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第二章 朱雀の目覚め 第十三話『波紋』

―――あの妖魔、「見つけた」って言った……?


宮廷へ戻る道を急ぎながらも、その言葉だけがミサの胸に重く残っていた。


あれは獲物を見つけたという意味だったのか。


それとも――。


三つの瞳と視線が交わった、あの一瞬。


思い返すたび、背筋を冷たいものが這い上がる。


篤久があと少しでも遅れていたら。


そう考えただけで、思わず肩が震えた。


「……なぎの上様。」


小さく呟き、歩みを速める。


早く無事な顔を見たい。


その一心だった。


やがて後宮へ辿り着くと、廊下の先に見慣れた姿が立っていた。


「あぁ、ミサ!」


なほが安堵したように駆け寄ってくる。


「なほ!」


「ご無事で何よりですわ。」


その笑顔を見て少しだけ胸を撫で下ろしたものの、ミサはすぐ本題を口にした。


「なぎの上様は!?」


その問いに、なほの表情が一瞬だけ曇る。


「……。」


嫌な予感が胸をよぎる。


返事を待つこともなく、ミサは奥へ駆け出した。


「あっ、ミサ!」


慌てて呼び止める声も耳に入らない。


「ど、どうしましょう……。」


困ったようななほの声だけが廊下へ残った。


やがて、なぎの上の閨の前へ辿り着く。


几帳の向こうでは灯火が静かに揺れ、馴染み深い香が漂っていた。


人影は二つ。


――あず姫様がお見舞いに来られているのかな。


そう思ったミサは、声を掛けることも忘れ、勢いよく几帳を払い上げた。


「なぎの上様!」


静まり返る室内。


一瞬遅れて、穏やかな男の声が響いた。


「……ミサ。久しぶりだね。」


ミサの動きがぴたりと止まる。


恐る恐る視線を向けると、寝台ではなぎの上が静かな寝息を立てている。


その傍らにはあず姫。


そして、その向かいに端然と座る一人の青年。


黄金色の瞳を持つ皇族――東宮だった。


「えっ……!」


全身から血の気が引く。


「と、東宮様!?」


慌てて几帳を下ろし、その場へ平伏した。


「も、申し訳ございません! 失礼いたしました!」


室内へ、小さな笑い声が響く。


「五年経っても変わらないね。」


柔らかな口調。


だが、その黄金の瞳から放たれる威厳は隠しようもない。


ミサはますます頭を下げた。


「恐れ入ります……。」


目覚めてから五日。


まだ正式な挨拶すら済ませていない。


そんな自分が、東宮の私室同然の場所へ飛び込んできてしまったのだ。


穴があれば入りたかった。


その時だった。


「お兄様。」


静かな声が空気を切る。


「ミサをあまり困らせないでくださいませ。」


あず姫だった。


東宮は肩を竦め、苦笑する。


「困らせるつもりはなかったんだけどね。」


「十分困っておりますわ。」


「そうかな?」


「そうです。」


兄妹の穏やかな応酬に、室内の空気が少しだけ和らぐ。


先ほどまで張り詰めていた威圧感も薄れ、ミサはようやく肩の力を抜いた。


すると東宮は、くすりと笑みを零す。


「私がお前を叱っているように見えてしまったかな。」


「い、いえ……。」


慌てて首を横に振る。


「そのようなことは……。」


「安心しなさい。」


東宮は穏やかな声で続けた。


「君が無事に目覚めてくれたことは喜んでいる。」


その一言だけで、自分の置かれている立場を理解する。


東宮は、自分の存在を快く思っていない。


それでも――


「……ありがとうございます。」


そう返す他なかった。


深く頭を下げるミサを見つめ、東宮は満足そうに微笑んだ。


その様子を見ていたあず姫が、呆れたように息を吐く。


「お兄様。急に優しい顔をなさるから、ミサが余計に緊張しておりますわ。」


「そうかな?」


「ええ。先ほどまでの威圧感が嘘のようですもの。」


「皇族としての顔と、兄としての顔は使い分けねばならないからね。」


「便利なお立場ですこと。」


「褒め言葉として受け取っておこう。」


「あら。嫌味でしたのに。」


二人は笑顔のまま言葉を交わす。


その笑みとは裏腹に、一歩も譲らない。


五年前から変わらない兄妹のやり取りだった。


ミサはひれ伏したまま、思わず目をぱちぱちと瞬かせる。


――本当に仲が良いの……よね?


そう思った矢先だった。


東宮が何気ない口調で言う。


「それにしても、優秀な文官を一人失ってしまったのは痛かったな。」


「あら。一人いなくなったくらいで行政府は回らないのかしら?」


「残念ながら、その一人が規格外だったんだよ。」


東宮は肩を竦める。


「だから早く返してくれないかな。」


「まぁ。」


あず姫は優雅に扇を口元へ添えた。


「その本人に戻る気がないかもしれませんわ。」


「婚約者の傍から離れたくないのかな?」


東宮はさらりと言って笑う。


「私としては、とても優秀な義弟が一刻も早く欲しいところなんだけど。」


「あら、お兄様。」


あず姫の笑みが一層深くなる。


「お兄様が欲しいのは優秀な義弟ではなく、藤原家の頭脳と後ろ盾でしょう?」


「もちろん、それも欲しい。」


東宮は悪びれる様子もない。


「けれど、可愛い妹に優秀な夫をと思う兄心も本当だよ。」


「まぁ!」


あず姫は肩を震わせるように笑った。


「そんな兄心は捨てておしまいなさいませ。それが一番、妹のためになりますわ。」


「あははは。」


東宮も声を上げて笑う。


「私の妹は、本当に素直じゃない。」


「おほほほ。」


あず姫も負けじと笑みを返す。


「お兄様ほどではございませんわ。」


笑顔のまま繰り広げられる舌戦。


五年前と何一つ変わらない光景だった。


ミサは恐縮しながら二人を見比べる。


けれど、一つの言葉だけが胸に引っ掛かっていた。


――婚約者……?


まさか。


篤のこと……?


胸の奥が、ちくりと痛んだ。


その時――。


寝台の上で、小さく布擦れの音が響いた。


「あーもう……。」


眠たげな声が静かな室内に落ちる。


「煩くて、ゆっくり眠れないじゃないの。」


ゆっくりと身を起こしたなぎの上は、少し乱れた髪をかき上げながら、東宮とあず姫を交互に見つめた。


その視線を受け、先ほどまで笑顔で言い合っていた二人は、ぴたりと口を閉ざす。


「人が神力を使い果たして休んでいる横で、よくそんなに話が弾むものね。」


呆れたように息をつくなぎの上。


東宮は苦笑しながら肩を竦めた。


「いや……久しぶりだったものだから、つい。」


「あら。」


あず姫がすかさず東宮へ視線を向ける。


「話を広げたのは、お兄様ではございませんか。」


「おや? そうだったかな。」


「ええ、間違いなく。」


二人が再び言葉を交わそうとした、その時だった。


「はい、そこまで。」


なぎの上が静かに言い放つ。二人は揃って口を閉じた。


「ミサ。顔を上げなさい。」


「なぎの上様……。」


恐る恐る顔を上げる。


漆黒の瞳が優しく細められた。


なぎの上には、ミサの顔色がすっかり失われているように見えた。


だが、それを口にすることはしない。


「ミサ。妖魔も退治したことだし、もう大丈夫だから、あなたは下がりなさい。明日は休んで良いから。」


「……はい。」


頭を下げる。


だが胸の奥は妙にざわついていた。


妖魔の言葉。


そして婚約者という言葉。


どちらも嫌なほど耳に残って離れない。


「失礼致します。」


静かに部屋を後にする。


ミサの姿が見えなくなると、なぎの上は東宮をじろりと睨んだ。


だが、なにか言う前に東宮が先に口を開く。


「なぎ!思ったより平気そうだね!」


「……まさか、ミサの前で篤久との話を出されるとは思いませんでしたわ。」


「どこから起きてたんだい?君は。」


「話を逸らさないで下さいませ。貴方がミサを好んでおられないことは存じておりますが、篤久とあずの婚約の話など、もう何年も前に無くなったことではありませんか。」


「私は諦めてないのだけれどなぁ。」


東宮が両手を上げる。


しかし二人の追及は止まらない。


「篤久は既に藤原家の跡取りを放棄しておりますし、後ろ盾は無理かと存じます。」


「何より、篤久とは子も望めませぬ。」


降参したはずなのに容赦なく責められ、東宮は思わずたじろいだ。


その後もしばらく二人から攻め立てられ続ける。


そして、それぞれが胸に別の思いを抱えたまま、夜は静かに更けていった―――。




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