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魔法侵蝕譚ーマナ・サピエンス  作者: A.N.C.


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protocol4 :  続 ヴァイオレットミラー湿地帯

橋の下。


紫色の水面が、揺れていた。


それだけだった。人の顔のようなものは、もうどこにもない。水草が風もないのに静かに揺れ、濁った


水面が光を鈍く跳ね返している。


四人は、しばらく誰も口を開かなかった。


「……見間違いか」

ディックが呟いた。声に、いつもの軽さがない。


「見間違いじゃない」

リディアが剣の柄を握ったまま、橋の下を睨んでいる。


「あれは人の顔だった」

レインは橋の縁に片膝をつき、水面を覗き込んだ。

濁った紫の水の中は、数センチ先も見えない。

光を当てれば、水草の影が揺れているだけだ。

深さも分からない。

底が見えない。


「さっきの男」

レインが立ち上がりながら言った。


「あの鎧の人?」

メリーが振り返る。


「皮膚が変色していた。腕の、水に浸かっていた部分だけ」


沈黙。


メリーの表情が、すっと真剣なものに変わった。

彼女は杖を構え直し、先ほど水面を触れた先端を改めて観察する。

淡い光が滲んでいる。魔法的な反応だ。


「この水……マナに干渉している可能性があります」


「魔物の体液か?」

リディアが言う。


「水全体が、何かに汚染されている。魔物一体が垂れ流した程度でこの広さになるとは考えにくい」

ディックが湿地帯の奥へ視線を向けた。

木製の橋が迷路のように続き、その先は水草に遮られて見えない。


「村がある、って男は言ってたっすよね」


「廃村、という記録だった」

レインが言う。


「かつて観光客向けの宿があったらしい」


「今は?」


「連絡が途絶えて二日。以降、誰も戻っていない」


ちゃぷん、と音がした。

今度は、左側だ。

四人が同時に振り向く。水面が揺れている。波紋が広がっている。だが、何もいない。

ちゃぷん。

今度は右。

また、何もいない。


「……囲まれてる」

リディアが低く言った。


「水の中に?」

レインは無言で魔導銃を抜いた。

金属の銃身が夕光を反射する。


リディアが剣を抜く。

ディックが煙幕弾を外套から取り出した。

メリーが杖の先端に魔力を集め始める。


水面が、揺れ続けている。

波紋の数が、増えていた。


最初の一体が出たのは、橋の真下からだった。

音もなく。前触れもなく。

ただ、橋板を突き破って、それは現れた。

人の形をしていた。だが人ではない。皮膚の全体が紫色に変色し、

関節という関節が不自然な方向に曲がっている。

顔には目があるが、瞳孔がない。ただ白く濁っている。

口は耳まで裂けており、そこから紫色の液体が滴っていた。


リディアが即座に斬りかかる。

剣閃が走り、腕が飛ぶ。

だが魔物は怯まない。

腕の断面から紫色の液体が噴き出し、それが橋板に落ちると、じゅっと音を立てて木材が溶けた。


「体液が腐食性だ!」

リディアが叫ぶ。


「触れるな!」

レインが言いながら引き金を引く。


魔導弾が魔物の胸部を貫いた。

魔物が一瞬動きを止め、倒れる。


「数が多すぎる」

ディックが煙幕を投げながら叫んだ。

白煙が広がり、視界が遮られる。


「メリーさん、何とかなりますか!」


「やります」

メリーの声は、静かだった。

怯えていない。ただ、冷静に状況を計算している。

彼女は杖を頭上に掲げ、目を閉じた。唇が小さく動く。


次の瞬間、杖の先端から光が広がった。

青みを帯びた光。

それは霧のように湿地帯全体へ広がっていき、水面に触れた瞬間、

紫色の濁りが薄く、薄くなっていった。


浄化魔法だ。


水草が震える。水面の下で、何かが激しく動く音がする。

苦しんでいるのか、怒っているのか、判別できない叫び声のような音が水中から響いた。

そして、静かになった。


煙が晴れた後、湿地帯には静寂が戻っていた。


水面の紫色は薄まり、所々に青みが戻っている。

水草が揺れている。

橋の下、水の中に、いくつかの黒い影が沈んでいくのが見えた。


メリーが膝をつく。疲弊している。

大規模な魔法の反動だ。


レインが近づき、無言で肩を支えた。

メリーは小さく「ありがとう」と言った。


「全部か?」

リディアが周囲を警戒しながら言う。


「分からない」

レインが答える。


「奥に村がある。確認しなければならない」

「この魔物は何なんだ。人の形をしていたが」


 メリーが立ち上がりながら、掠れた声で言った。

「マナが枯渇して魔物化した人間です。でも、それだけじゃない。

この水に何かが溶け込んでいて、その水に触れることで魔物化が加速している。

自然に起きた現象じゃない」


「人為的に?」

ディックが眉をひそめる。


「誰かがこの湿地帯に何かを流した。意図的に」

沈黙。


レインは奥へ続く橋を見た。

水草の向こう、霧に霞んだ先に、何かの輪郭が見える。建物だ。

木造の、古い宿のような建物。明かりはついていない。


「行くぞ」と彼は言った。

誰も異論を唱えなかった。


廃村の入口に差し掛かった時、ディックが足を止めた。

「兄貴」


レインも止まる。


地面に、足跡があった。人間のものだ。

ただし、かかとが深く沈み、爪先が浅い。

引きずるような歩き方をしていた者の跡。複数。

村の中へ向かっている。


そして、足跡の傍らに、ぽたぽたと落ちた紫色の雫。

レインは先ほどの鎧の男の背中を思い出した。

腕を掻いていた。皮膚が変色していた。

帰ったらよく洗うと言っていた。


「……あの男は」

「帰っていない、かもしれないっすね」

ディックが静かに言う。


村の中から、音がした。

かすかな音だ。風のせいかもしれない。建物が軋んでいるだけかもしれない。

だが四人は、それが何の音か、すでに分かっていた。

水を引きずるような、足音だった。

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