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魔法侵蝕譚ーマナ・サピエンス  作者: ArgasNorn
勇者の軌跡

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protocol26 : 出発

 王宮の中庭に、朝靄がかかっていた。


 まだ日は完全に昇りきっていない。


 石畳の上には、旅支度を整えた馬車と荷馬が並んでいた。


 ガイアスは、その光景を眺めながら、深く息を吸った。


 冷たい空気が、肺の奥まで満ちていく。


「......今日から、か」


 呟いた声は、誰にも届かなかった。


 中庭には、すでに何人かの姿があった。


 荷馬に荷物を括り付けているのは、リオだった。


 黒髪から水滴が垂れている。


 朝から水を浴びてきたのか、それとも汗なのか。


 ガイアスには分からなかった。


「......おはよう」


 ガイアスが声をかけると、リオの手が止まった。


「......おはようございます」


 振り返らずに、リオは答えた。


 それだけだった。


 荷物を括る作業が、また淡々と再開される。


 ガイアスは、その背中をしばらく見つめていた。


 何を話せばいいのか、分からなかった。


 昨日、聖王女の言葉を聞いてから、ずっとそうだった。


 ――自由に使っていい。


 その言葉を思い出すたび、喉の奥が詰まるような感覚があった。


 少し離れた場所では、ルナが薬草の入った木箱を確認していた。


 緑の瞳が、一つ一つの瓶を丁寧に見ていく。


「これは......ポーションの数、足りているか?」


 独り言のような呟きだった。


 だが、それに答える声があった。


「足りないなら、俺が調達してくる」


 声の主は、ゴードンだった。


 白い髭を揺らしながら、木箱を覗き込む。


「ドワーフの伝手なら、薬草の質にはうるさいぞ」


 ルナは、驚いたように顔を上げた。


「......いえ、そこまでしていただかなくても」


「遠慮するな」


 ゴードンは太い指で、瓶の一つを持ち上げた。


「旅の道中、腹を空かせたり傷を負ったりするのは、勇者だけじゃない」


 ルナは、しばらく言葉が出なかった。


「......ありがとうございます」


 やがて、小さくそう返した。


 その声は、昨日よりも少しだけ柔らかかった。


 中庭の隅では、ローズが一人の青年に話しかけていた。


 薄紫の髪をした、まだ若い青年だった。


 名を、確かトウマといった。


 フィンと同じ獣人だが、耳も尻尾もない。


 純粋な人間に近い姿をしていた。


「ねえ、あなた、戦いは初めて?」


 ローズが小首を傾げる。


 トウマは、びくりと肩を震わせた。


「......は、はい。一度も」


「ふうん」


 ローズは、赤い瞳でじっとトウマを見つめた。


「怖い?」


「......正直、怖いです」


 トウマは、素直にそう答えた。


 誤魔化そうとする素振りすらなかった。


 ローズは、少し意外そうな顔をした。


「正直な子ね」


「......すみません」


「謝ることじゃないわ」


 ローズは、小さく笑った。


「怖いなら、私の後ろにいなさい。血の匂いには、慣れているから」


「......いいん、ですか」


「別に。減るものじゃないもの」


 軽い口調だった。


 だが、そこに、昨日の聖王女の言葉にあったような冷たさはなかった。


 少し離れた場所から、その様子を眺めていたのはアンナだった。


 腕を組んだまま、しばらく黙っていた。


 やがて、視線の先にいた別の魔道具――中年の男に近づいた。


「お前、名は」


「......バルドと申します」


 男は、緊張した面持ちで答えた。


 元々は、地方の衛兵だったという。


「剣は使えるか」


「多少は。ですが、勇者様方には遠く及びません」


「知ってる」


 アンナは、ぶっきらぼうに言った。


「聞いてるのは、使えるかどうかだ。強いかどうかじゃない」


「......はい。使えます」


「なら、いい」


 アンナは、それだけ言うと背を向けた。


 だが、数歩歩いたところで、足を止めた。


「戦場で、俺の左は空けとけ。守ってやる」


「......え?」


「二回は言わない」


 アンナは振り返らずに歩いていった。


 バルドは、しばらくその背中を見つめていた。


 困惑と、それ以上の何かが、表情に浮かんでいた。


 一方、ドレイクは馬車の陰で、一人の少女と対峙していた。


 まだ幼さの残る顔立ちの、灰色の髪の少女だった。


 名を、ミアといった。


 彼女は、ドレイクの視線から逃れるように俯いていた。


「......何か用ですか」


 小さな声だった。


 ドレイクは、しばらく黙って少女を見ていた。


「お前、いくつだ」


「......十五です」


「そうか」


 ドレイクは、短く息を吐いた。


「竜化すれば、俺の背に乗れる。歩くより、そっちのほうが早い」


「......え?」


「疲れたら言え。無理に歩かせる気はない」


 それだけ言うと、ドレイクは踵を返した。


 ミアは、呆然とその背中を見送っていた。


 優しさなのか、それとも単なる合理性なのか。


 自分でも判断がつかない様子だった。


 リリィは、少し離れた場所で、魔力障壁の展開練習をしているルナを見ていた。


 ルナの手から放たれる魔法は、ぎこちなかった。


 薄い膜のような障壁が、すぐに揺らいで消える。


「......マナレベル0で、それだけ動かせるなら、たいしたものよ」


 リリィが、ふと呟いた。


 ルナは、驚いたように振り返った。


「......からかっているんですか」


「まさか」


 リリィは静かに首を振った。


「私たちエルフは、生まれつきマナに愛されている。あなたたちは、そうじゃない」


「それでも、魔法を使おうとしている」


 エルフの碧眼が、まっすぐルナを見た。


「たいしたものだと、素直に思っただけ」


 ルナは、何と答えていいか分からないようだった。


 しばらく黙り込んだあと、小さく頭を下げた。


「......ありがとうございます」


 その表情には、戸惑いと、わずかな安堵が入り混じっていた。


 中庭の中央で、フィンが大きく伸びをした。


「さて、そろそろ時間だな」


 フィンの声に、皆の視線が集まった。


 薄紫の耳が、朝日を受けてわずかに光っている。


「これから長い付き合いになる。名前くらいは、ちゃんと覚えとかねえとな」


 フィンは、ぐるりと周囲を見回した。


 勇者七人。


 魔道具七人。


 合わせて十四人が、中庭に集っていた。


「よし」


 フィンが手を叩く。


「全員、揃ったな」


 ガイアスは、もう一度リオとルナを見た。


 リオは、まだ硬い表情のまま荷物の最終確認をしている。


 ルナは、木箱を抱えたまま、小さく息を整えていた。


 昨日と、何かが変わったわけではない。


 道具として扱われることに、変わりはない。


 それでも――。


 ゴードンの言葉。


 ローズの軽口。


 アンナの不器用な気遣い。


 ドレイクの合理的な優しさ。


 リリィの静かな称賛。


 それぞれの形で、確かに何かが動き始めていた。


「出発するぞ」


 ガイアスが、皆に向けてそう告げた。


 その声は、昨日よりも、少しだけ落ち着いていた。


 馬車の車輪が、ゆっくりと動き出す。


 石畳を叩く音が、朝靄の中庭に響いた。


 十四人を乗せた一行は、王都の門を目指して進み始めた。


 まだ、互いの距離は測りきれていない。


 それでも、旅は始まった。

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