protocol30 : 腐塵欠壊
その領地に近づくにつれ、空気の色が変わっていった。
青々としていたはずの草原が、灰色に沈んでいる。
木々は枯れ、代わりに、白い柱のようなものが、そこかしこから突き出していた。
「......何だ、あれは」
ガイアスが、馬車の上から目を細めた。
巨大な白い菌類の柱が、森のように立ち並んでいる。
まるで、大地そのものが、白く腐り落ちていくかのような光景だった。
「腐塵欠壊、か」
リリィが、地図を確認しながら呟いた。
「聖王国からの報告にあった通りね。ここ半年で、急速に広がったダンジョン」
「動物は全部、菌に覆われた魔物になってるらしいです」
トウマが、緊張した面持ちで前方を見つめていた。
白い柱の合間を、何かがうごめいている。
鹿だったのか、狼だったのか。
もはや判別のつかない、白い菌糸に覆われた影だった。
「気をつけろ。胞子には毒がある」
ガイアスが、馬車を止めさせた。
一同は、荷物から防護具を取り出し始めた。
布のマスク、目を覆うゴーグル、そして聖王国から支給された特製の外套。
どれも、胞子の侵入を防ぐための装備だった。
「これで、ひとまず安心だな」
フィンが、マスクを装着しながら言った。
一方――。
馬車の陰では、魔導具たちが、互いの顔を見合わせていた。
「......装備が、足りていませんが」
リオが、荷を検めながら、戸惑ったように呟いた。
支給された防護具は、勇者七人分だけだった。
魔導具たちの手元には、何もなかった。
「布くらいは、あるだろう」
ガイアスが、振り返らずにそう言った。
「口元に巻いておけ。それで十分だ」
「......はい」
リオは、それ以上何も言えなかった。
ルナも、荷物の中から古い布を取り出し、口元に巻きつけた。
バルドも、トウマも、ミアも、他の者たちも、同じように、手持ちの布切れで口元を覆うことしかできなかった。
「これじゃ、気休め程度にしかならないな」
バルドが、小さく呟いた。
その声には、諦めが滲んでいた。
誰も、それに反論しなかった。
一行は、白い菌の森へと足を踏み入れた。
柱の合間から、粉のような胞子が、絶えず舞い降りている。
息を吸うたび、微かに甘い、それでいて腐ったような匂いがした。
「敵だ!」
ガイアスの声とともに、白い菌に覆われた狼の群れが、柱の陰から飛び出してきた。
「フィン、右!」
「おう!」
戦闘は、比較的短時間で終わった。
勇者たちの力は、脈動洞窟を経て、明らかに増していた。
菌に覆われた魔物たちは、次々と斬り伏せられていく。
だが、魔物を倒すたびに、傷口から胞子の粒子が、周囲に撒き散らされた。
「離れろ!」
ガイアスが叫び、勇者たちは素早く後退する。
防護具のおかげで、彼らはその粒子を浴びずに済んだ。
だが――。
「......げほっ」
後方にいた、魔導具の一団。
その中から、小さな咳が漏れた。
トウマだった。
「......トウマ?」
ルナが、心配そうに振り返る。
「......大丈夫、です」
トウマは、口元の布を押さえながら、そう答えた。
だが、その声は、僅かに掠れていた。
一行は、さらに奥へと進んでいった。
戦闘のたびに、胞子が舞う。
そのたびに、トウマの咳は、少しずつ増えていった。
「......げほっ、げほっ」
「おい、大丈夫か」
フィンが、ようやくその異変に気づいた。
トウマの顔は、明らかに青ざめていた。
「......大丈夫、です。少し、喉が痛いだけで」
トウマは、無理に笑おうとした。
だが、その笑みは、すぐに咳に掻き消された。
フィンは、しばらくその様子を見つめていた。
以前の自分なら、すぐに休憩を提案していただろう。
肩を貸してでも、歩調を合わせていただろう。
だが――。
「......そうか」
口から出たのは、そんな軽い一言だけだった。
フィンは、すぐに視線を前方へ戻した。
自分でも、なぜそれ以上の言葉が出てこないのか、分からなかった。
ただ――先を急がなければ、という焦りにも似た感覚が、頭の中を占めていた。
「進むぞ」
ガイアスの号令で、一行はまた歩き出した。
トウマは、ふらつく足取りで、その後を追った。
リオが、そっとトウマの荷物を持とうとした。
「......いい、です。俺の、仕事、ですから」
トウマは、それを固辞した。
その顔には、必死な意志が浮かんでいた。
自分が役に立たなければ――足手まといになれば、どうなるか。
この旅に出てから、嫌というほど理解していた。
しばらく進むと、開けた場所に出た。
巨大な白い柱に囲まれた、円形の空間。
そこかしこに、白い菌糸に覆われた、動物の死骸のようなものが転がっている。
「......ここは」
リリィが、眉をひそめた。
「胞子の濃度が、明らかに高いわ」
空気そのものが、白く霞んで見えるほどだった。
「げほっ......ごほっ、ごほっ!」
トウマの咳が、急激に激しくなった。
膝から、崩れ落ちる。
「トウマ!」
ルナが、真っ先に駆け寄った。
トウマの顔は、蒼白を通り越し、うっすらと紫がかっていた。
額には、大粒の汗が浮かんでいる。
「......くそ、意識が」
トウマの声が、掠れて消えていく。
「誰か、水を!」
ルナが叫んだ。
リオが、慌てて水筒を差し出す。
だが、それだけでは、どうにもならないことは、誰の目にも明らかだった。
「......おい」
ガイアスが、ようやくこちらを振り返った。
その表情には、苛立ちが浮かんでいた。
「何を騒いでいる」
「トウマが、胞子で......!」
ルナが、悲鳴のような声で訴える。
ガイアスは、倒れているトウマを一瞥した。
その目に浮かんでいたのは、心配ではなかった。
ただの――煩わしさだった。
「......荷物持ちが一人、動けなくなっただけだろう」
その言葉に、リオが顔を上げた。
「そんな、言い方は」
「事実だろう」
ガイアスは、淡々とそう返した。
「先を急ぐ。誰か、そいつを安全な場所まで運んでおけ」
それだけ言うと、ガイアスは前方へと視線を戻した。
まるで、もう興味を失ったかのように。
アンナも、ドレイクも、リリィも、ローズも、ゴードンも、フィンも――誰も、それ以上、トウマに目を向けることはなかった。
「......トウマ、しっかりして」
ルナは、震える手でトウマを抱え起こした。
リオが、周囲を警戒しながら、応急処置の道具を探す。
「バルド、手を貸してくれ」
「ああ」
バルドが、すぐに駆け寄ってきた。
解毒作用のある薬草を、手早く砕いて、トウマの口元に運ぶ。
「......効くかは、分からないが」
「やらないよりはいい」
ルナは、頷いた。
魔導具たちだけが、トウマを囲むようにして、必死に手当てを続けていた。
勇者たちの背中は、もう森の奥へと進んでいた。
振り返る者は、誰もいなかった。
白い胞子が、静かに、絶え間なく、降り続けていた。
それは、まるでこの土地そのものが、静かに泣いているかのようだった。
ルナは、腕の中で荒い息を繰り返すトウマを見つめながら、唇を噛んだ。
(......これが)
脈動洞窟でのボス戦以来、ずっと感じていた違和感。
それが今、はっきりとした形を取っていた。
勇者たちは、変わってしまった。
いや――。
(変わっていく。これからも、もっと)
ルナの脳裏に、聖王女の言葉が、冷たく蘇った。
――彼らの意思を、気にする必要はありません。
――彼らは、聖王国のために存在する道具です。
あの時は、ただの理不尽な言葉だと思っていた。
だが今、それは、この世界そのものの理として、目の前に姿を現していた。
「......大丈夫。私たちが、何とかする」
ルナは、自分自身に言い聞かせるように、そう呟いた。
白い森の奥から、遠い咆哮が響いていた。
まだ見ぬ、この土地の支配者の気配が、確かにそこにあった。




