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第1話 キスをしないと死ぬ世界

 2050年


 変異型レトロウイルス「渇き病(サースト)」のパンデミックから十五年が経過した世界。


 十六歳から四十四歳までの成人は、他者の唾液抗体を直接摂取しなければ数日で多臓器不全に至るという生物学的限界を抱えていた。


 これを防ぐため、ディープキスは手洗いやうがいと同義の「国際公衆衛生基準」として法的に義務化されている。


 根張《ねばる》大輝《だいき》がキッチンで自家製のスポーツドリンクを調合していると、背後からドタドタと慌ただしい足音が近づいてきた。


「お兄ちゃん!」


 振り返る間もなく、背中に柔らかい衝撃が走る。十五歳の妹、翼《つばさ》だった。


 黒髪のツインテールを揺らし、パジャマ姿のまま大輝の腰に抱きついている翼の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。


「どうした、翼。また怖い夢でも見たのか」


「違うもん……。もうすぐ、私も十六歳になっちゃうから……」


「何言ってるんだ。まだ一年も先じゃないか」


「私、お兄ちゃん以外の男の人とあんなことするなんて絶対に嫌だ!」


 翼はギュッと大輝の服を握りしめ、両頬を風船のようにぷくーっと膨らませた。


 幼年である翼は、法律によって他者とのディープキスが固く禁じられている保護期間中だ。


 だが、十六歳の誕生日を迎えれば、自己免疫が停止し、生きるために見知らぬ誰かと唇を重ね合わせなければならなくなる。


「大丈夫だ。お前が十六歳になるまでには、世界はきっとよくなっている」


「ほんとに……?」


「ああ、約束する」


 大輝は優しく妹の頭を撫でた。


 幼い頃に両親を事故で亡くし、祖母に育てられたこの家で、妹を守れるのは自分しかいない。


(俺が絶対に、翼をこの狂った社会のルールから守り抜いてみせる)


 朝早くパートへ出た祖母を見送り、今日、ついに十六歳の学年を迎えた大輝は、洗面台の鏡の前で己の決意を新たにした。


 制服のボタンをきっちりと一番上まで留め、クエン酸や塩分を黄金比で配合したスポーツドリンク入りの巨大な二リットル水筒を肩から斜め掛けにする。


 彼の左手には、昨日の昼に国から届いたばかりの銀色の指輪型ウェアラブルデバイスが握られていた。


 +++


 登呂美《とろみ》県潤水(うるみず)市の朝の通学路は、いつも通りの喧騒に包まれていた。


「おはよう、大輝。今日から私たちも、ついに大人側ね」


 合流地点の交差点で待っていたのは、大輝の幼馴染である清水《しみず》沙羅理《さらり》だった。


 ポニーテールにまとめたダークブラウンの髪が朝風に揺れている。


 彼女の右手の薬指にも、大輝と同じ指輪型デバイスが嵌められていた。


「おはよう、沙羅理。これ、なんだかまだ慣れないな」


「それもそうだけど……生き残るためとはいえ赤の他人と濃厚なキスだなんて、私、未だにできる気が……」


 沙羅理は露骨に顔をしかめた。


 彼女は「キスは好きな人とするもの」という、この世界では絶滅危惧種に近い乙女心を強く持っている。


「まあ、そう言うな。これも俺たちが生きていくためには必要なことらしいからよ」


「大輝って本当に真面目よね。でも、そんなところが……」


「ん?何か言ったか?」


「あっ、いいえ。なんでもない!」


 二人が歩く街の至る所には、公衆電話ボックスのような白とミントグリーンの「キスボ」――公衆免疫交換ブースが立ち並んでいる。


 朝のラッシュ時とあり、抗体残量が危険域に達した男女の市民たちが、通りすがりに目を合わせてお互いにキスを合意すると、防音と調光ガラスが完備されたブースの前に列を作っていた。


(そうなんだ。大輝はキスを『医療行為』で片付けちゃうんだ……)


 二人が通う登呂美県立潤水高等総合学園が見えてきた時だった。


 ピピッ、ピピッ、ピピッ!


 突如として、大輝の左手の指輪が激しい脈動とともに甲高い電子音を鳴り響かせた。


「な、なんだ!?」


「昨日、取説を見たわ。確かこれ、緊急救援ビーコンよ!近くに抗体残量が少なくなって倒れかけてる異性がいるはず!」


「マジか!?どこだ……あっちの路地裏か!」


「あっ、大輝!待ってよ!」


「俺のだけが鳴ってるってことは、女性が危険だ!ちょっと行ってくる!」


 これは適合する異性のデバイスにのみ通知がいくシステムとなっている。


 沙羅理の制止を振り切り、大輝は水筒を揺らしながら路地裏へと駆け込んだ。


 +++


 湿った空気が漂う路地裏には、学園の制服を着た一人の女子生徒が壁に寄りかかり、苦しそうに喉をかきむしりながら倒れ込んでいた。


「大丈夫ですか!しっかりしてください!」


「ハァ……ハァ……っ」


「同じ学校の人!?先輩か?」


 駆け寄った大輝は、彼女の顔を見て息を呑んだ。


 腰まで届く黒髪ストレートロング、ハーフリムの眼鏡。その知的な姿は見るからに才女といった落ち着いた魅力があった。


 しかし、その様子はひどく辛そうにしている。


 彼女は抗体が枯渇したことによる激痛によって極度の脱水状態に陥り、チアノーゼを起こして青ざめていた。


「あ……あなた、は……同じ、学園の……」


「はい、根張大輝です。でも俺、今日から大人側になったんで、どうしていいか……」


「お願い……助け、て……唇を重ねてくれるだけで……」


 大輝の顔を焦点の定まらない瞳で見つめた彼女は、自らの指輪デバイスを震える手で差し出した。


 周囲を見渡しても、他の男子の姿は一人もない。


 大輝は講習を受ける前とはいえ、どうすれば彼女を助けられるのかくらいはニュースなどを見て知っていた。


 一番近くのキスボまで運んでいる猶予すらないほどの極限状態の彼女。


(このままじゃ、多臓器不全で死んでしまう!)


 大輝は覚悟を決め、自らの左手を彼女の指輪へと近づけた。


 +++


 ピローン、というくぐもった電子音が路地裏に響く。


 互いのリングが青く発光し、緊急時の場所制限解除とV-CHU(ブッチュー)アプリの生体認証が完了した合図だった。


(これが、……初めてのキス……じゃない!これは人助けだ!)


 大輝の心臓が、肋骨を突き破らんばかりの早鐘を打つ。


 しかし、チアノーゼを起こして痙攣する目の前の命を救うためには、一秒の猶予もなかった。


 大輝は震える指で制服のポケットを探り、医療用の無味無香料タブレット「メディカル・プレーン」を一つ取り出すと、自らの口内へ放り込んだ。


「それじゃあ、失礼します。今から、あなたを助けますから!」


「あ……ぁ……っ」


 大輝は路上に倒れ込む彼女の肩を力強く抱き寄せ、その青ざめた顔をそっと上向かせた。


 そして、覚悟を決めるように目を閉じ、彼女の唇へと自らの唇を重ね合わせた。



---


※リングについて

一六歳以上の国民全員に常時装着が義務付けられている指輪型ウェアラブルデバイス。スマホのアプリと連携。近接無線通信や生体センサー、LEDインジケーターを搭載している。抗体残量が危険域(十五パーセント以下)になると激しく脈動して警告を発し、倒れそうになった際には半径数メートル以内の適合者に救護要請を飛ばす「緊急救援ドナーSOSビーコン」を内蔵している。

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