第25話 捏造された違法キスのログ
網野バイオテック本社の最上階。
冷たい大理石の床と、街を一望できる巨大なガラス窓に囲まれた執務室に、重苦しい空気が漂っていた。
「……これが、あの根張大輝の唾液の分析レポートか」
三社連合ユニバースプラッシュの総帥であり、網野グループ会長の網野征士郎は、手元のタブレット端末を冷ややかに見つめた。
画面には、学園の保健医である如月芹那の研究室から不正な方法で極秘裏に入手した臨床データが映し出されている。
「一回の吸唾で、三ヶ月の生存時間を付与する……馬鹿げている。既存の口内清涼剤やキスボの稼働率を根底から破壊する、最悪のイレギュラーだ」
「父さん、それは……」
傍らに立つ息子の網野蘭聖が口を開きかけたが、征士郎は冷酷な視線でそれを制した。
「蘭聖、お前のドナーとしての価値も脅かされているのだぞ。このような特別変異種は、我が社の利権インフラを守るためにも、早急に社会から排除せねばならん」
征士郎は手元の端末を操作し、背後の巨大モニターに別の映像を映し出した。
「国家抗体管理アプリ「V-CHU」のサーバー運用を手掛けるセル・データ・システムズの技術班に指示を出した。あいつの左手にあるV-CHUの生体ログは、すでに我が社のサーバー内で遠隔改ざん済みだ」
モニターには、大輝のIDと、架空の女子生徒のIDが交差した偽の吸唾履歴が生成されていく様子が映っていた。
「未成年(14歳)の後輩女子と不法吸唾を行った。これだけで未成年者衛生保護法違反という重罪だ。警察と、うちの警備部隊をすでに学園へ向かわせている。これで目障りなイレギュラーは社会的に抹殺できる」
「……ッ」
征士郎が氷のように冷たく笑う横で、蘭聖はギリッと奥歯を噛み締めた。
(こんな……こんな卑劣な手段でしか、あの男に勝てないというのか……!)
蘭聖はカーストの頂点に君臨するプライドをズタズタに引き裂かれたような屈辱を感じて拳を震わせていた。
大輝の異常な抗体に圧倒され、自身の取り巻きだった女子生徒たちを奪われた屈辱は忘れていない。
しかし、権力とデータ改ざんという反則技で相手を陥れることは、彼の中の何かが激しく拒絶していた。
「どうした、蘭聖。お前もいずれこちら側に立つ人間だ。せいぜいこの見世物を楽しむがいい」
「……はい、父さん」
蘭聖は俯き、ズボンのポケットの中で拳を白くなるほど強く握りしめた。
完璧な父親の操り人形にはなりきれない、彼の脆い良心が音を立てて軋んでいた。
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その日の昼休み、登呂美県立潤水高等総合学園は、突如として鳴り響いたけたたましいサイレンの音に包まれた。
「な、なんだ!?何かあったのか?」
「おい、外見ろよ!警察の車両だ!」
教室でお手製の経口補水液を飲んでいた根張大輝が窓際へ駆け寄ると、パトカーと共に、黒塗りの装甲車が数台、校庭に乗り込んでくるのが見えた。
車両の横には、三社連合の子会社である警備保障のロゴが印字されている。
「警察だけじゃない、企業の警備部隊まで……?」
大輝が訝しんでいる間にも、廊下からドタドタと重武装の足音が近づいてきた。
バンッ!
一年生の教室のドアが乱暴に開けられ、制服姿の警察官数名と、黒ずくめの警備員たちがなだれ込んできた。
「根張大輝はどこだ!」
先頭に立つ初老の刑事が、鋭い声で教室内を一瞥する。
「俺ですが……何か?」
大輝が一歩前に出ると、刑事は冷酷な目で彼を睨みつけ、手帳を突き出した。
「根張大輝、未成年者衛生保護法違反の容疑で同行を願う。お前のV-CHUログに、十六歳未満の女子生徒と規定外の不法吸唾を行った記録が残っている」
「……は?未成年と?俺がですか?そんなはずは……!」
大輝は全く身に覚えのない言葉に目を丸くした。
「とぼけるな。国家の生体管理システムが嘘をつくはずがないだろう。連行しろ」
警備員たちが無言で大輝の両腕を掴み、背手に回そうとする。冷たい金属の手錠がチャキリと音を立てた。
(冗談じゃない……俺が逮捕される?そんなことになったら、もうすぐ十六歳になる翼はどうなる!?)
大輝の脳裏に、家で自分の帰りを待つ十五歳の妹、翼の顔が鮮明にフラッシュバックした。
両親を亡くし、祖母と暮らすこの家で、あの狂った吸唾義務が始まる日から妹を守れるのは自分しかいないのだ。
ここで身に覚えのない冤罪で捕まれば、翼は見知らぬ男たちにその唇を奪われる地獄に突き落とされてしまう。
「離せ!俺は絶対にそんなことやってない!何かの間違いだ!」
大輝は中距離走で鍛えた体幹で必死に抵抗したが、屈強な大人数人に押さえ込まれ、膝をつかされそうになる。
「抵抗するなら公務執行妨害も追加するぞ!」
刑事が手錠をかけようと身を乗り出した、その瞬間だった。
「やめてえええええッ!!」
教室の空気を切り裂くような悲鳴と共に、小柄な人影が警察と大輝の間に猛然と割って入った。
幼馴染の清水沙羅理だった。
「沙羅理……!?」
「大輝がそんなことするはずないでしょ!大輝は誰よりも真面目で、こんな狂ったルールの世界でも、必死に人助けをしてるだけなのよ!未成年の子に手を出すなんて、絶対にありえない!」
沙羅理はポロポロと泣き叫びながら両手を広げ、大輝を庇うように立ちはだかった。
「どきなさい、お嬢ちゃん。データという絶対的な証拠があるんだ」
刑事が鬱陶しそうに沙羅理の肩を小突こうとした時、凛とした、だが氷のように冷たい声が教室の入り口から響いた。
「不当な逮捕権の行使です。警察が令状もなく、学園に不法侵入して強行突破とは、随分と野蛮な真似をしますね」
カツ、カツと整然とした足音を立てて現れたのは、生徒会長の早乙女遥だった。
ハーフリムの眼鏡の奥の切れ長の瞳で、遥は刑事たちを冷徹に見据える。
「学園の自治を侵害し、強引に生徒を連行するなら、生徒会のお抱え弁護団を通じて徹底抗戦しますよ!」
「なんだと?女子高生が口を出すな。これは国家保安システムに基づいた正当な……」
「彼のデバイスのログが改ざんされた可能性すら検証せずに連行するなど、法治国家のやることではありません。マスコミにも『警察と特定企業が癒着し、無実の生徒を拉致しようとした』とリークしますが、それでも構いませんか?」
遥の理路整然とした、刃のような言葉に、刑事は一瞬言葉を詰まらせ、警備員たちの動きもピタリと止まった。
冷徹に警察を論破し、遥は大人を黙らせた。
「……生意気な小娘が。だが、証拠がある以上、言い逃れはできんぞ」
(このわずかな時間を使って、何とか大輝くんを守る方法を見つけなくては……)
遥は背中で冷や汗を流しながらも、表情一つ変えずに警察と対峙し続けていた。
沙羅理と遥の体を張った時間稼ぎが、大輝の運命を左右する決定的な数分間を生み出そうとしていた。




