第29話:元婚約者との遭遇③
ラファエルは瞳に憎悪をたぎらせて、不快そうに顔を歪ませていた。エルダの前でいつも見せる、優しい笑みとは別人だ。
凍てつくような紫の瞳を、エルダは食い入るように見つめた。
「ひっ……! お前は……アルシュバーン侯爵!」
ダミアンが、怯えた声でそう叫ぶ。どうやら、ラファエルと面識があるらしい。
「――臭い」
すん、と鼻をひくつかせて、ラファエルは虫けらを見るような目でダミアンを見下ろしていた。
「ドブネズミ、お前のにおいは相変わらず不快だ。――消えろ」
ラファエルはすばやくエルダの肩を抱き、バーネットを一瞥した。
「バーネット。君にはエルダの護衛役を任せていたはずだ」
「すみません、ラファエル様」
「レイ! バーネットを責めないで。私がわがままを言ったせいで……」
レイは、小さく溜息をついた。
「……ともかく、行きましょう」
その場をあとにしようとしたレイの背中に、ダミアンが声を投じてくる。
「エルダ! お前まさか、こいつの情婦になったのか!? それだけはやめろ、この男はとんでもない悪党だぞ!」
「エルダ。耳を貸す必要はありません」
「俺はこの男に嵌められたんだ! お前の両親もだ!!」
ラファエルは、ダミアンを無視して歩き去ろうとしている。けれど――。
「俺がキャロラインと離婚したのも、そいつが罠を張ったからだ……!」
「…………『罠』だって?」
無視を決め込んでいたラファエルが、ダミアンを振り返った。
「ひどい言いがかりだな、ダミアン・クラーヴァル。妻がいる身でありながら、商売女と遊びふけっていたのは誰だ? だから離縁された。社交界でも有名な話だ」
「だ、だからその女たちは、お前が裏で雇って……」
「証拠は?」
「うっ……」
フッと冷たく鼻で笑うと、レイは吐き捨てるように言った。
「自業自得だ。――さあ、行きましょう、エルダ」
ラファエルは再び正面を向くと、エルダを促して大通りへと進んでいった。角を曲がる前の一瞬、ちらりとダミアンに視線を向けた。
「今より惨めな暮らしをしたくなければ、二度とエルダの前に現れるな。……二度とだ」
エルダもダミアンを振り返る。
地面に膝をついたまま、震え上がっているダミアンの姿が見えた。
***
ダミアンとの予期せぬ遭遇で、街歩きはおしまいになった。広場に留めていた馬車に乗ったエルダたちは、アルシュバーン邸へと戻る。
――気まずい沈黙の中。
「……すみませんでした」
ぽつりと、消え入るような声が響いた。
「え?」
「あなたを危険な目に遭わせ、不快な思いもさせました。すべて私の判断ミスです。……せっかくの誕生日だったのに」
深く頭を下げる姿は、出会ったばかりの頃の幼い『レイ』を思わせた。繊細で、ぽきりと折れてしまいそうなあの頃のレイを。
(……レイ)
エルダの胸が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
……この人には、いつも幸せでいてほしいのに。
「あやまらないで」
思わず、彼の両手をぎゅっと握っていた。ラファエルの身体が、驚いたようにぴくりと強張る。それでも彼は不安げだ。
「レイ、お願いだからそんな顔をしないで」
「しかし、私を軽蔑したでしょう?」
「どうして?」
「……色々な事実を、あなたに伏せていたからです」
彼の紫の瞳が揺れている。
「そんなことでレイを軽蔑するわけないでしょ?」
「……エルダ」
「私の身体を気遣って、負担をかけないようにしてくれてたのよね?」
いばらの呪いは、精神的なショックで再発することがあるとドクター・ピーナが言っていた。だからラファエルはこの話題を避けていたのだろう。……ミリュレー修道院がなくなったのを伏せていたのと同様に。
「ありがとう、レイ。でも心配しないで? こう見えて私、けっこう頑丈なんだから!」
冗談めかして力こぶを作ってから、エルダは優しい声でラファエルに尋ねた。
「だから教えて? 私の実家、どうなったの?」
ラファエルは押し黙っていたが、やがて重たい口を開いた。
「4年前に取り潰されました。その件には、……私も関わっています」
「詳しく聞いて良い?」
言葉を選ぶような口振りで、レイは言葉を紡いでいった。
「あなたの父君の不正を、私が見抜きました。彼は新大陸で購入した鉱山の鑑定書を偽造して、投資詐欺を働いていたのです。その鑑定書の不自然な点に気付いた私は、王家に調査を依頼しました」
その結果、詐欺が露見したオルドー子爵家は取り潰されたのだった。
「だからダミアンは、あなたを逆恨みしていたのね」
「……隠していて、すみませんでした。あなたの実家を壊したのは私です」
「レイのせいじゃないわ。あの人たちが、勝手に自滅しただけよ」
「エルダ……」
ラファエルは、それでも不安そうだった。
「ねえ、レイ。どうしてそんなに怯えているの?」
「…………あなたに軽蔑されるのが、怖いからです」
「何を言ってるの。私は絶対、レイを軽蔑なんてしないわ。――たとえどんな一面を見ても、絶対に」
まるで誓いを立てるように、エルダははっきりとそう言った。
ラファエルは優しい。
けれど、優しいだけではないのだと、ダミアンに接する彼を見たときに察した。
彼の心には、毒がある。トリカブトやベラドンナのような、身に秘めた危うげな毒が。
それでも、彼を嫌うなんてエルダにはありえなかった。
むしろ……。
そんな彼の全部を、抱きしめたくてたまらない。
(……でも、私はレイの『全部』を知っていい立場じゃないわ)
込み上げてくるこの切なさを、どう名付ければ良いのだろう? いや、むしろ気づいてはいけない感情なのだとエルダは思った。
「元気を出して! 私はいつもレイの味方よ」
婚約者でもない自分が、彼の過去を根掘り葉掘り聞き出すわけにはいかない。それでも、せめて彼の気持ちを少しでも軽くする助けになりたい。
「私、レイが悲しそうなのは嫌なの。今日のお出かけも、最高に楽しかったわ!」
エルダの笑顔につられるように、ラファエルも切なげな笑みを浮かべていた。
「……エルダ。ありがとうございます」
馬車はやがて、タウンハウスへと到着した。





