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魔法侵蝕譚ーマナ・サピエンス  作者: A.N.C.


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5/21

protocol5 : 終幕 ヴァイオレットミラー湿地帯 

廃村宿。


古い宿の扉は、鍵がかかっていなかった。


押すと、蝶番が軋んで重い音を立てた。内部は暗い。窓板が閉められており、

夕暮れの光もほとんど差し込まない。埃と、それから――何か別の臭いが漂っていた。

生臭い。腐敗に近い、だが少し違う。

 

レインが先頭で踏み込む。魔導銃を構えたまま、目が暗闇に慣れるのを待つ。

フロアの奥。

何かがうずくまっていた。

人の形をしている。床に膝をついて、前屈みになって、何かに顔を埋めている。

規則的な、湿った音が聞こえた。

 

ディックが小さな光源魔道具を取り出した。淡い光が広がる。

犬だった。

大型の犬の死骸が床に転がっており、その前で鎧の男がうずくまっていた。

鎧の隙間から見える皮膚は、全身が紫色に変色している。

関節の周囲、首筋、手の甲、あらゆる箇所から黒い血が滲み、床に垂れていた。

 

音の正体が分かった。

男は、犬の肉を喰らっていた。

 

リディアが息を呑む気配がした。


男がゆっくりと顔を上げた。口の周りが黒く汚れている。目の焦点が合っていない。

白濁した瞳が、四人を順番に見た。


「……なんだ、あんタラか」

 

声が変質していた。低く、粘り気があり、言葉の輪郭が崩れている。

男は口の端を歪めた。笑っているのか、それとも別の何かなのか、判断できない。


「ハラがへっちまってよオ。くうだロ?」


レインが一歩前に出た。銃を構えたまま、声を落ち着けて言う。

「あんた、大丈夫か」


男は首を傾けた。不自然な角度に、ぎしりと音を立てて。


リディアが小声で言う。

「何かやばくないか。様子がおかしいぞ」


 男の体が、ゆっくりと立ち上がり始めた。膝が逆方向に曲がっている。

それでも立てている。背中が丸まり、両腕が左右に垂れ下がる。

指先から黒い血が滴った。


「おれのメシが くえネえのヵ?」


 声が低くなる。

「うるせ エぞ おおお?」


男が四人に向かって跳んだ。

速い。

魔物化が進行した人間の膂力は、外見の崩壊に反比例して跳ね上がる。

レインは咄嗟に横へ転がり、男の腕が空を切った。

床板が、拳の一撃でめり込んだ。


「散れ!」

リディアが叫ぶ。


四人が即座に左右へ分かれた。男はその場で旋回し、最も近くにいたディックへ向かう。

ディックが煙幕を投げた。白煙が広がる。


男は煙の中で止まらない。

嗅覚で追っているのか、煙を無視してディックへ突進する。


「くそっ」

ディックが短剣を抜きながら後退する。

「目が見えてないのに動きが読めない!」


「マナの知覚です!」

メリーが杖を構えながら言う。

「体内のマナを感知して追っているんです!」


「じゃあ逃げられないじゃないっすか!」


レインが引き金を引いた。魔導弾が男の背中を打つ。


男が怯んだ一瞬、リディアが横から斬りかかる。

剣が脇腹に入る。黒い血が飛んだ。


男は倒れない。

振り返り、リディアを腕で薙ぐ。

リディアが吹き飛び、壁に叩きつけられた。

鎧が衝撃を吸収したが、それでもうめき声が漏れた。


「リディア!」


「大丈夫だ、まだ動ける」


男の変容が、加速していた。

皮膚の紫色が黒へ変わり始め、背中の鎧板を内側から押し上げるように、

何かが盛り上がっている。骨格が変形している音がした。


「長引かせるほど危険です」

メリーが言う。


「今のうちに」

彼女は杖を構え、目を閉じた。

今度は攻撃魔法だ。


蒼白い光が収束する。

 

男がメリーへ向かって跳ぶ。

レインが前に出た。


男の腕を銃身で受け、体ごと押し返す。

黒い体液が外套に飛んだ。

顔に返り血が掠めた。

腐食性の液体が頬を灼く感覚。構わない。


そのままの姿勢で、真後ろへ叫ぶ。

「今だ」


メリーが目を開けた。

光が走った。

蒼白い閃光が男を貫き、男の動きが止まった。

一秒、二秒、それから膝が折れた。

床に崩れ落ちる。黒い血が広がる。

 

静寂。

 

レインは立ったまま、荒い息を整えた。

頬の灼ける感覚が続いている。外套の袖が、わずかに溶けていた。

 

男は動かなかった。

 

ディックが煙幕の残滓を手で払いながら言う。

「……討伐完了、っすね」


誰も何も言わなかった。

 

男は数時間前まで、普通に言葉を交わせた人間だった。

それがこうなった。水に触れてから、数時間で。

 

メリーが静かに歩み寄り、男の傍らに膝をついた。

目を伏せる。短い間、そうしていた。

 

レインが先を促した。

「裏だ。水生生物の養殖施設がある」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


宿の裏扉を抜けると、湿気を孕んだ空気が一気に押し寄せてきた。


施設は広かった。かつては観光の目玉だったのだろう、

天井の高いガラス張りの温室構造が湿地帯に沿って広がっていた。

その内部に、大小様々な水槽が並んでいる。


だが今は違う。

最初の水槽を覗き込んだ瞬間、ディックが口元を手で覆った。

 

魚の死骸が浮いていた。一匹ではない。

水槽全体を埋め尽くすほどの数が腐りかけた状態で浮かび、水面に油膜を作っている。

腐敗臭が鼻を突く。


「全部死んでいる」

リディアが別の水槽を確認しながら言う。

「しかも、かなり前から」


「観光地として機能していたのは、いつまでだ」


ディックが記録を手繰る。

「一週間前まで、客の記録があるっすよ。それがここ数日で一気に」


「一週間前から何かが変わった」

メリーが水槽の水を杖で調べながら言う。

「この水にも、湿地帯と同じ成分が含まれています。

流入しているというより、ここが発生源に近い」


施設の奥へ進むにつれ、臭いが増した。

水槽の水の色が変わっていく。透明から薄紫へ、薄紫から濃紫へ。

光が届かない奥の水槽は、ほとんど黒に近い。

 

そして施設の最深部。

そこだけ、明かりがついていた。

天井から赤い魔導光が部屋全体を照らしている。

金網の足場の下に、巨大な水槽があった。

 

深さは三メートル以上。横幅はその数倍。

かつては大型の水生生物を展示していたのかもしれない。

今は別のものが入っていた。

 

人間だった。

十人、二十人、それ以上。

男女の区別もつかないほど変容した体が、水槽の中に沈んでいた。

服は残っているものもある。ただ、皮膚はどれも黒紫に変色し、目は白濁している。


そして、動いていた。

激しく、けいれんするように。手足がばらばらに動き、体同士がぶつかり合う。

水面が揺れる。泡が立つ。それでも、水槽の壁を破れない。

ただ、痙攣し続けている。

 

メリーが足を止めた。

しばらく、何も言わなかった。

それから、絞り出すような声で言った。

「……ひどい」

その一言だけが、施設の中に響いた。


レインも、その光景を見ていた。

怒りとも悲しみとも違う、もっと冷たい何かが胸の中に沈んでいくのを感じながら。

誰かがこれをやった。意図的に。計画的に。


突如、レインが手で制した。

全員が即座に動きを止め、施設の暗がりへ身を沈めた。


足音が近づいてくる。

作業用の通路からだ。格子状の金属が軋む音がする。三人分の足音。

 

最初に目に入ったのは、大きさだった。

先頭の男は頭一つ抜けた巨漢で、肩幅が通路いっぱいになりそうなほど広い。

薄着のまま大斧を肩に担いでいる。

冒険者の装備だが、鎧はない。傷だらけの腕が見える。


その後ろに、灰色のローブを頭まで深く被った痩せた男が続く。

杖を持ち、俯き加減で歩いている。顔は見えない。


最後は小柄な男だった。

顎に無精髭を蓄え、ショートソードを腰に二本差している。

しきりに水槽の中を覗き込みながら歩いていた。

 

四人は息を殺した。

 

大男が金網の上で立ち止まり、ローブの男へ振り向いた。

「なあ、アルケミストの先生よお? まだ、実験とやらは終わらないのか?」


声は低いが、広い施設に響いた。

ローブの男は足を止めず、抑揚のない声で答える。

「焦るな。とりあえず、この高濃度マナエキスを水槽に流す」


小柄な男が口を挟んだ。

「もったいねぇな。

この液さえ飲めば、俺たちのマナ負債なんてあっという間に返済できるんだろ?」

 

ローブの男が立ち止まった。振り返らずに言う。

「この依頼が完了すれば、莫大なマナが支払われる。我慢しろ」


大男が舌打ちをした。小柄な男は不満げに口をつぐんだ。


ローブの男がコートの内側から金属製の容器を取り出した。

注入口のある配管へ向かって手を伸ばす。


レインが暗がりから出た。

魔導銃を向ける。静かな、しかし通る声で言った。

「その依頼とやらについて、詳しく聞かせてもらおうか」


三人が振り向いた。

 

大男の目が細くなる。

「……なんだ、てめぇら」


大男が大斧を構えた。金網が揺れた。

同時に、小柄な男が双剣を抜く。

ローブの男は動かない。容器を懐にしまい、様子を伺っている。


「ここで見たことは、誰にも言わせねぇ」

大男が吐き捨てる。

「仕事の邪魔をする奴は、水槽に沈んでもらう」


「そうしたいなら、やってみろ」

リディアが剣を抜きながら言った。

 

大男が跳んだ。

巨体に似合わない跳躍だった。

レインめがけて真っ直ぐ突っ込む。

大斧が頭上から振り下ろされる。


レインが横に転がる。斧が床を砕いた。

 

小柄な男は双剣を投げてきた。

一本がディックの外套を掠める。

ディックが舌打ちしながら煙幕を投げ返した。

白煙が金網の上に広がる。


「見えねぇ!」

小柄な男が叫ぶ。


「それが狙いっすよ」

ディックが跳躍し、煙の中で、短剣と刃の交わる音がした。


リディアはローブの男へ向かった。

男は動かない。杖を構えもしない。

リディアが剣を突きつけると、男は静かに両手を上げた。

「戦うつもりはない」

抵抗がない。リディアは剣を下げずに、その場に男を留めた。


床では、大男がレインと組み合っていた。

巨体の膂力は本物だった。魔導弾を二発受けても止まらない。

三発目でようやく足が鈍る。

その隙にレインが距離を取り、距離を詰めてくる大男へ向けてメリーが魔法を放った。

蒼白い閃光。大男の体が吹き飛んだ。

金網の柵を突き破り、水槽へ落ちた。

どぼん、と大きな音がした。

 

水槽の中が、一瞬静止した。

そして、動いた。

水槽の中の人影たちが、一斉に大男へ向かった。

水が激しく揺れた。大男の悲鳴が上がった。

短い悲鳴だった。

 

上層では、煙の中でディックが小柄な男を追い詰めていた。

男が後退し、背中が手すりに当たる。バランスを崩した。

「待っ――」

間に合わなかった。

男が水槽へ落ちた。

今度は、悲鳴すら上がらなかった。


施設に静寂が戻った。

水槽の水面が揺れ、じきに落ち着いた。

赤い魔導光が、変わらずすべてを照らしている。

 

ローブの男が、その光景をじっと見ていた。

感情の読めない目だった。

 

リディアが剣を突きつけたまま言う。

「話せ」

 

男は小さく息を吐いた。フードを外した。

年齢は四十代ほどか。疲弊した顔で、目の下に深い隈がある。

「……俺は、錬金術師だ」

男は静かに言った。

「だが、魔法実験の詳細は知らない。

命令通りに作業しているだけだ。これも、仕事だ」


「仕事?」

リディアが繰り返した。声に力が入る。


「明日までに作業を完了しなければ、

俺のマナローンの返済期限を迎える。魔物には……なりたくねぇ」

 

その言葉が終わった瞬間、メリーが口を開いた。

「魔物になりたくなかったのは」

静かな声だった。だが、水槽を見たまま言った。

「この水槽の中にいる人たちも、同じです」

 

錬金術師が口をつぐんだ。


水槽の中では、人影たちが今も痙攣を続けていた。

赤い光の中で。声も上げずに。

誰にも知られないまま、この施設の奥でずっとそうし続けていた。

 

錬金術師は水槽から目を逸らした。

 

リディアが言う。

「憲兵隊に引き渡す。

魔物化しない程度には、マナは提供されるだろうよ」


「観念することだな」

ディックが言った。

「あんたが持ってる情報は、俺たちよりギルドや憲兵隊の方が引き出せる。

素直に話せば、マナローンの返済くらいは考慮してもらえるかもしれない」

 

錬金術師は何も言わなかった。

ただ、両手を前に差し出した。

縛れ、という意味だった。

 

ディックが縄を取り出し、手首に巻いた。

錬金術師は抵抗しない。視線は床に落ちたまま。

後悔なのか、諦めなのか、区別がつかない。

 

レインが錬金術師の懐から金属容器を取り出した。

高濃度マナエキスの入ったそれを。

水槽に流されなかった分だ。証拠になる。

「行くぞ」

レインは施設の出口へ向かった。

最後にもう一度、水槽を振り返った。

人影たちが揺れている。赤い光の中で。

 

誰の命令で、誰の利益のために、これが行われたのか。

錬金術師は末端に過ぎない。その上に、誰かがいる。

莫大なマナを支払えるだけの、誰かが。


レインは目を前に戻した。

 

出口の向こう、夜になった湿地帯に、星が出ていた。

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