第四章「開かれた扉」 第一話 騙す方が悪いに決まってんねん!(六)
(六)
人間という生き物は、あまりにショックな事が起こると、記憶を失うことがあるという。山際のおっさんが「おい、聞いてるか」と、声をかけてくるまでの記憶がない。
気がつけば、鑑識班だけでなく、科捜研まで現場に入っていた。
防臭マスクを着けた技官が、検知器を使って車庫内の一酸化炭素濃度を測っている。別の技官は、シリンジのような器具で車庫内の空気を採取していた。
死体だけやない。この車庫そのものが、証拠品になっていた。駐車場入口に設置されていた防犯カメラは、外から見ればそれらしく見えたが、どうやら見せかけに近い代物らしい。
大迫真司の奥さんは、遺体を見て卒倒して病院へ運ばれたらしい。安田に至っては、現状説明もままならないほど、動揺していた。
「まあ、無理ないのお。まさか腐乱死体があるとは思わんやろ」
山際のおっさんが、動揺する脳筋たちの顔を眺めて笑い飛ばした。
最初から、死体があると分かって踏み込んだ現場やない。俺たちはあくまで、詐欺事件の証拠を押さえるために家宅捜索へ来ただけやった。異臭の通報を受けて駆けつけたわけでも、遺体がある可能性を頭に入れていたわけでもない。せやから、シャッターの向こうに腐乱死体があるなんて、誰一人として想像もしていなかった。
完全な不意打ちやった。
「情けないやっちゃ」
国松のおっさんが、やれやれと言う表情で声をかけてきた。
「技官が言うには、腐敗が進んどるから、外表だけでは死因までは分からん」
「ほうか、しゃあないのお」
「……けどや、科捜研の奴ら、車庫の通気口のガムテープを見てブツブツ言うとったぞ。ただの自殺やない気配がプンプンしとる」
「なるほどな。一旦撤収や」
山際のおっさんの判断に、みんな驚きの表情を隠さんかった。通常、これほどの変死体が出て、かつ他殺の疑いがある場合、本部から来た捜査員まで引き上げる場面やない。むしろ現場を完全に占拠して本格的な捜査に切り替えるのが定石や。
「遺体の搬出と現場の維持は伏見署の刑事さん達に任せて、わしらは一連の事件を、精査し直さなあかんやろ」
その話をおっさんの傍で聞いていた伏見署の刑事達が、「いえいえ、どうぞ一課の皆様で……」と、いいたげな表情を全身に表して訴えているように見えた。
*
八幡署の帳場へ戻った俺は、いつもの屋上で、腐敗した匂いやなく、ライターのオイルの香りが混じる煙を味わっていた。大きく空へ向けて吐き出した煙草の煙は、昼の梅雨空と混ざり合った。
「お疲れ様です」
神楽が珍しく労をねぎらってくれた。普段なら何か嫌みでも言うてきそうな話やからな。
「そや。お前どこにおってん。本来なら、係長のお前が指揮せなあかんやろ」
ただ、昨日の会議から神楽がガサには参加しないことを知っていたのに、顔を見た瞬間俺は、憎まれ口を叩いた。
「大野晴子の意識が戻ったとの連絡を受けました。医師の許可が取れ次第、話を聞きに行くことになります」
「そうか。気ぃつけて行きや」
いつものように返した後、俺はことの重要性に気付いた。写真に写っていた四人のうち、室田康太と山根あかりは殺されて、行方が掴めていない高井正弘と意識不明だった大野晴子。その晴子の意識が戻ったとしたら、捜査がかなり進展する可能性があるからや。
《あかん、まだ朝の事をひきずっとるな》
俺は頭を振り、煙草を吸って誤魔化した。
「それと私、引っ越しすることにしました」
「……」
神楽の言葉を理解するのに少し時間がかかった。
「そうなんや。『この』忙しい時期に大変やな。それやったら、もっと早く言うたらええのに」
「桔平ちゃんに迷惑をかけたくなかったんです」
「何をいまさら。遠慮する間柄やないやろ」
俺は横目で、何か言いたげな神楽を見た。なんか今日は話が噛み合っていない気がした。
「どこに引っ越すんや? やっぱ、本庁の近くか」
「……」
《俺と離れるんが怖いんやな。可愛いとこあるやんけ》
言いずらそうにしている神楽を見て、少しだけ、胸がキュンとした。
「……宇賀田神社の母屋の横です」
「あー、あそこは大爺ちゃんが住んどってん」
《大爺ちゃんかぁ。めっちゃ懐かしいなぁ》
俺は、在りし日の大爺ちゃんの顔を思い出していた。俺が六歳の時に亡くなったんやけど、いつも俺を膝の上にのせて可愛がってくれた。
「そこです」
「ん?」
「引っ越し場所」
「……」
思いっきり胸を、ぎゅーっと締め付けられた。
フッ。何を戯けたことを言うとんねんこいつは……
「お婆様とお母様が……。
(初婆)――あんたな、一人で家賃も大変じゃろ。ちょうど母屋の横が空いとるさかい、越してきなはれ。
(鬼婆)――それ、よろしおすなぁ。向かいに払てる家賃をうちの神社にお布施しておくれやしたらお互いウインウインやおへんかぁ。
と、仰って頂いたので、甘えさせて頂きました」
「そこは遠慮せえや」
とだけ、突っ込んだ。
しかし同時に、人間の適応力というんはすごいもんやと思った。
宇賀田家の敷地内にもう一人、女が増えるという究極の災難に、俺は優しく「遠慮しいや」と、言えた。
苦節二十九年。
数多の試練を乗り越えてきた俺には、神楽が母屋の横に引っ越してくるという、多少の虐めには動じひん耐性が身についてる。
そういう自負さえ、芽生えていた。
「でも……」と言って、腹に手を当てた瞬間、俺の体が硬直した。
――忘れてたぁ。
そうや。それがあったんや。
宇賀田家の女どもが神楽を母屋の横に呼び込む理由が――。
最初にその話を神楽から聞いて、二ヶ月以上経っているということは、妊娠の可能性が強くなっていた。
けれど、事件続きの強いストレス、睡眠不足、食事の乱れでも遅れることはある……らしい。
――まだ確定やない。
俺の腹がキュルキュル鳴って、危険領域に達した。




