Protocol 19.0 : ブロンズ家邸宅
王都から離れたブロンズ侯爵家。
豪奢な屋敷の玄関ホールには赤い絨毯が階段へと真っ直ぐ伸び、その先の壁には、歴代ブロンズ家当主たちの巨大な肖像画が並んでいた。
静寂だけが支配する空間。
一人の女がゆっくりと歩み寄る。
ギレーネ・ブロンズ。
淡い青色の髪を揺らし、肖像画の前で立ち止まる。
彼女は誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「──リファトゥ・ゲート、プロトコル1A。」
カチッ。
微かな機械音が響く。
巨大な肖像画が掛かった石壁は、そのまま静かに奥へ沈み込み、やがて上方へと滑るように開いていった。
その向こうには、灰色の無機質な通路が現れる。
天井には、細長い白色照明が等間隔に並び、昼のような人工光が冷たく床を照らしていた。
石造りの屋敷とはまるで別世界だった。
ギレーネは何事もないように歩き出す。
数歩進むと、背後で壁が音もなく閉じた。
屋敷の中に、この場所の存在を知る者はほとんどいない。
長い廊下の先には、一枚の銀色の扉。
その縁だけが赤く発光している。
ギレーネが前へ立つと、不意に天井から無機質な音声が響いた。
<DNAスキャン開始。>
淡い青い光が彼女の身体を上から下まで走る。
<スキャン完了。>
<データベース照合完了。>
<個体ID 2A70XB3892。>
<許可リスト登録個体。>
<おかえりなさい。ギレーネ・ブロンズ様。>
認証が終わると同時に、赤かった光は緑へ変わる。
銀色の扉は静かに上へと消えていった。
室内は一面の白。
床も壁も天井も、すべてが雪のように白かった。
長机が整然と並び、壁際には薬品棚が何列も続く。
透明な容器の中には色とりどりの薬液。
さらに天井からは黒い細いケーブルが木の根のように何百本も垂れ下がり、複雑な装置へ接続されている。
そして部屋の最奥。
青く発光する液体で満たされた巨大な培養槽。
その中には、
人間。
人間とも獣ともつかない生物。
翼を持つもの。
骨だけで活動するもの。
巨大な角を生やしたもの。
言葉では説明できない異形たちが、静かに眠っていた。
まるで神話の怪物標本庫だった。
その時だった。
ギレーネの耳元に魔導通信が届く。
「……何?」
彼女は立ち止まる。
「そう。」
「偽造マナポーションの散布は終わった?」
しばらく沈黙。
「発症率は?」
さらに報告を聞く。
「……なるほど。」
彼女の口元が僅かに緩む。
「記録は?」
「……よくやったわ。」
「ご苦労様、カレン。」
通信は切れた。
ギレーネは培養槽へ映る自分の姿を見つめながら微笑む。
「……全て計画通り。」
部屋の隅。
黒い長方形の板と、小さな黒い箱が置かれていた。
五百年以上前から受け継がれてきた旧世界の端末。
ギレーネはその前へ立つ。
「リファトゥ・アーカイブ二〇一A九二。」
静かな電子音。
<コマンドを受理。>
<該当データを検索、表示します。>
画面が明るくなる。
そこに映ったのは、一人の青年だった。
淡い青髪。
濃紺のスーツ。
真っ直ぐカメラを見る瞳。
「西暦二五五一年五月二十一日。」
「第十九代ブロンズ家当主、ステファン・ブロンズ。」
「記録を開始する。」
映像の男は疲れ切った表情で続ける。
「他領地同様、この領地でも領民の魔物化が相次いでいる。」
「PCR検査の結果、類似ゲノムパターンを確認。」
「原因はマナ枯渇ではない。」
「魔物の体液による接触感染。」
彼は一枚の資料を掲げる。
「魔物化速度から見て、イビルマナレベル4。」
「王族級個体の体液だ。」
その表情が険しくなる。
「こんな検体を用意できる組織は一つしかない。」
「……魔神機関。」
「まだ人体実験を続ける気なのか。」
映像が乱れた。
場面が変わる。
青年は血だらけだった。
肩を押さえ、荒い息を繰り返す。
「……六月十七日。」
「確保した検体が……アンデッド化した。」
「マナは完全に枯渇したはずだった。」
「停止したと……思った。」
咳き込む。
白衣へ血が飛び散る。
「検査結果は陽性。」
「感染している。」
彼はゆっくり笑った。
その笑顔は、どこか娘を安心させようとする父親のものだった。
「私には……時間がない。」
「あと数時間で……自我は失われる。」
「一族の悲願は……娘に託そう。」
「秘密は……すべて伝えた。」
「彼女なら抗体を完成させ……全人類を実験材料にする……あいつらを……」
突然、激しい苦痛に顔を歪める。
「……うっ!」
そこで映像は完全に途切れた。
部屋は静まり返る。
ギレーネは無表情のまま黒い画面を見つめ続けていた。
やがて静かに呟く。
「お父様……。」
「申し訳ありません。」
「あなた方の悲願は、叶えられません。」
彼女はゆっくり歩き出す。
青く光る培養槽の前で足を止めた。
液体の中では、人とも竜ともつかぬ巨大な異形が静かに眠っている。
そのガラスへそっと手を当てる。
「私は……。」
「彼らと契約することで。」
「絶大な力を手に入れたのですから。」
青い光が、ギレーネの微笑みを静かに照らしていた。




