っているからこそ、その変化が何より嬉しかった。


「ミサに感謝しないとね。」


篤久は答えない。


白湯を一口含み、静かに夜空を見上げる。


それだけで、本成には十分だった。


「その薬が必要なくなるように、早く口説かないと。」


悪戯っぽく笑う本成に、篤久はじろりと視線を向ける。


「……そのために口説くわけじゃない。」


「うん、分かってる。」


本成は肩を竦め、くすりと笑う。


「でも、口説けたら必要なくなるのは事実だろ?性欲抑制剤なんて。」


篤久は何も言わず、湯呑みを傾けた。


温かな白湯が、薬の苦味を少しずつ洗い流していく。


やがて本成は表情を改めた。


「ところで、ミサのことだけど。」


その一言で、空気が変わる。


「やっぱり気になるね。」


「ああ。」


「朱雀の神力を使えた。それに、守護紋も…確認はできないけど、確かに現れているようだ。」


本成は腕を組み、静かに考え込む。


「それなのに、守護者として認識できなかった。」


篤久も小さく頷く。


「普通なら、守護紋を宿した時点で守護者として認識できるはずだ、玄武の神力なら。」


「前例がないんだよ。」


本成は困ったように息をつく。


「守護者じゃないのに守護紋を持つ者なんて、少なくとも僕は聞いたことがない。」


「……何か条件があるのか。」


「あるいは、僕たちの知らない例外か。」


二人は知る限りの文献や伝承を思い返す。


だが、どれだけ考えても答えは見つからない。


やがて本成は苦笑した。


「駄目だね。今考えても結論は出そうにない。」


「無理に急ぐ必要はない。」


篤久の言葉に、本成も頷く。


「明日にでも蔵へ行って調べてみるよ。」


そう言った途端、本成は大きく欠伸を漏らす。


「あー……もう限界。帰ろうかな。」


眠そうに目を擦る姿に、篤久はわずかに口元を緩めた。


「そうしろ。早く帰って寝ろ。」


「そうだね。」


苦笑混じりに立ち上がると、本成は軽く手を振る。


「おやすみ。」


「ああ。」


その返事を聞くと、本成は屋根を軽やかに蹴り、夜の闇へと姿を消した。


静寂が戻る。


篤久は一人、屋根の上へ残された。


手の中の湯呑みから立ち上る湯気を眺めながら、静かに白湯を口へ運ぶ。


身体は温まる。


それでも胸の奥を満たすことはできなかった。


眠気は訪れない。


代わりに、心を占めているのは、ただ一人の少女の姿だけだった。


――会いたい。


その想いが胸の奥から静かに込み上げる。


今日だけで、何度その姿を思い浮かべただろう。


五年という歳月を埋めるには、あまりにも短い二日間。


それでも篤久にとっては、その二日だけで十分だった。


止まっていた時間が、ようやく動き始めたのだから。


記憶は戻ったのだろうか。


自分のことを、思い出してくれたのだろうか。


戦いの最中に見せた表情。


腕の中で見上げてきた瞳。


そして、あの時わずかに震えていた小さな身体。


一つひとつを思い返すたび、胸の奥が温かく満たされていく。


篤久は冷め始めた白湯を静かに飲み干した。


「……会いたいな。」


誰へ向けるでもない独り言が、夜風に溶けて消える。


その時だった。


ふいに屋敷を包む結界が、小さく揺らぐ。


誰かが結界の内へ足を踏み入れた合図だった。




※ ※ ※




一方、その頃――。


思いがけず、なぎの上から暇を賜ったミサは、自室へ戻る渡殿を歩いていた。


けれど、その足取りはどこか覚束ない。


東宮とあず姫が交わしていた言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


――婚約者。


たったその一言が、胸の奥へ深く突き刺さっていた。


途中、なほが何か声を掛けてくれた気がした。


けれど、返事をしたのかさえ覚えていない。


気付けば自室へ辿り着き、その場へ力なく座り込んでいた。


「あず姫様の……婚約者……。」


震えるような声が、誰もいない部屋へ消えていく。


眠っていた五年の間に、多くのことが変わっていて当然だった。


五年。


それは人の暮らしも、人の想いも、大きく変えるには十分すぎる歳月だ。


主であるあず姫に婚約者がいても、不思議ではない。


すでに嫁いでいたとしても、おかしなことではなかった。


それでも――。


その相手が篤久だと知った時。


胸の奥が、音を立てて軋んだ。


「……駄目。」


小さく呟き、自分へ言い聞かせる。


そんなことを思ってはいけない。


あず姫は、自分にとって命の恩人なのだから。


生まれて間もなく朱雀の巫女と定められたミサは、人とは異なる髪色を理由に、母とともに里を追われた。


人里離れた山奥で、母と静かに暮らした日々。


けれど六歳の冬、母は病に倒れ、その命を落とした。


そして同じ日、朱雀はミサの欲を喰らい、深い眠りへと誘った。


次に目を覚ました時、傍にいてくれたのは、なぎの上とあず姫だった。


誰にも頼ることのできなかった自分へ、二人は温かな手を差し伸べてくれた。


朱雀の巫女だからと利用することもなく、宮中では小間使いとして暮らせるよう取り計らい、一人の少女として生きる道を与えてくれた。


だからこそ誓ったのだ。


この命が尽きる、その日まで。


二人へ忠義を尽くすと。


それが自分にできる、唯一の恩返しなのだから。


それなのに。


「……好きになっちゃった。」


ぽつりと零れた言葉は、誰にも届かない。


朱雀とともに命を終える宿命を背負う自分は、誰かと深く関わるべきではない。


そう思い、男装を続けた。


神力が満ちている時は、魔力で髪を黒く染め、短く切り、本当の姿を知る者は限られていた。


それでも篤久だけは違った。


初めは警戒していた。


隠していた秘密を、次々と見抜かれてしまったから。


けれど気付けば、その真っ直ぐな優しさに触れるたび、心は少しずつ惹かれていた。


報われることのない恋だと分かっていた。


それでも、この想いだけは止めることができなかった。


「……どうして。」


ふと指先が唇へ触れる。


神力を分け与えるために交わした口づけ。


理由は分かっている。


あれはただ、二人の命に従っただけ。


それでも、胸の鼓動は思い出すたび速くなる。


『閨では乙女は抱かれませんし、口付けすらされないと聞いたことがありますわ。』


以前、なほが話していた言葉が蘇る。


「どうして……口付けだったんだろう。」


考えても答えは出ない。


そっと自分の髪を摘まみ、寂しそうに微笑んだ。


「……どうしよう。」


新月まで、あと七日。


それまでに神力が戻る保証はない。


だからといって、また篤久から神力を分けてもらうことなど考えたくなかった。


――よりにもよって、主の婚約者に。


その考えだけで、胸が締め付けられる。


「あず姫様……。」


恩人を裏切るようなことだけは、決してしたくない。


そう願えば願うほど、篤久を想う心が苦しかった。


深く息を吐き、そのまま仰向けに寝転ぶ。


開け放った遣戸の向こうには、静かな夜空。


ぽつりと浮かぶ月が、どこか自分と重なって見えた。


五年前で時が止まったまま、取り残されてしまったようで。


自然と目頭が熱くなる。


その時だった。


「あ……。」


不意に、一冊の本が目へ留まる。


五年前、篤久から借りたままになっていた本だった。


借りたその日に眠りにつき、一頁も開くことなく今日まで時が過ぎてしまった。


「返さないと……。」


それだけではない。


まだ、きちんと礼も伝えられていない。


本を返して、お礼を言う。


それだけ。


それだけ済ませたら、もう二人きりでは会わない。


そうすれば、この想いも、いつか諦められるはずだから。


ミサは本を胸へ抱きしめ、静かに立ち上がった。


夜の静けさに溶けるように、その小さな背中は宮廷をあとにした。




※ ※ ※




篤久はゆっくりと顔を上げる。


その気配を、間違えるはずがない。


五年間、一度たりとも忘れたことのない気配。


自然と口元が緩む。


「……ミサ?」


静かに振り返ると、月明かりの向こうに、一つの人影が立っていた。


月明かりを背に、その人影は静かに立っていた。


全身を黒いシノビ装束に包み、深く被衣を被っている。


手のひらには、小さな灯がひとつ。


夜風に揺らめく淡い光は、五年前と何ひとつ変わっていなかった。


篤久の胸が、小さく高鳴る。


「……ミサ。」


その名を呼ぶと、人影はゆっくりと頷いた。


「もしかして、この屋敷……結界が張ってある?」


少し困ったような声だった。


「あぁ。」


篤久が短く答えると、ミサは「やっぱり」と小さく笑う。


「入った瞬間、何だか誰かに見られたような気がして。」


「気のせいじゃない。」


篤久は穏やかな表情で答えた。


「結界に触れた時点で分かる。」


「そうなんだ……。」


感心したように辺りを見回すミサを見つめながら、篤久はそっと立ち上がる。


五年ぶりに再会したというのに、今日だけで何度その姿を目にしただろう。


それでも足りない。


どれだけ見つめても、見飽きることはなかった。


「どうした?」


篤久は静かに尋ねる。


「こんな夜更けに。」


五年前より少し低くなった篤久の声音に、ミサは思わず胸を鳴らす。


視線を泳がせ、小さく指先を絡めた。


「あっ、あのね……。」


言葉を探すように口を開いては閉じる。


やがて意を決したように歩み寄ると、被衣へ手を掛けた。


さらり、と。


黒髪が月明かりを受けて静かに揺れる。


五年前より少しだけ大人びた面影。


それでも、篤久にはあの日の少女のままだった。


「ちゃんと、お礼を言えてなかったなって思って。」


照れくさそうに笑いながら、篤久を見上げる。


「さっきは助けてくれて、ありがとう。」


その笑顔を見た瞬間。


篤久の中で張り詰めていた何かが、音もなくほどけた。


考えるよりも早く、身体が動く。


気付けばミサをそっと抱き寄せていた。


「えっ……?」


突然のことに、ミサの身体がぴたりと固まる。


ふわりと風が吹き抜け、どこか懐かしい花の香が篤久の鼻先をくすぐった。


腕の中にいる。


五年前には叶わなかった温もりが、今は確かにそこにあった。


篤久は静かに目を閉じ、小さく息をつく。


「五年前は……受け止めきれなかった。」


耳元で、穏やかな声がこぼれる。


「あの頃の俺には、ミサを支える力がなかった。」


腕に込める力は優しいまま、篤久は続けた。


「でも、今なら違う。」


少しだけ身体を離し、まっすぐミサを見つめる。


蒼色の瞳には、月明かりが静かに映っていた。


「今は支えられるようになっただろ?」


その言葉に、ミサははっと息をのむ。


戦いのあと、神力を使い果たして倒れかけた自分。


篤久の腕が受け止めてくれた温もり。


あの瞬間のことが鮮やかによみがえった。


思わず顔を上げる。


近い。


思っていたよりも、ずっと近い距離で篤久が自分を見つめていた。


頬が熱くなる。


慌てて身を引こうとするが、その動きを止めるように篤久がそっと両腕を支えた。


決して逃がすまいとする力ではない。


転ばないよう支えるような、そんな穏やかな手だった。


「思い出したんだろ?」


優しく問いかける声が降りてくる。


「……五年前のこと。」


図星だった。


ミサの頬はみるみる朱に染まり、慌てて両手で顔を隠す。


「な、なんで分かるの……?」


小さく震える声に、篤久は思わず笑みを浮かべた。


「一つ、確かめたいことがある。」


「えっ?」


「名前。」


「……名前?」


篤久は静かに頷く。


「呼んで。」


その一言に、ミサは目を瞬かせた。


何を言われているのか分からず、しばらく篤久を見つめる。


やがて、おずおずと顔を上げ、小さく唇を開いた。


「……篤?」


その呼び名が耳に届いた瞬間。


篤久の表情が、くしゃりと崩れた。


安堵と喜びが入り混じったような笑みだった。


その時。


夜風が二人の間を静かに通り抜ける。


――チリン。


小さな鈴の音が響いた。


篤久の瞳が、わずかに揺れる。


五年前。


雪の降る夜にも聞いた音。


あの日、腕の中へ飛び込んできた少女が身につけていた、忘れることのできない音。


五年経っても。


この音だけは、忘れられなかった。


「……やっぱり。」


誰にも聞こえないほど小さく呟くと、篤久はもう一度そっとミサを抱き寄せる。


「えっ、えっ?」


戸惑うミサの声が耳元で弾む。


それでも篤久は静かに肩へ額を預け、目を閉じた。


「会いたかった……。」


掠れるような声だった。


五年間、何度も胸の奥で繰り返した想い。


「……ずっと。」


その一言に込められた歳月の重みを感じ、ミサの目頭が熱くなる。


言葉にならない想いが胸いっぱいに広がる。


抱き締める腕の温もりも、肩越しに聞こえる鼓動も、夢ではない。


――ようやく、会えた。


そう思った瞬間、ミサはそっと目を閉じた。


静かな夜が、二人を優しく包み込んでいた。

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