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魔法侵蝕譚ーマナ・サピエンス  作者: ArgasNorn
ある冒険者の探索記録

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protocol 20 : プラチナム邸

 朝が来ていた。


 東の空から差し込む淡い光が、石造りの街並みを少しずつ照らしていく。


 昨夜までの喧騒が嘘のように、街は静かだった。


 だが、その静けさの下には、確かに何かが潜んでいる。


 レインは馬車の窓から外を眺めながら、深く息を吐いた。


「……帰ってきたな」


「なんとか生き延びましたね」


 向かいに座っていたディックが、疲れ切った顔で答える。


「同感」


 リディアが短く答えた。


 隣ではメリーが眠そうに目をこすっている。


 その膝の上には、布で厳重に包まれた小さな容器が置かれていた。


 華桜閣から持ち出した――偽造マナポーション。


 それを見つめるだけで、昨夜の光景が蘇る。


 血の臭い。


 無数のアンデッド。


 そして、人間だったものが魔物へと変わっていく瞬間。


「……これが、本当に原因なのかな」


 メリーが呟いた。


「まだ分からない」


 レインは答えた。


「だが、少なくとも関係はある」


 偽造マナポーション。


 見た目も、魔力反応も、普通のマナポーションとほとんど変わらない。


 しかし、その内部には本来存在しないはずの異質なものが混じっていた。


 そして、それを摂取した者たちは――。


 魔物化した。


「王宮の魔導士なら、もっと詳しく調べられるはずだ」


 レインが言う。


 馬車は、王都の中心部から少し離れた貴族街へ入っていく。


 やがて、白い石壁に囲まれた大きな邸宅が見えてきた。


 プラチナム家。


 アレックス・プラチナムの邸宅だった。


 馬車が停車すると、数人の使用人が駆け寄ってきた。


 その中に――。


 レインは、見覚えのある少女を見つけた。


「……」


 薄緑色の髪。


 橙色の瞳。


 少し大きめの白いシャツに、濃紺のスカート。


 胸元にはプラチナム家の使用人であることを示す小さな徽章。


 少女は、こちらを見て目を丸くした。


「……レイン、さん?」


 その声を聞いた瞬間。


 レインの胸に張りつめていたものが、すっと抜けた。


「シルビィ」


「レインさん!」


 少女が駆け寄ってくる。


 だが、途中で何かを思い出したように急停止した。


 使用人としての立場を思い出したらしい。


 慌てて姿勢を正し、スカートの裾をつまむ。


「お、お帰りなさいませ……」


 ぎこちないお辞儀。


 その姿に、レインは思わず笑った。


「ただいま」


「……!」


 シルビィの顔が、ぱっと明るくなる。


「お帰りなさい!」


 今度は使用人らしい言葉遣いを忘れていた。


 そのまま笑顔になる。


 レインは、その顔を見て――。


 ようやく安心した。


 華桜閣で見た、怯えた少女の顔とは違う。


 ここには食事がある。


 安全な寝床がある。


 誰かに命令され、殴られ、売られる場所ではない。


「元気そうだな」


「はい!」


 シルビィは大きく頷いた。


「お仕事もしています」


「仕事?」


「はい。お掃除をしたり、お料理のお手伝いをしたり……」


 少し得意そうに胸を張る。


「それから、昨日は庭のお花にも水をあげました」


「そうか」


 レインは微笑んだ。


「よかった」


「……?」


 シルビィが首を傾げる。


「何がですか?」


「いや」


 レインは少女の頭を見る。


 そして、軽く手を置いた。


「なんでもない」


 シルビィは驚いたように目を瞬かせ――。


 それから、嬉しそうに笑った。


 屋敷の応接室。


 暖炉には小さな火が灯っていた。


 テーブルを挟んで、レインたちとアレックスが向かい合っている。


 アレックスは、レインが持ち帰った小瓶を見つめていた。


 透明な容器。


 その中に入っているのは、淡い青色の液体。


 一見すれば、ただのマナポーションだ。


「これが……」


 アレックスが呟く。


「偽造マナポーションです」


 メリーが答えた。


 アレックスは慎重に手袋をはめ、小瓶を持ち上げる。


「外見上は、普通のマナポーションとほぼ変わらない」


 メリーが続ける。


「でも、内部に含まれているものは違う」


「イビルマナ……」


 アレックスの表情が険しくなった。


「はい」


「これを飲めば、魔物化する可能性がある」


「正確には」


 メリーが首を横に振った。


「これだけで確実に魔物化するとは断言できません」


「なるほど」


 アレックスは小瓶を机に置いた。


 その顔から、貴族らしい余裕が消えていた。


「王宮へ報告します」


 レインが顔を上げる。


「すぐに?」


「ええ」


 アレックスは頷いた。


「これは私個人で処理できる事件ではありません」


「偽造マナポーションが王国内に流通している」


「それだけでも重大ですが……」


 アレックスは小瓶を見る。


「問題は、その目的です」


 ディックが口を挟む。


「魔物化させるため?」


「それだけなら、まだ理解できます」


 アレックスの声が低くなる。


「しかし、もし誰かが意図的にイビルマナを偽装し、マナポーションとして流通させているのなら」


「標的は誰なんでしょうね」


 ディックの問いに、アレックスは答えなかった。


 代わりに、窓の外を見る。


 何万人もの人間が暮らす巨大都市。


 その中に、偽造マナポーションが紛れ込んでいる。


 もし大量に流通しているとしたら。


 もし、それを誰かが意図的に使用させているのだとしたら。


「……国そのものが、実験場になっている可能性があります」


 メリーが息を呑んだ。


「実験場……」


「はい」


 アレックスは立ち上がった。


「私はこれから王宮へ向かいます」


「王家に直接?」


「そうします」


 アレックスはレインを見る。


「そして、今回の調査に関する全てを報告する」


「奴隷狩りについても、王家に報告する必要があります」


「……ありがとう」


 レインは短く答えた。


 アレックスは少し笑う。


「礼を言われるほどのことではありません」


「私は貴族です」


「貴族には、民を守る責任がありますから」


 その言葉に、リディアが少しだけ目を細めた。


「随分と珍しい貴族ですね」


「よく言われます」


 アレックスが苦笑した。


「だからこそ、面倒も多いんですよ」


 その日の昼。


 レインたちは屋敷の食堂にいた。


 久しぶりのまともな食事だった。


「うまい……」


 ディックが涙を流しながらパンを食べている。


 メリーは笑っていた。


 リディアは静かにスープを飲んでいる。


 レインはその光景を眺めながら、ふと窓の外を見た。


 庭。


 その隅で、一人の少女が花壇の手入れをしていた。


 シルビィだった。


 水差しを持って、一つ一つの花に水を与えている。


 時々、顔を上げる。


 そして屋敷の窓からレインの姿を見つけると――。


 小さく手を振った。


 レインも手を振り返す。


 シルビィは嬉しそうに笑った。


「……」


 レインは、胸の奥が温かくなるのを感じた。


「どうしたんですか?」


 メリーが尋ねる。


「いや」


 レインは窓の外を見たまま答えた。


「無事でよかったと思って」


 メリーは何も言わなかった。


 ただ、優しく笑った。


 夕方。


 アレックスが王宮へ向かう準備をしていた。


 玄関ホールに馬車が停まっている。


「では、行ってきます」


 アレックスが外套を羽織る。


 その時だった。


「アレックス様」


 シルビィが駆け寄った。


 両手には、一枚の小さな布。


「これ……」


「どうしました?」


「お帰りになった時に、使ってください」


 シルビィが差し出したのは、綺麗に刺繍されたハンカチだった。


 アレックスは目を丸くする。


「これは?」


「昨日、メイドさんに教えてもらって作りました」


 少し恥ずかしそうに。


「まだ、上手じゃないですけど」


 アレックスはハンカチを受け取った。


 刺繍は少し歪んでいた。


 それでも。


「ありがとう」


 彼は微笑んだ。


「大切に使います」


 そして馬車に乗り込む。


 扉が閉まる。


 馬車が走り出す。


 シルビィは、その場でずっと見送っていた。


「……随分、馴染んだな」


 隣に立っていたレインが言う。


「はい」


 シルビィは嬉しそうに答える。


「ここは、怖くありません」


「そうか」


「眠る場所もあります」


「うん」


「ご飯も食べられます」


「それはよかった」


「それに……」


 シルビィがレインを見る。


「皆さん、私を人として扱ってくれます」


 その言葉に。


 レインは何も返せなかった。


 奴隷だった少女。


 父親を奪われ。


 存在そのものを消された少女。


 ほんの少し前まで、明日の命すら保証されていなかった。


 それが今は。


 庭に花を植え。


 刺繍を覚え。


 帰りを待つ人間になっている。


「レインさん達のおかげです。」


「ありがとうございます。」


ㇱルビィがつぶやく。


「冒険者として当然のことをしたまでさ」


レインは考える。


 多くを救うことはできなかった。


 それでも、1人でも多く、誰かを救えるのなら。


 自分たちのやってきたことに、意味はある。 


 二人の間に、静かな時間が流れた。

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