第15話 恋人たちのノー・ミント・キス
昼休みのチャイムが鳴り響き、学園の校舎は、特有の活気に包まれ始めた。
手洗いやうがいと同じ感覚で設けられた「吸唾時間」。
生徒たちは抗体残量を維持するため、それぞれ相手を見つけて校内のキスボへと向かっていく。
「今日もすんごい行列ね、大輝の周り」
渡り廊下を歩きながら、清水沙羅理が呆れたようにため息をついた。
「なんとか抜け出せてよかったよ。俺だって休憩しないと干からびちまうからな」
根張大輝は、肩から斜め掛けにした巨大な二リットル水筒を揺らしながら苦笑した。
「ん?あそこ……」
ふと、沙羅理が渡り廊下の奥にあるキスボを指差した。
ブースの前に立っていたのは、同じクラスで中学時代から付き合っているというカップル、冴子と淳史だった。
「冴子たちか。あいつも抗体が減ってたのかな」
「大輝、ちょっと見て。冴子……今、口内清涼剤を食べずにキスボに入った?」
「え?本当だ。淳史もだ。エチケット違反じゃないか?」
大輝が不思議そうに首を傾げる中、二人はブースへと入っていった。
防音扉が閉まり、調光ガラスが白く曇り始める直前にキスが始まった。
沙羅理はハッと息を呑んだ。
「今……目、開けたままだったわ」
「うわ、マジで?目を見つめ合ってキスなんて、恥ずかしくないのかな」
大輝は驚いたように目をパチクリとさせた。
+++
放課後の教室。
大輝と沙羅理は、席で帰り支度をしていた冴子と淳史に声をかけた。
「なあ、淳史。昼休みにキスボに入る前、清涼剤を使ってなかっただろ?それに、見つめ合ってキスしてるところを見ちゃったんだけど……」
大輝が真顔で指摘すると、淳史はバツが悪そうに頭を掻いた。
「あー、見られちゃってたか。大輝にはわかんねーかな。あれは『ノー・ミント』ってやつだよ」
「ノー・ミント?素の味でキスをするってことか?」
「そうよ」
冴子が隣でクスッと笑いながら口を挟んだ。
「この世界じゃ、キスなんてただのうがいと同じ作業でしょ?だからこそ、本当に好きな人とは、マナーである清涼剤を使わないで、相手の本当の味だけを感じたいの」
「なるほど……。あえてマナーを破ることが、特別な好意の証明ってわけか」
「そういうこと!三十秒間ずっと目を見つめ合う『アイ・コンタクト』もね、恋人同士の特別な愛情表現なのよ。他の誰ともこんなことしないっていう、絶対の信頼の証拠」
冴子は淳史の腕にギュッと抱き着いた。淳史も照れくさそうに笑っている。
「愛の証拠か。でも、感染症のリスクを考えると……」
「もう、大輝くんは相変わらずカタブツなんだから!そういう理屈じゃないの!好きな人とは」
冴子が呆れたように手をヒラヒラと振った。
その会話を聞きながら、沙羅理は胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じていた。
(ノー・ミント……)
沙羅理は制服のポケットの中に手を入れた。
指先が、いつも愛用している『ペパーミント』のタブレットケースに触れる。
(私も本当は、大輝の味だけを感じたい。でも……)
大輝は毎日、自分の十枠のうち一枠を沙羅理のために空けてくれている。
しかし、それはあくまで「幼馴染としての手当て」という建前があってこそだ。
(ミントの味がしている間は、これはただの医療行為だって言い訳ができる。もしノー・ミントなんかでキスをして、本当の気持ちがバレちゃったら……今の心地いい関係が壊れちゃうかもしれない)
沙羅理は自らの臆病さを呪いながら、ポケットの中のペパーミントを強く握りしめた。
+++
帰り支度を終え、二人が夕暮れの廊下を歩いていた時だった。
ピピッ、ピピッ、ピピッ!
「うわっ!?なんだ、誰かの緊急ビーコンか!?」
大輝が慌てて周囲を見回す。
しかし、警告音を発していたのは、すぐ隣を歩く沙羅理の右手だった。
「沙羅理!?お前のリングか!?」
「あっ……違うの、これは……バグかしら!ちょっと調子が悪くて!」
沙羅理は慌てて手を背中に隠したが、大輝は強引に彼女の腕を掴み、連動しているスマートフォンの画面を覗き込んだ。
「なっ……生存可能時間、残り三時間!?残量十五パーセントのレッドゾーンじゃないか!」
「だ、大輝……見ないで……!」
「なんでだ!?俺は毎日お前とキスをしてるだろ!俺のキスなら、三ヶ月は持つはずなのに……」
大輝はV-CHUアプリのログ画面をスクロールして、息を呑んだ。
「……お前、未だに俺以外の男子と一回もキスしてないのか!?」
沙羅理は顔を背け、ギュッと唇を噛み締めた。
「……っ」
「バカ野郎!俺の抗体はあらゆる型を保護する触媒酵素を含んでるが、ベースは俺一人の単一遺伝子だぞ!お前みたいに他の人間の抗体を全く取り入れてなかったら、交差抗体の『カクテル効果』が得られないじゃないか!初回講習でやったろ!」
大輝は中距離走で鍛えた肺活量で、思わず声を荒げた。
「俺一人の遺伝子だけじゃ、超速変異するウイルスにすぐ耐性を持たれてしまうんだ。だから俺とだけキスしても、お前には定着しないんだ!」
「わかってるわよ……!そんなの、私だって聞いてたから知ってたわよ!」
沙羅理が涙声で叫び返した。
「知ってて、なんで他の奴と交換しなかったんだ!このままじゃ、多臓器不全で命がやべーぞ!」
「嫌なのよ!大輝以外の、知らない男の人とキスなんて……ただ生きるためだけに、心を殺して舌を絡ませるなんて、絶対に嫌なの!」
沙羅理の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
その涙を見て、大輝は胸の奥を鋭い刃物でえぐられたような痛みを覚えた。
(キスのために人が人を利用し、心をすり減らしていく……この狂った社会のルールが、沙羅理をこんなにも苦しめていた)
大輝は沙羅理の両肩を強く掴み、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。
「……頼む、沙羅理。生きてくれ」
「大輝……」
「俺は、お前に死んでほしくない。だから、ベースとなる抗体を作るためにも、他の男とキスをしてくれ」
「嫌……嫌よ……っ」
「頼む!俺のためにも、生き残るためにキスをしてくれ!」
大輝の悲痛で真剣な瞳に射抜かれ、沙羅理はついに抵抗する力を失った。
「……わかった。大輝が……そこまで言うなら……」
沙羅理は涙を拭い、小さく頷いた。
その顔は、まるで処刑台へ向かうかのように蒼白で、絶望に満ちていた。
大輝は、沙羅理を他の男の唇へと差し出さなければならない自分の無力さに、ギリギリと奥歯を噛み締めた。




