↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/26

第2話 ファーストキス

 ヒヤリとした、ひどく乾燥した感触が伝わってくる。


 硬く強張っていた彼女の唇が、大輝の柔らかな体温に触れた瞬間、微かに震えて小さく開かれた。


「んっ……」


 彼女の喉の奥から、熱に浮かされたようなかすれた吐息が漏れる。


 大輝は、自らの舌先を恐る恐る、未知の領域である彼女の口腔内へと滑り込ませた。


 チュ、チュル……という、生々しい粘膜同士が擦れる水音が静かに響く。


 他者の体温と粘膜の感触が直接脳を揺さぶり、大輝は全身の産毛が逆立つような強烈な衝撃を受けた。


(熱い……それに、すごく荒い息遣いだ)


 相手の口内からは、彼女が愛用している高品質タブレット「ビターオレンジ」の大人びた柑橘の香りが漂ってきた。


 しかし、抗体枯渇による極度の脱水症状のせいで、その香りは熱を帯び、どこか焦げつくように苦しげだ。


 生き延びる本能に従い、彼女の舌が大輝のそれを迎え入れ、すがりつくように激しく絡みついてきた。


 クチャ……チュプ、ジュルル……ッ。


 互いの唾液が交わり、濃密に混ざり合う湿った音が、耳元で生々しく増幅される。


 大輝のメディカル・プレーンの「素の味」と、彼女のビターオレンジが溶け合い、大輝の舌をピリピリと支配していく。


「んんっ……、はぁ……っ、んっ」


 鼻から抜ける彼女の熱い吐息と、大輝の荒い呼吸が交錯し、二人の顔の周りの空気をねっとりと満たしていく。


 大輝は、年上の女性の激しくも切実な舌使いにタジタジになりながらも、自らを必死に鼓舞した。


(落ち着け、流されるな!これはただのキスじゃない、人命救助なんだ!)


 大輝は、陸上の中距離走で鍛え上げられた強靭な肺活量を活かし、酸欠になりかけている彼女のペースに合わせるように、深く、長く一定の唾液を送り込み始めた。


「んぁ……っ、ちゅっ……」


 大輝はただひたすらに、「相手の粘膜を傷つけず、確実に触媒酵素を送り届けて救命する」ことだけを意識した。


 その純粋な自己犠牲の精神が、大輝の舌使いを、荒々しい貪り合いから、すべてを慈しむような優しい動きへと変えていく。


 無自覚に発動した、彼の包摂技「ディープ・レスキュー」だった。


 大輝の温かく柔らかい舌が、彼女の口腔内を広く優しく包み込み、渇ききった粘膜の隅々にまで自身の唾液を丁寧に擦り込んでいく。


 舌下静脈叢《ぜっかじょうみゃくそう》を優しく撫でる度、チュプ、ジュププ……という甘い水音が絶え間なく鳴り続ける。


 大輝の唾液腺の深部から、未知の触媒酵素が含まれた唾液が溢れ出し、極上の甘みとなって彼女の口内へ滔々《とうとう》と流し込まれていく。


(頼む、早く……早く良くなってくれ!)


 大輝が必死で唾液を絡ませるにつれ、腕の中で硬く強張っていた彼女の体が、少しずつ柔らかく解けていくのが分かった。


「んんっ……ぁ、あ……んっ」


 彼女の唇から漏れる吐息が、生きるための苦痛の声から、熱に浮かされた甘く切ない響きへと変化していく。


 法律で定められた三十秒という規定時間が、大輝にとっては永遠のように長く、そして一瞬のように短く感じられた。


 やがて、指輪型デバイスがブルッと短く震え、三十秒の経過を知らせる。


 しかし、大輝は彼女のチアノーゼが完全に引き、呼吸が安定するのを確認するまで、さらに数秒間、深く深く口づけを続けた。


 ジュプ……チュッ……。


 最後に一度だけ優しく舌を絡ませ、ゆっくりと名残惜しむように唇を離す。


 ツゥー……っと、二人の唇の間を銀色の唾液の糸が細く繋ぎ、やがてぷつりと切れて路地の地面に落ちた。


「ハァ……ハァ……っ」


 大輝は肩で息をしながら、ほんのりと血色を取り戻し、潤んだ瞳でこちらを見つめ返す彼女の顔を確認しようとした。


 すると、精気を取り戻した彼女は、離れた大輝の頭を抱え込み、再度のキスをせがんできた。


 予想外の延長戦へ突入してしまった。


 そこに、後ろから追いかけてきた沙羅理が合流した。


+++


「大輝!見つけた……って、ええっ!?」


 薄暗い路地裏へ駆け込んできた清水《しみず》沙羅理《さらり》は、その光景に息を呑んで立ち尽くした。


 彼女の幼馴染である根張《ねばる》大輝《だいき》が、見知らぬ女子生徒を抱き抱えるようにして、激しく唇を重ね合わせていたのだ。


(うそ、大輝が……キス、してる……!?)


 チュプ、ジュルル……ッ。


 静かな路地裏に、生々しい水音が響き渡る。


「んんっ……、はぁ……っ、んっ」


 顔を真っ赤にして熱い吐息を漏らしているのは、大輝の腕の中にいる黒髪ストレートの女子生徒だ。


 沙羅理はその制服を見て、同じ学園の生徒であることに気がついた。


(大輝の指輪の緊急ビーコンが鳴ったってことは、あの人が倒れかけてたってことよね。なら、これは立派な人命救助……。そう、ただの医療行為なんだから)


 沙羅理は必死に自分へそう言い聞かせた。


 この世界において、他者との吸唾《きゅうだ》は生きるための絶対条件だ。倒れかけた人間がいれば、抗体を分け与えるのは当然の義務であり、道徳的行為だ。


(わかってる。わかってるけど……!)


 沙羅理は胸の奥がギリギリと締め付けられるのを感じた。


 彼女は昔から大輝へ密かな恋心を抱き続けている。


 自分がずっと好きだった大輝の唇が、今まさに、どこの誰とも知らない女に奪われている。


 しかも、法律で定められた三十秒の規定時間はとうに過ぎているはずだった。


(長すぎる!早く、早く終わってよ!)


 沙羅理はハンカチを握りしめながら、二人の延長戦のキスを凝視し続けた。


 だが、二人の唇が離れる気配は一向にない。


 それどころか、女子生徒の方が大輝の首に腕を絡ませ、さらに深く舌を求め始めているように見えた。




---


※なぜ「直接舌を接触させるディープキス」でなければならないのか

外来分泌型抗体(キメラsIgA)の超酸素過敏性

変異速度が異常に速いHSIRVを抑え込むには、他者の唾液中に含まれる「分泌型免疫グロブリンA(sIgA)」を取り入れるしかない。

単一の自己抗体では、日ごとに超速変異するウイルスに対抗できなくなる(耐性を持たれてしまう)


空気中での即時酸化失活

この中和抗体は空気に触れると酸化酵素の暴走によってわずか1.5秒で立体構造が破壊(失活)される。そのため、シリンジやスプレーによる投与、人工的な保存は不可能。


舌下毛細血管と擦過吸収

密閉された口腔内で舌粘膜同士を擦り合わせ、舌下静脈叢(ぜっかじょうみゃくそう)の毛細血管から直接血液循環へ送り込む「30秒以上の密着ディープキス」のみが唯一の投与経路となる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。