第17話 悲しみを塗り替える上書きのキス
オレンジ色の夕日が川面を照らす、逢瀬の岬へと続く川沿いの道。
大輝は、その人通りの少ない場所にポツンと設置されたキスボの前で立ち止まると、扉を開け、沙羅理を中へと促した。
「大輝、急にどうしたの?」
狭い密室の中。
電子施錠がカチャリと音を立て、二人は完全に外の世界から遮断された。
沙羅理は涙目で怯えたように、肩で息をする大輝を見つめた。
「……ごめんな、沙羅理。無理させて」
大輝は沙羅理の頭にポンと手を置き、子供をあやすように優しく撫でた。
「お前が生きるためには、交差抗体が絶対に必要だ。でも……お前が泣くくらいなら、こんな義務、俺が全部上書きしてやる」
「大輝……」
「誰かとキスして辛い思いをした後は、必ず俺のところへ来い。お前が受けた汚れは、全部俺がぬぐってやるから」
表向きは、あくまで悲しんでいる幼馴染を思いやる「優しい手当て」の提案。
だが、大輝の内心は違っていた。
(ただの幼馴染への同情じゃない。俺は……沙羅理が他の奴の唇に触れられるのが、狂うほど嫌だったんだ)
自分の中に芽生えた、沙羅理への明確な愛情。
大輝は今、その熱に初めてはっきりと気づいた。
しかし、自分がここで男としての感情をぶつければ、ただでさえ傷ついている沙羅理を困惑させ、今の居心地のいい関係まで壊してしまうかもしれない。
だから大輝は、胸に渦巻く熱い独占欲をぐっと奥底へ押し隠し、あくまで「優しい幼馴染」の仮面を被った。
「……ほら、泣くな」
大輝が、ゆっくりと唇を近づける。
沙羅理は緊張と戸惑いから、無意識のうちに制服のポケットに手を入れた。震える指で『ペパーミント』のタブレットを取り出し、パクリと口に含んでしまう。
(あ……)
ミントの清涼感が口内に広がるのと同時に、大輝の温かい唇が重なった。
「んっ……!」
それは、激しい感情を堪え、ひたすらに沙羅理の傷を癒やそうとする深く優しいキスだった。
じゅぷっ、ちゅるっ……ぬちゃっ。
沙羅理の唇についた他人の痕跡を丁寧に拭い去るように、大輝の舌がゆっくりと口腔内を包み込んでいく。
愛情をひた隠しにした、慈しみだけの重たいストローク。
「んんっ……、はぁっ、大輝……っ」
大輝の舌が、沙羅理の口腔内の隅々にまで入り込み、さきほど他の男が触れた記憶を根こそぎ奪い去っていく。
ジュプ……チュル、クチャ……。
夕暮れの密室に、生々しい水音が響き渡る。
大輝の唾液腺から溢れ出す、極上の甘みを持った触媒酵素。
それが、沙羅理の口内にあったペパーミントの香りと、彼女が流した涙のしょっぱい味を、完全に甘美な濁流へと塗り替えていく。
(すごい……。大輝が、私の悲しみを……全部、優しく溶かしてくれてる……っ)
大輝の底なしの思いやりに包まれ、沙羅理の頭は多幸感で真っ白にショートしそうになっていた。
腰の力が抜け、崩れ落ちそうになる身体を、大輝のたくましい腕がしっかりと抱きとめる。
「んぁっ……じゅぷっ……はぁんっ……」
タイマーが鳴っても、大輝は唇を離そうとしなかった。
ブースの曇りガラスが透明化するまでのギリギリの時間を使い、大輝は沙羅理の瞳を真っ直ぐに見つめ返してきた。
(これって……恋人同士がする、アイ・コンタクト……)
大輝の秘められた熱を帯びた視線に射抜かれながら、沙羅理は彼の腕の中で完全に蕩けていた。
やがて、警告音と共に二人の唇がゆっくりと離れる。
銀色の糸が、夕日を反射してキラリと光り、ぷつりと切れた。
「……少しは、落ち着いたか?これからも、お前が他の男とキスをして悲しむのなら、俺が何度でも上書きしてやるからな」
大輝は内心の恋心を必死に隠しながら、いつもの屈託のない笑顔を作って言った。
「……うんっ……」
沙羅理は真っ赤な顔で大輝の胸にすがりつき、小さく頷いた。
大輝の言葉が、行動が、嬉しかった。彼がこんなにも自分の悲しみに寄り添い、優しく守ろうとしてくれたことが、何よりも幸せだった。
(……私って、本当にバカで、臆病だ)
沙羅理は、大輝の胸に顔を埋めたまま、ギュッと目を閉じた。
(大輝の味だけで上書きしてほしかったのに。……本当の気持ちを伝えるのが怖くて、また『ただの手当て』っていうミントの言い訳に逃げちゃった)
ノー・ミントのキス。
お互いのすべてをさらけ出し、ただ純粋な愛だけで唇を重ね合う行為。
(いつか……。いつか絶対に、このミントを投げ捨てて、大輝の本当の味だけを感じてみたい)
夕暮れのキスボの中で、沙羅理は誰にも聞こえない声で、心に強く願っていた。




