第一章「子供ができたの殺人事件」第一話「桜の下で、死体転がしてどないすんねん」(五)
(五)
その日のうちに帳場(捜査本部)が設置されることになり、八幡署三階の会議室では、普段の静けさが嘘のように、刑事や職員たちが慌ただしく動き回っていた。
机が次々と運び込まれ、班ごとの島が組まれていく。
『背割堤における刺殺事件特別捜査本部』
やがて、墨書きされた看板――俗にいう戒名――が、会議室の入口に掲げられた。
本部長には、八幡署長の下延昭夫、五十五歳が就いた。
背割堤から八幡署までは、八幡市役所の前を通って車で十分ほど。道が空いとれば、五分もかからへん。
署へ入るなり、山際のおっさんは「まずは挨拶や」と言い出した。そして俺と神楽は、半ば無理やり連れられ、署長室の前に立たされていた。
『えーっ、私ぃ、本日ぅ……』
山際のおっさんがノックしようとした。そのとき、署長室の中から、妙に間延びした声が聞こえてきた。
『そやないなあ……。あー、ゴホン!』
俺と神楽は、思わず顔を見合わせた。
コン、コン。
おっさんが扉をノックする。
すると中から、ガタァッ、と何かが落ちたような大きな音がした。
「ゴホンッ! 入りたまえ!」
無駄にでかい声やった。
「オヤジ、お久しぶりです」
山際のおっさんが扉を開け、先に入っていく。
その向こうで、一人の男が椅子に座っていた。
手にはダンベル。
いかにも、たった今までトレーニングしていました、と言わんばかりの姿や。
「おお、万作。お前さんが来たんか」
「これでも、捜査一課長なもんで」
「おお、そうか。ガハハハハッ!」
下延昭夫警視――。
巡査から昇任試験を勝ち抜いてきた、文字どおり叩き上げの警視や。ある意味、俺たちノンキャリアにとっては、憧れの大先輩でもある。
山際のおっさんが駆け出しの頃、下延のオヤジから刑事のイロハを叩き込まれたらしい。その話は、酒が入るたび、耳にタコができるほど聞かされとる。
鋭い目つきに、蓄えられた白い髭。今でも筋力トレーニングを欠かさないのか、五十五歳になっても筋肉隆々の身体をしとる。
――そこまではいい。
俺は、もう一度言う。そこまでは、ええとしよう。
《何で、この爺さん、署長室でタンクトップ姿になって、ダンベル持っとんねん?》
一応、関西人としての礼儀や。
俺は心の中で、きっちり突っ込んであげた。
「オヤジ、紹介します。一課の期待の星、大月神楽警部と……」
山際のおっさんは、そこで言葉を止めた。
何か言いたげな顔で、俺を見る。
そして、《何で、お前までおんねん》と言わんばかりに、わずかに躊躇した。
《何や、その目ぇは》
俺は見逃さなかった。
だてに毎日、女どもの顔色を窺いながら生きとるわけやない。あの家で生き延びるため、自然と身についた技や。
「こちらが、ウガンダ……です」
《何で、あだ名で紹介すんねん》
「お初にお目にかかります。大月神楽警部です」
神楽は背筋を伸ばし、きりっと敬礼した。
「おお、君が大月警部か。キャリアで優秀な女性が一課に配属されたっちゅう噂は、聞いとったでぇ。ガハハハッ!」
大声で笑った下延のオヤジが、今度は俺へ目を移す。
「君のことも聞いとるでぇ。ウカツダ君」
差し出された手は、分厚く、ごつかった。
握り返した瞬間、俺の手の骨がきしむ。日頃から鍛えとるだけあって、握力も相当なもんや。
……けど、この爺さん、人の名前を覚えるんは苦手らしい。
《ウカツダって、誰やねん》
俺は引きつった笑みを浮かべ、その場をやり過ごした。
ここに、あの嫌みな女記者がおらんことだけが、何よりの救いやった。
「ああっ、ウカツダ警部補だぁ」
あいつなら、嬉々としてそう呼び続けるに決まっとる。




