第20話 キスをインフラにする冷酷な父親
「蘭聖。今月の抗体スコアだが、僅かに維持効率が落ちているようだな」
キスボや管理アプリ、口内清涼剤の利権を独占する巨大企業、三社連合ユニバースプラッシュの総帥である網野征士郎は、最上階の執務室でワイングラスを傾けながら冷たく言い放った。
巨大なモニターには、全国のキスボ利用率やV-CHUアプリの生体データが絶え間なく流れている。
「申し訳ありません、父さん。……少し、学園で目障りな者がおりまして」
「言い訳は聞かん。お前は我がグループが誇る最高級抗体ドナーであり、ブランドを象徴する生きた広告塔だ。道具が不良を起こせば、廃棄するだけのことだぞ」
(道具……。俺は、父さんにとってただの利権を維持するための駒でしかないのか……)
蘭聖は奥歯をギリッと噛み締め、深く頭を下げた。
「私は既に四十五歳を迎え、性ホルモンの減少によるウイルスの休眠化――すなわち『卒キス』の特権を得て、完全な自己免疫を取り戻した身。他人の唾液を乞わねば生きられん若者たちの浅ましい姿をモニター越しに眺めるのは、最高のエンターテインメントだがな。お前がその泥に塗れることは許さん」
「……はい、父さん」
「お前には心を通わせる友人や恋人など必要ない。我が社が支配するインフラ利権を盤石にするためにも、お前は完璧な存在として学園の女子どもを支配し続けろ。それが網野家に生まれたお前の存在価値だ」
「肝に銘じます」
冷徹な父親の命令に、蘭聖はただ従うことしかできなかった。
+++
翌日、学園。
コートへ向かう渡り廊下で、蘭聖は足を止めた。
視線の先には、元取り巻きの麗華がいた。
かつて自分の乱暴なキスで粘膜を傷つけられ、怯えていたはずの彼女が、大輝の手当てを受けた今、心からの笑顔で友人と笑い合っている。
(俺の恐怖の支配は……あいつの純粋な救護に完敗したというのか)
暴力で繋ぎ止めていたものの虚しさを突きつけられ、蘭聖の胸に冷たい敗北感が広がった。
夕暮れ時の学園。誰もいないハンドボールコートに、蘭聖は一人で立ち尽くしていた。
「完璧なドナー……完全な支配……。俺は、いつまでこんな無機質な作業を続ければいいんだ」
手にしたハンドボールを、指が白くなるほど強く握りしめる。
(幼い頃は、ただ純粋にこのボールを追いかけるのが好きだった。……なのに、今は抗体スコアを維持するためのトレーニングでしかない)
「くそっ……!」
蘭聖はボールを胸に抱き抱え、ギュッと唇を噛み締めた。父親からの異常な重圧と孤独感に耐えかね、その瞳には悔しさと悲哀が滲んでいた。
「あれ……?あの人、どこかで見かけたことあるような?」
吹奏楽部の練習帰りだった中等部の根張翼が、偶然その前を通りかかった。
(いつも取り巻きの女の人たちを連れてて、すごく偉そうにしてる人だったかしら。でも……なんだか様子が変)
翼は蘭聖のただならぬ雰囲気に気圧され、思わず後ずさった。
バサッ。
その拍子に、抱えていたフルートの楽譜を地面に落としてしまった。
「あ……っ!」
音が響き、蘭聖が鋭い視線をこちらへ向けた。
「……何を見ている」
「ご、ごめんなさい!なんでもないです!」
蘭聖は氷のように冷たい目で翼を睨みつけると、無言のままゆっくりと歩み寄ってきた。
(怒られる……!)
翼が身をすくめた瞬間、蘭聖は地面に落ちていた楽譜を拾い上げ、無造作に翼へと突き出した。
「落とし物だ。さっさとここから立ち去れ」
「あ……ありがとうございます……っ」
蘭聖はそれ以上何も言わず、背を向けて夕日を眺めた。
(冷たい目……。でも、楽譜を渡してくれた時のあの指先、かすかに震えてた)
翼は拾ってもらった楽譜を胸に抱きしめ、蘭聖の方を数度振り向きながら走り去った。
(あの人、すごく強そうで、誰よりも偉そうに見えるのに……本当は、すごく苦しそうに、泣きそうな顔をしてた……)
翼の心に、傲慢な優良ドナーとは違う、傷ついた一人の青年の姿が深く焼き付いた。
一方蘭聖は、校舎の陰で壁に手をつき、荒い息を吐いていた。
(名札を見たが、根張……あいつの妹か……。俺が毒薬で陥れようとした男の身内すら、こんな真っ直ぐな目をしているのか)
拾った楽譜を渡した際、無垢な瞳で向けられた「大丈夫ですか」と言わんばかりの心配。
誰かを傷つけ、道具として支配し続ける親父の命令に、蘭聖の心はもう限界を迎えつつあった。




