protocol29 : 変貌
ダンジョン「脈動洞窟」の最奥は、ひときわ大きな空洞になっていた。
天井から突き出た結晶が、青白い光を放ち、広間全体を不気味に照らしている。
その中央に、それはいた。
「......何だよ、あれ」
フィンの声が、微かに震えた。
巨大な狼だった。
体高は、優に三メートルを超える。
黒く濡れたような体毛に覆われ、背には棘のような突起が並んでいる。
そして――首が、三つあった。
それぞれの首が、別々の方向を睨みつけている。
「ケルベロス種......いや」
リリィが、息を呑んだ。
「あんなの、文献でも見たことがない」
三つの首の目が、同時に一行を捉えた。
喉の奥から、低い唸り声が響く。
「グルルルル......ッ」
「来る!」
ガイアスが叫んだ瞬間、中央の首が、大きく口を開いた。
――ゴアアアアアアッ!
空気が震えるほどの咆哮。
衝撃波が広間を駆け抜け、一行の体が僅かに押される。
「散開!」
ドレイクの声で、全員が左右に飛び退いた。
その直後、巨狼の右の首が、地を這うように突進してきた。
「ぐあっ!」
アンナが盾で受け止めるが、その巨体に弾き飛ばされる。
「アンナ!」
ガイアスが剣を構え、左の首の顎を斬り裂いた。
だが、傷はすぐに塞がっていく。
「治りが早い......!」
「再生能力を持ってるのか!」
フィンが叫びながら、跳躍して背後に回り込む。
爪で、狼の後ろ脚に深い傷をつけた。
だが、そこもまた、瞬く間に塞がっていく。
「これじゃ埒が明かない!」
「頭を、全部同時に潰すしかないわね」
リリィが、杖を掲げた。
「私が拘束魔法を展開する! その間に――」
その言葉を遮るように、中央の首が炎を吐いた。
――ゴォォォッ!
紅蓮の炎が、広間を舐めるように広がる。
「くっ......!」
ローズが、咄嗟に血の障壁を展開した。
炎は、その障壁に阻まれて霧散する。
だが、地面が焼け焦げ、視界が一気に悪くなった。
「見えない......!」
「落ち着け! 気配で捉えろ!」
ガイアスの声が響く。
その言葉に応じるように、ドレイクが竜の姿へと変化した。
巨大な竜の体躯が、狭い広間を埋め尽くすほどに膨れ上がる。
「オオオオオッ!」
咆哮とともに、ドレイクが右の首へ体当たりした。
狼の巨体が、大きく傾ぐ。
「今よ!」
リリィが詠唱を完成させた。
「バインド・チェイン!」
光の鎖が、三つの首に絡みつく。
完全ではないが、僅かに動きが鈍った。
「ゴードン、頼む!」
ガイアスの呼びかけに、ドワーフの大男が咆哮のような気合を上げた。
「うおおおおおおおッ!」
巨大な戦斧が、中央の首の付け根を捉える。
――ドゴォンッ!
肉を裂く鈍い音。
中央の首が、力なく垂れ下がった。
「一つ!」
「まだだ、あと二つ!」
アンナが体勢を立て直し、再び前に出る。
「今度は逃さない!」
鬼人の腕力を纏った一撃が、左の首を貫いた。
断末魔の叫びとともに、力が抜けていく。
残るは、右の首だけだった。
その首が、最後の抵抗とばかりに、大きく暴れる。
「フィン、ローズ、今だ!」
ガイアスの号令。
フィンが跳躍し、ローズが血の刃を放つ。
二つの攻撃が、同時に首を捉えた。
――ドサリ。
巨狼の体が、地響きを立てて崩れ落ちた。
完全な静寂が、広間に満ちた。
誰も、しばらく動かなかった。
やがて、ガイアスが荒い息のまま、剣を鞘に収めた。
「......勝ったか」
「勝った、な」
ドレイクが人の姿に戻りながら、大きく息を吐いた。
フィンが、拳を突き上げた。
「うおおおおおっ! やったぞ!」
「やったわね」
ローズも、珍しく声を弾ませていた。
安堵と興奮が、一行の間に広がっていく。
だがその直後――。
誰もが、自分の体の中で、何かが激しく脈打つのを感じた。
「......っ」
ガイアスが、思わず胸を押さえた。
これまでの比ではない、熱い奔流。
視界が、一瞬だけ白く染まる。
「今の、は......」
アンナも、自分の掌を見つめていた。
青白い光が、皮膚の下で渦を巻いている。
「これが、あの強さのマナか」
ドレイクが、低く呟いた。
その声には、明らかな高揚があった。
体の奥から、力が満ち溢れてくる感覚。
全能感にも似た、その感覚に、誰もが酔いしれていた。
――そして。
その感覚が落ち着いた頃には、広間の空気は、明らかに変わっていた。
「おい」
ガイアスが、振り返ることなく言った。
「回復薬、寄越せ」
その声には、これまでになかった、命令の響きがあった。
リオが、慌てて薬瓶を差し出す。
「......どうぞ」
「遅い」
ガイアスは、瓶をひったくるように受け取った。
礼はなかった。
視線すら、向けられなかった。
「傷の手当ても、そっちでやっておけ」
アンナが、盾を投げ捨てるように地面に置いた。
その先には、バルドが立っていた。
「......承知しました」
バルドは、短く応じ、盾を拾い上げた。
その表情は、変わらなかった。
まるで、この扱いに慣れているかのように。
「ねえ」
ローズが、ミアに向かって声をかけた。
だが、その声色は、これまでとは違っていた。
「水」
それだけだった。
軽口も、気遣いも、そこにはなかった。
「......はい、すぐに」
ミアは、慌てて水筒を取り出した。
その手が、微かに震えていた。
ゴードンは、鉱石を採取するために結晶の柱に向かいながら、後ろも見ずに言った。
「荷物、まとめとけ」
トウマが、無言で頷き、散らばった道具を拾い集め始めた。
誰も、それを不自然だとは思っていないようだった。
ただ、当たり前のことのように、言葉が発せられ、当たり前のことのように、従っていた。
少し離れた場所で、リオは、拳を握りしめていた。
「......リオ?」
ルナが、小さく声をかける。
「......何でもない」
リオは、首を振った。
だが、その顔には、隠しきれない苦さが滲んでいた。
ルナは、周囲を見渡した。
先ほどまでの高揚した空気は、もう別の何かに変わっていた。
勇者たちの目は、以前よりも輝いて見えた。
力に満ち、誇らしげで――それでいて。
自分たちに向けられる視線からは、明らかに何かが抜け落ちていた。
(......これが)
ルナは、静かに息を呑んだ。
(聖王女様が言っていた、「自由に使っていい」ということ)
あの日は、まだ言葉だけのものだった。
だが今、目の前で、それが現実の形を取り始めていた。
広間の奥、崩れ落ちた三つ首の狼の死骸から、青白い光の粒子が立ち上っていた。
その光は、ゆっくりと空気に溶けて消えていく。
まるで、何かを置き土産にしていくかのように。
ガイアスは、その光をぼんやりと見つめながら、小さく笑った。
「......次は、もっと強いのを狩るか」
誰も、その言葉に異を唱えなかった。
ただ、魔導具たちだけが、静かに視線を伏せていた。




