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第二章 朱雀の目覚め 第十二話『動き出す運命』

戌の刻を半刻ほど過ぎた頃。


宮廷内の食事処では、篤久、本成、新太の三人が夕餉を囲んでいた。


「おかわりお願いしまーす!」


元気よく茶碗を差し出す新太に、すでに食事を終えていた篤久と本成は、呆れたように顔を見合わせる。


「……まだ食べるのか?」


篤久が半ば感心したように呟くと、本成も苦笑を浮かべた。


「神力もま(・)だ(・)使ってないのに、よくそんなに入るよね。」


わざと「まだ」を強調する。


明らかな挑発だった。


だが、新太にはまるで通じていない。


「だから悔しいんだって!」


大盛りの飯を頬張りながら、新太は口を尖らせる。


「今日で物忌みも終わりなのにさ!」


「亥の刻を過ぎるまでは役立たずだけどね。」


本成が涼しい顔で追い打ちをかける。


「うるさい!」


新太は不満そうに睨み返したものの、すぐに箸を動かし始めた。


その様子を見て、篤久は小さく息を吐く。


「新太。今日は物忌みで魔力が使えないんだから、食べ過ぎると動けなくなるぞ。」


風属性である新太は、魔力による身体強化を得意としている。


物忌みの間はその恩恵を受けられないため、本来の俊敏さを発揮できない。


「あー、分かってる分かってる。」


軽い返事だった。


だが、その直後。


「今日は何ヶ所かに妖魔が出るんだろ? 一番遠い場所は篤久な!」


「……は?」


篤久が眉をひそめる。


「俺が飛べないんだから、魔馬で行けるお前しかいないだろ。」


「そんな話、あず姫様から聞いていないが。」


「ああ。」


本成が静かに頷く。


「篤久はミサに気を取られて聞いてなかったんじゃない?」


にやり、と口元が緩む。


篤久は露骨に顔をしかめた。


「余計なことを言うな。」


ちょうどその時。


給仕の女官が、新太の前へ山盛りの飯を置いた。


「ありがとうございます。」


礼を言ったのは、なぜか本成だった。


その瞬間――。


三人の表情が同時に変わる。


空気が震えた。


遠く離れた場所で、妖気が膨れ上がる。


「本成!」


篤久が鋭く声を飛ばす。


本成は即座に床へ片手をついた。


「玄武の名にかけて――『探知《バスカル》』」


神力が静かに広がる。


波紋のように皇宮全体を駆け巡り、本成は目を閉じて意識を集中させた。


新太も勢いよく立ち上がる。


「くそっ! 予知より早いじゃねぇか!」


飯を頬張ったまま叫ぶ姿はいつも通りだったが、その瞳には緊張が宿っていた。


「まだ半刻以上あるだろ!」


本成の眉間に深い皺が刻まれる。


そして。


ゆっくりと目を開いた。


「――『示せ(デノタ)』」


目の前に光の地図が浮かび上がる。


その上に、赤い光が五つ灯った。


「五ヶ所!?」


新太が息を呑む。


だが、本成の表情はさらに険しさを増していた。


「……この地図に映るのは、中級以上の妖魔だけだ。」


食事処に重苦しい沈黙が落ちる。


つまり、確認できるだけで五体。


下級妖魔まで含めれば、それ以上現れている可能性が高い。


篤久は地図を一瞥すると、迷いなく最も遠い一点を指差した。


「俺はここへ向かう。」


北西。


宮廷から最も離れた地点だった。


続いて残る印へ視線を移す。


「本成。この三ヶ所を頼む。」


近距離に集まる三つの印を示す。


「『沈静《ディスカンサ》』なら届くはずだ。」


本成は静かに頷いた。


『沈静《ディスカンサ》』――。


玄武の守護者だけが扱える拘束術。


妖魔の動きを封じ、その場へ縫い留める術である。


だが、同時に複数体を拘束するには莫大な神力を消耗する。


長時間は維持できない。


「新太は『標的《ベルサーリオ》』が届く位置まで移動しろ。」


「了解!」


「物忌みだろうが何だろうが、神力くらい絞り出せ。」


「言われなくても分かってる!」


そう叫ぶ新太の顔から、いつもの軽さは消えていた。


本成の拘束が解ける前に仕留めなければならない。


三人とも、それを理解している。


「行くぞ。」


篤久が踵を返す。


新太もすぐに後を追い、二人は一刻を争うように食事処を飛び出した。


その背中を見送ると、本成は再び床へ手をつく。


静かに息を整え、目を閉じる。


「玄武の名にかけて――」


神力が足元から広がっていく。


「『沈静《ディスカンサ》』」




※ ※ ※




「……ミサ、ミサ! 起きてくださいませ!」


必死な声とともに身体を揺さぶられ、ミサは勢いよく身を起こした。


一瞬、視界がぐらりと揺れる。


だが次の瞬間、複数の妖気を感じ取り、反射的に立ち上がった。


「大丈夫ですか?」


心配そうに見上げるなほへ、小さく微笑み返す。


しかし、その表情はすぐに引き締まった。


「妖魔の気配……。」


胸の奥がざわつく。


感じ取れるだけでも、これまでにない数だった。


「あず姫様の御予知よりも早く妖魔が現れたのです!守護者様方は、すでに討伐へ向かわれました!」


「そう……。」


ミサは静かに頷くと、御簾の向こうにいる二人へ深く頭を下げた。


「遅ればせながら、外へ出ることをお許しください。」


「駄目よ。」


返事は一瞬だった。


思わずミサは顔を上げる。


「ですが……。」


「まだ亥の刻になっていないわ。」


「けれど、妖魔はすでに――」


「それは本命ではない。」


ぴしゃりと言い切られ、ミサは言葉を失う。


納得はできなかった。


だが、その直後。


感じていた妖気が、次々と消えていく。


「あら、少し減ったわね。」


あず姫が静かに目を閉じる。


「新太の『標的《ベルサーリオ》』が届いたようね。」


本成の拘束に合わせ、新太が妖魔を討ち始めたのだ。


それでも胸騒ぎだけは消えない。


恐る恐る口を開く。


「あの……本命とは……。」


なぎの上とあず姫が静かに視線を交わす。


そして、同時に告げた。


「上級妖魔よ。」


「えっ……?」


「しかも宮廷のすぐ近くへ現れる。」


その一言に、ミサの背筋へ冷たいものが走る。


結界は宮廷へ近づくほど強くなる。


その結界をものともせず接近できるということは、それだけ強大な妖魔だということだった。


「現れるのは『風魔』と呼ばれる上級妖魔。」


その名を聞いた瞬間、ミサは自分がここへ残された理由を悟る。


「……火属性の私が向かうため、ですね。」


「そういうこと。」


短く頷く二人。


しかし、不安は拭えなかった。


「……私の神力で、本当に大丈夫でしょうか。」


篤久から神力を分け与えられたとはいえ、朱雀の力は衰え続けている。


上級妖魔を討てる保証など、どこにもない。


そんなミサへ、なぎの上は穏やかに微笑んだ。


「結界はまだ崩壊していない。」


あず姫も静かに続ける。


「簡単には宮廷へ踏み込めないわ。」


そして二人は顔を見合わせ、声を揃えた。


「「その隙に叩きのめす。」」


思わずミサは吹き出した。


昔から変わらない。


息が合っているのか、張り合っているのか分からない二人だった。


「……はい。」


返事をしたものの、不安が消えたわけではない。


上級妖魔は人へ取り憑かない。


魂そのものを喰らう。


もし宮廷へ侵入されれば、取り返しのつかない被害が出る。


だからこそ。


自分が止めなければならない。


その時だった。


空気が変わる。


冬の冷気とは違う。


肌を這うような禍々しい気配が、皇宮全体を覆い尽くした。


息が詰まる。


重く濁った妖気が、辺りを支配する。


「来たわ!」


御簾が勢いよく上がる。


「ミサ! 手を!」


なぎの上が手を差し伸べた。


能力を使うつもりだ。


ミサは迷わずその手を取る。


だが、先に術を発動したのはあず姫だった。


「麒麟の名のもと、時を駆ける――『未来《マスタバル》』」


金色の光が辺りを包む。


あず姫は未来を見据えたまま叫んだ。


「宮廷正門前! 距離は近い! 三人喰われる!」


ミサの心臓が大きく跳ねる。


「ミサ! 一分で行けるわね!」


「はい!」


「麒麟の名のもと、時を駆ける――『巻き戻せ(アルタジオン)』」


世界が大きく歪む。


視界が回転し、身体が宙へ浮く。


一分前の過去へ。


次の瞬間。


どんっ、と畳へ叩きつけられた。


そして、なぎの上の姿が掻き消える。


「ミサ! 行きなさい!」


あず姫の叫びを背に、ミサは一気に駆け出した。




※ ※ ※




正門前へ飛び出した瞬間、妖気が爆発的に膨れ上がった。


ミサは地面へ手をかざす。


「朱雀の名の元にあなたを浄化します! 『浄化《レイニ》』」


炎が奔る。


まだ姿を現していない妖魔へ向かって。


しかし、手応えはない。


それでも止められなかった。


地面が大きく割れる。


黒い泥のようなものを撒き散らしながら、巨大な顔がゆっくりと姿を現した。


三つの目。


焦点の合わない瞳。


人の形をしているはずなのに、人ではない。


本能が警鐘を鳴らす。


ミサは術を撃ち続けた。


だが、核が見えない。


致命傷を与えられない。


その間にも、神力だけが削られていく。


――早くしないと……!


『……み……つ……けた……』


「えっ?」


三つの瞳が、ゆっくりとミサを捉える。


その瞬間だった。


神力が尽きる。


朱色だった髪が黒へと戻り、膝から力が抜け落ちた。


術が消える。


風魔が完全に姿を現した。


巨大な口が開く。


ミサを丸ごと飲み込もうと迫る。


「あっ……」


そして見えた。


口の奥。


妖魔の核。


――本成の『探知《バスカル》』だ。


その刹那――


「青龍の名の元、お前を滅する。」


聞き慣れた声。


夜を裂くような青白い閃光が走った。


一拍遅れて轟音が響く。


風魔の身体が中央からずるりと裂けた。


そして断末魔を上げながら崩れ落ちる。


その中心に立っていたのは――


刀を振り下ろしたままの篤久だった。


「……篤。」


「ミサ! 大丈夫か?」


心から安堵した声だった。


篤久は刀を鞘へ収めると、そのまま駆け寄ってくる。


息が少し荒い。


急いで駆け付けてくれたのだと、ミサは気付いた。


差し伸べられた手を見つめ、恐る恐る自分も手を伸ばす。


けれど篤久は、その手を取らなかった。


代わりに、そっとミサの二の腕を掴む。


「っ――」


ぐいっと力強く引き上げられる。


神力を使い果たした身体は支えきれず、そのまま前へ傾いた。


「あっ……!」


倒れる――。


そう思った瞬間だった。


爽やかな香りがふわりと鼻先を掠める。


気付けば篤久の腕が、しっかりと身体を支えていた。


「大丈夫?」


至近距離から覗き込まれ、ミサの心臓が大きく跳ねる。


慌てて篤久の胸を押し、後ろへ飛び退いた。


「えっ、あっ、うん! 大丈夫!」


思わず突き放すような形になってしまう。


だがミサ自身は気付いていない。


胸の前へ上げたままの両手が、


『それ以上近付かないで』


そう拒んでいるように見えてしまうことに。


篤久は一瞬だけ目を伏せた。


ほんの僅かに傷付いたような表情。


だがすぐに小さく息を吐き、何事もなかったように口を開く。


「ミサ……聞きたいことがあるんだけど。」


「えっ?」


恐る恐る顔を上げる。


真っ直ぐ自分を見つめる蒼色の瞳と目が合った。


その瞬間、胸がまた大きく鳴った。


トクン――。


五年前と何も変わらない。


その瞳を見ているだけで、胸が苦しくなる。


本当は聞きたいことがあった。


五年前のこと。


自分と篤久のこと。


けれど、それを口にする勇気が出ない。


誤魔化すように、ミサは慌てて口を開いた。


「わ、私も聞きたいことがあるの!」


思わぬ返しに、篤久は一瞬だけ目を見開く。


しかしすぐ、小さく笑った。


「なに? 先に聞くよ。」


思いもよらない返事だった。


「へっ? あっ、えーと……あ、あのね!」


必死に話題を探す。


そして咄嗟に思いついたことを口にした。


「篤は術を使わないのかなーって! さっきも技だけで倒しちゃったし!」


篤久はぽかんとした顔をしたあと、苦笑した。


「なんだ。そんなことか。」


「それは――」


説明を始めようとした、その時だった。


遠くから馬の蹄の音が響く。


篤久が振り返る。


ミサも思わず、その横から顔を覗かせた。


「本成か。」


二人の少し手前で馬が止まる。


本成は手綱を引くと、そのまま軽やかに下馬した。


額には汗が滲み、顔色もあまり良くない。


『探知《バスカル》』を維持し続けていた負担は、想像以上だったのだろう。


「二人とも! 良かった、無事で! 『探知《バスカル》』が間に合ったみたいだね。」


「ああ。ミサが押さえ込んでくれていたからな。」


篤久が答えると、本成は安堵したように微笑んだ。


そして、神力を使い果たし、朱色から黒髪へ戻ったミサへ視線を向ける。


「まさか上級妖魔が現れるとは思わなかったよ。しかも宮廷のすぐ近くで……。」


背後の宮廷を見つめ、本成は静かに息を吐いた。


だが篤久は小さく首を傾げる。


「……本当に上級だったのか?」


「どういうこと?」


本成が聞き返す。


「中級と大して変わらなかった気がしたんだが。」


あまりにも自然な口調だった。


ミサと本成は思わず顔を見合わせる。


「核は確かに上級妖魔のものだったよ。」


「妖気も、中級とは比べものにならないほど強かったと思います。」


二人が口を揃えて言う。


それでも篤久は腑に落ちない様子で、


「そうか?」


とだけ呟いた。


その時だった。


辺りから妖魔の気配が完全に消えたことに、三人は気付く。


「新太も終わったようだな。」


「篤久がこき使ったから、あとで怒られるよ。」


本成が苦笑する。


篤久は肩を竦めた。


「そうか?」


どこ吹く風といった様子で軽く指笛を吹く。


その音に応えるように、近くで待機していた愛馬が駆け寄ってきた。


本成も馬の手綱を握り直す。


「あっ!」


ミサが声を上げた。


「私、先に戻ります!」


その拍子に、腰へ結んだ小さな鈴が――。


―チリン。


澄んだ音色が夜風へ溶けた。


その音に、篤久は思わず目を細める。


五年前。


雪の降る夜にも、同じ音を聞いた気がした。


けれど、確かめる前に。


ミサはそのまま踵を返し、宮廷へ向かって駆け出していく。


その瞬間、なぎの上の姿が頭に浮かぶ。


禁じ手に近い過去に戻る術を使ったのだ。


神力を大きく消耗しているはずだった。


無事だと分かっていても、一刻も早く顔を見て安心したかった。


そう思うと居ても立ってもいられず、宮廷へ向かって駆け出す。


「ミサ!」


篤久が思わず呼び止める。


だがミサは振り返らない。


そのまま宮廷へと走り去っていく。


やがて姿が見えなくなると、本成は小さく肩を竦めた。


「帰ってくるタイミング、少し早かったかな。」


「……何のことだ。」


篤久は視線を逸らしたまま答える。


本成は小さく笑った。


何を言いたいのか分からないほど、篤久は鈍くない。


むしろ昔から、こういうことだけは妙に鋭かった本成に少し腹が立つ。


「また神力、分けてあげたかったんじゃないの?」


「……。」


篤久は何も答えない。


ただ、ミサが走り去った方角を静かに見つめていた。


ようやく記憶を取り戻したと思ったのに。


抱き止めた時も。


先ほど支えた時も。


まるで自分から逃げるように距離を取られた。


――嫌われているのか。


そんな考えが胸をよぎり、表情がわずかに曇る。


本成はその横顔を見て、小さく息を吐いた。


「大丈夫だよ。」


「何がだ。」


「そのうち分かる。」


意味深に笑う本成に、篤久は眉をひそめる。


「お前は昔から肝心なことを言わないな。」


「言ったら面白くないでしょ?」


「性格が悪い。」


「褒め言葉として受け取っておくよ。」


本成がくすりと笑う。


篤久も呆れたように息を吐いた。


その時だった。


身体の奥がじわりと熱を帯びる。


胸の内を何かが這うような、不快な感覚。


篤久の表情が僅かに曇った。


本成はその変化を見逃さなかった。


「……薬、用意しておこうか?」


「ああ。頼む。」


短く答える。


ミサへ神力を分け与えたこと。


そして先ほどの戦い。


思っていた以上に神力を消耗していた。


この状態で丑の刻を迎えれば厄介だ。


本成は神妙な面持ちで頷く。


「分かった。」


夜風が静かに吹き抜ける。


篤久は宮廷へ続く道を見つめた。


蒼色の瞳が静かに細められる。


五年前に途切れた時間は――


ようやく、再び動き始めた。


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