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魔法侵蝕譚ーマナ・サピエンス  作者: ArgasNorn
勇者の軌跡

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protocol32 : 腐塵欠壊 終幕

 ダンジョン「腐塵欠壊」を脱出した頃には、日はすでに傾き始めていた。


 白い菌の森を抜け、ようやく息のできる空気に包まれる。


 だが、その安堵は、長くは続かなかった。


「......げほっ、げほっ」


 ルナとバルドに支えられていたトウマの咳は、脱出後も止まらなかった。


 それどころか、明らかに悪化していた。


「トウマ、見せて」


 ルナが、トウマの袖をまくった。


 その腕の所々が、黒ずみ始めていた。


 まるで、皮膚の下から、何かが染み出しているかのように。


「......何よ、これ」


 ルナの声が、微かに震えた。


 一行は、一旦足を止めた。


 ガイアスが、振り返り、トウマを一瞥する。


「......まだ、そんな状態か」


 その声には、苛立ちが滲んでいた。


「ついてこれないなら、置いていく」


「そんな......!」


 リオが、思わず声を荒らげた。


 その時だった。


「ちょっと、待って」


 ローズが、トウマに近づいた。


 赤い瞳が、じっとトウマの顔を覗き込む。


「......あなた、魔力係数が低下しているわ」


「魔力係数が......?」


 ルナが、戸惑ったように聞き返した。


「マナを使用していないのに、どうして」


 トウマは、この道中、戦闘に参加していない。


 魔法を使った様子もない。


 それなのに、魔力係数が下がるなど、あり得ないはずだった。


「ファントムに寄生されたんじゃない?」


 リリィが、静かに口を挟んだ。


「ファントム......?」


 フィンが、眉を寄せる。


「微小な魔物のことよ」


 ローズが、答えた。


「さっきのカビの胞子みたいにね」


 言いながら、ローズは、自らの指先を小さな爪で切った。


 白い肌に、赤い滴が浮かび上がる。


「取り除いてあげる。これを飲みなさい」


 ローズが、切った指をトウマの口元へと差し出した。


 その光景に、ガイアスが眉をひそめた。


「おい、何をやっている」


「治療よ」


「そんな奴のために、マナを分けてやらなくても」


 ガイアスの声には、隠しきれない苛立ちがあった。


 トウマは、その様子を見て、慌てて首を振った。


「......自分なんかのために、貴重な血を」


「いいから」


 ローズは、それ以上の言葉を許さなかった。


 差し出された指先が、トウマの唇の前で、赤く光っていた。


 トウマは、しばらく躊躇っていたが、やがて小さく頭を下げた。


「......ありがとうございます」


 そう言って、トウマは、震える唇でその血を受けた。


 一瞬の静寂。


 やがて――。


「......ふう」


 トウマが、大きく息を吐いた。


 顔色が、みるみるうちに戻っていく。


 黒ずんでいた腕の色も、次第に元の肌色を取り戻していった。


「......楽になった、気がします」


 トウマが、弱々しく笑った。


 傍らで見守っていたミアが、安堵の表情を浮かべた。


「よかった......」


 その声には、心からの喜びが滲んでいた。


 だが――。


 その直後だった。


「......が、ッ」


 トウマの体が、突然大きく痙攣した。


「トウマ?」


 ルナが、驚いて肩を掴む。


「あ、あ、があああッ......!」


 トウマは、喉を掻きむしりながら、地面に崩れ落ちた。


 そのまま、体を大きく反らせ、のたうち回る。


「トウマ!」


「どうしたの、何が起きて」


 リオとルナが、慌てて駆け寄ろうとした。


 だが、トウマの動きは、次第に弱々しくなっていき――。


 やがて、完全に静止した。


 目は、開いたままだった。


 だが、その瞳には、もう何の光も宿っていなかった。


「......トウマ?」


 ルナが、震える声で呼びかけた。


 返事はなかった。


「......トウマ......!」


 もう一度呼んでも、何の反応もなかった。


 場が、凍りついたように静まり返った。


 ミアが、震える声で、ローズを見上げた。


「......ローズ、様。何を」


 ローズは、指先についた血を、布で拭いながら、事も無げに答えた。


「吸血鬼の特性よ。自分の血液の性質を変えることができるの」


「......え?」


「ファントムごと、まとめて処分しただけ」


 ローズは、小さく肩をすくめた。


「魔物化されても困るでしょう。だから、確実な方法を選んだの」


 その口調には、罪悪感の欠片もなかった。


 まるで、日常の作業を説明するかのような、平坦さだった。


「それならば」


 ゴードンが、太い声で呟いた。


「わしの斧で一刀両断しても良かったではないか」


「汚れた血が飛び散るじゃない」


 ローズは、あっさりと言い返した。


 その言葉に、誰も、もう何も言わなかった。


 リオが、拳を強く握りしめ、震える声を絞り出した。


「......こんなことが、許されていいのかよ」


 その声は、怒りと絶望が入り混じっていた。


 だが、それに応える者はいなかった。


 ガイアスは、地面に横たわるトウマの亡骸を、一瞥した。


 その表情には、何の感慨も浮かんでいなかった。


「......使えない道具は、必要ない」


 その一言だけを残し、ガイアスは、視線を東の空へと向けた。


「それより、東の国、垓亜へ向かうぞ」


「こいつのせいで、無駄な時間を使っちまったな」


 アンナが、トウマの亡骸を指さしながら、吐き捨てるように言った。


 その言葉には、微塵の哀悼もなかった。


「早く、魔神の手先かもしれねぇ商人の奴をとっちめねぇとな」


 フィンが、大きく伸びをしながら、そう続けた。


 まるで、今しがた起きたことなど、既に忘れてしまったかのように。


 勇者たちは、それぞれ、次の目的地に思いを馳せ始めていた。


 誰一人として、地面に横たわるトウマを、振り返る者はいなかった。


 残されたのは、リオ、ルナ、バルド、ミア、そして名も呼ばれることのない、数人の魔導具たちだけだった。


 ミアが、その場に崩れ落ちるように膝をついた。


 小さな肩が、震えている。


「......どうして」


 声にならない声が、漏れた。


「......どうして、こんな」


 ルナは、トウマの傍らに膝をつき、そっとその瞼を閉じた。


 もう二度と、開くことのない目を。


「......ごめんね」


 それだけしか、言葉が出てこなかった。


 バルドは、黙ってその様子を見つめていた。


 拳が、白くなるほど強く握られている。


 その顔には、これまで見せたことのない、深い怒りが刻まれていた。


 リオは、まだその場に立ち尽くしていた。


 先ほどの言葉が、耳の奥で反響していた。


 ――こんなことが、許されていいのかよ。


 誰も答えなかった、その問い。


 だが、リオの中では、既に一つの答えが、静かに固まりつつあった。


(......このままじゃ、駄目だ)


 夕陽が、白い菌の森を、赤く染めていた。


 トウマの亡骸だけが、その光の中に、静かに横たわっていた。


 遠ざかっていく勇者たちの背中を、リオは、いつまでも睨みつけていた。

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