第10話 夕暮れのキス
夕暮れ時の帰り道。
オレンジ色に染まった川沿いの道を、二人は並んで歩いていた。
「ごめんな、沙羅理。また心配かけちゃって」
「……本当に無茶ばかりするんだから。いくら一日十人までって言っても、限界までやる必要ないじゃない」
「でも、目の前で苦しんでる人がいたら、放っておけないだろ?」
大輝の底抜けなお人好しぶりに、沙羅理は深いため息をついた。
「……沙羅理は、大丈夫なのか?」
「えっ?」
「お前、今日もまた他の男とキスが出来ていないだろ?リングの表示、黄色になってるぞ」
大輝に指摘され、沙羅理はハッとして自分の左手を隠した。
大輝のキスには三ヶ月猶予の効果があるものの、まだ大輝としかキスをしていない沙羅理には、カクテル効果を狙って他の男とも唾液の交換をしなければ、効果は薄かった。
他の女子が意図的に抗体を減らしてまで大輝に群がる中、沙羅理は一日中大輝の心配ばかりして、自分の管理を後回しにしていたのだ。
「べ、別に……。いざとなったら、その辺の男子と適当に済ませるから、平気よ」
「強がるなよ。知らない男と作業みたいなキスをするのが嫌だって、泣いてただろ」
大輝は立ち止まり、沙羅理の目を真っ直ぐに見つめた。
「俺の一日の上限は十人だ。だから……十枠のうちの一枠は、沙羅理のために毎日空けておく」
「……え?」
「生きるために必要なことだとしても、無理に心を殺すな。お前が耐えられない日は、全部俺が引き受けるから」
大輝の真剣な言葉に、沙羅理の胸が大きく跳ねた。
「大輝……。それじゃあ、大輝が大変なままじゃない……」
「俺は全然平気だ。ほら、あそこにキスボがある。入ろう」
大輝は川沿いに設置された夕暮れのキスボを指差した。
二人で狭いブースに入ると、電子音が鳴り、防音の扉が閉ざされた。
外の喧騒が完全に遮断され、二人きりの密室が生まれる。
沙羅理は制服のポケットから、見慣れた『ペパーミント』のタブレットを取り出した。
「ほら、口開けて」
「おう」
大輝の口にミントを放り込み、自分も一つ口に含む。
(これはただの幼馴染としての手当て。私が大輝を好きな本音は隠さなくちゃ)
沙羅理は自らの心に防壁を築くように、ミントの清涼感を強く噛み締めた。
「いくぞ」
大輝が優しく沙羅理の肩を抱き、二人の唇が重なり合う。
「んっ……」
昼間の女子たちとの激しい争奪戦とは全く違う、静かで穏やかな時間。
んむ……ちゅっ……
大輝は沙羅理の抗体を安定させるため、ゆっくりと、慈しむように舌を絡ませた。ペパーミントの爽やかな香りと、大輝の甘い触媒酵素が溶け合い、沙羅理の心を満たしていく。
「んん……大輝……」
焦る必要はない。
二人はキスボの規定時間である二分間ギリギリまで、じっくりと唇を重ね合わせる安らぎのキスを交わし続けた。
れろっ……ちゅっ……
やがて、終了を知らせるタイマーが鳴り、二人はゆっくりと離れた。
「ふぅ……。これで、沙羅理もしばらくは大丈夫なはずだ」
大輝が安心したように微笑む。
しかし、沙羅理がこっそりと確認したV-CHUアプリの画面には、『残量三十パーセント・生存可能時間二日』としか表示されていなかった。
大輝とのキスしかしていない、単一遺伝子交換であるため、カクテル効果が効かずに、沙羅理への抗体チャージは非常に少なかったのだ。
(やっぱり、あと数日しか持たないわね……)
だが、沙羅理はその事実を大輝には黙っておくことにした。
「うん。……ありがとう、大輝。すごく、楽になったわ」
(本当のことがバレたら、大輝に心配かけちゃうかもしれないし……。それに、毎日大輝とキスできる理由が、なくなっちゃうもの)
沙羅理は少しだけ罪悪感を覚えながらも、夕日を背に嬉しそうに微笑んだ。
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すっかり日が落ちた頃、大輝は自宅の玄関の扉を開けた。
「ただいまー。遅くなってごめん」
「おかえり大輝。今日も大変だったねぇ、すぐ温かいご飯にするからね」
台所からエプロン姿の祖母が、湯気の立つ鍋をおたまですくいながら優しく微笑みかけてきた。
「ありがとう、ばあちゃん」
大輝が靴を脱いだ瞬間、奥からドタドタと慌ただしい足音が近づいてきた。
「お兄ちゃん、おかえりなさーい!」
十五歳の妹、根張翼が満面の笑みで飛びついてくる。
「おう、翼。留守番ありがとな」
大輝が妹の頭を撫でようとした瞬間、翼の動きがピタリと止まった。
「……ん?くんくん……」
翼は子犬のように鼻をヒクつかせ、大輝の制服の胸元や首筋の匂いを嗅ぎ始めた。
「な、なんだよ翼。汗臭いか?」
「違う……!お兄ちゃん、なんか色んな香水の匂いがする!」
「えっ!?」
「柑橘系の大人っぽい匂いとか、甘いイチゴの匂いとか……それに、ビターチョコみたいな匂いまで!今日一日で、何人とキスしてきたの!?」
大輝の制服には、群がってきた女子たちの様々な口内清涼剤の残り香が染み付いていたのだ。
「ち、違うんだ翼!これは全部、純粋な医療行為で……!」
「嘘つき!学校で女の子たちに行列作られてるって噂、私のスマホにも流れてきてるんだからね!」
翼は両頬をぷくーっと風船のように膨らませて、猛烈に嫉妬の炎を燃やした。
「私という妹がいながら……お兄ちゃんの浮気者ーっ!!」
「痛っ、叩くな!これは生きるために必要な事であってだなぁ!」
ポカポカと胸を叩いてくる妹をなだめながら、大輝は内心で冷や汗を流していた。
(あと一年もしないうちに、翼も十六歳になる。こんな狂った争奪戦に、妹を巻き込むわけにはいかない……!)
大輝は、妹の純粋な怒りを受け止めながら、何としても翼が十六歳を迎える前にこの病気の根本治療薬の完成を願い、自らの突出した能力の使い道を模索していた。
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※家族・血縁者間の医学・法律ルールについて
抗体の獲得には主要組織適合遺伝子複合体HLAの差異が必須であり、遺伝子が近すぎる血縁者(親・兄弟姉妹)の唾液では抗体効果がほぼゼロとなる。そのため、二親等以内の唾液交換は公衆衛生法上原則禁止(近親交換禁止法)されており、アプリでも血縁者同士の端末は認証エラーとなる。




