第17話:レイの献身
――シスター・エルダが無事で、本当に良かった。
呪いから覚めたばかりで、彼女は消耗しているようだ。うとうとと眠そうにするエルダが眠りにつくまで、ラファエルはずっと見守っていた。
やがて、すぅ、すぅ、と穏やかな寝息が聞こえると、ラファエルは安堵の息を吐いた。
エルダの見守りは侍女に任せることにして、自身はドクター・ピーナのもとへと向かう。
侯爵邸の最も広い客室は、数年前からドクター・ピーナの居室兼、医務室として改築されている。
「お待ちしておりました、アルシュバーン侯爵閣下」
医務室の椅子に腰を下ろすと、ラファエルはおもむろに上着を脱ぎ始めた。
露わになった彼の胸や背には、赤黒いアザが痛々しいほどに広がっている――ツルバラの蔦に似たアザが。
――かつてエルダの肌にあったのと同じ、いばらの呪いのアザである。
タトゥのようにも見えるそれは、鍛えられた筋肉の上を這い回り、ラファエルの美貌に妖しげな影を刻んでいた。
「アルシュバーン侯爵閣下。体調にお変わりはございませんか?」
「ああ、まったく問題ない」
ラファエルは淡々とした様子で、ドクター・ピーナの診察を受け続けた。ドクター・ピーナもまた、平静そのものだ。
「経過は良好でございますよ。閣下のアザは、今がもっとも活性化する時期です。そのため当面は広がっていきますが、その後は徐々に薄くなります」
「このアザは、首や腕にも伸びるのか?」
「可能性はございます」
「……ふむ。隠せない場所は、少々工夫が必要だな。シスター・エルダがこれを見たら大変だ」
口元に指を添え、ラファエルは少し思案していた。
「――まあ、どうとでもなるか」
それからラファエルは、ドクター・ピーナに左腕を差し出した。
「それではドクター。採血を」
「かしこまりました」
ドクター・ピーナは注射器を手に取り、流れるような所作でラファエルの二の腕から採血を始めた。
それを静かに見守りながら、ラファエルは淡く笑った。
「シスターの『呪毒』を私の体に打ち込んでから、もう6年か。早いものだ」
「ええ。一時は危険な時期もございましたが、よくぞ乗り越えられました」
注射針をそっと抜き、ドクター・ピーナは頷いた。血液の満ちた注射筒をゆっくりと揺すりながら、穏やかな声で続ける。
「エルダ様は、お幸せでございますね」
――抗呪毒療法。
新大陸で開発された、いばらの呪いの治療法だ。呪いで眠りに落ちた者の体内から『呪毒』と呼ばれる成分を採取し、弱毒化させる。
それを別の人間に投与すると、呪毒に抗う『抗毒素』が血液の中に造られる。その血に科学処理を加えると、目覚めの薬となるのだ。
ラファエルは自分の体を使った。そして彼の血に由来する『薬』を繰り返し投与され、エルダはようやく目覚めたのだった。
「すべては、アルシュバーン侯爵閣下のご献身の賜物でございますわ」
――この治療法は、危険を伴うものだった。
弱毒化してあるとはいえ、毒は毒。
ラファエルが命を落とす恐れもあったが、それでも躊躇しなかった。幸い死には至らず、今では完全に危険な時期を脱している。
だからラファエルに残る副作用は、素肌の痕跡だけだ。
(アザなど何の問題もない。これで目覚めたのだから、安いものだ。……だが、シスター・エルダに知られるのだけは避けなくては)
自分の体を使ったことを、エルダには知られたくない。
彼女は、人の痛みに敏感だ。ラファエルが危険を冒していたと知れば、きっと苦しんでしまうだろう。
彼女を苦しめるすべてを、ラファエルは許さない。だって彼女は、ラファエルのすべてなのだから。
*
医務室を出たラファエルは、自身の部屋へと戻った。椅子の背もたれに身を預け、天井を仰いで呟く。
「……私だけのシスター・エルダだ。死神にだって渡さない」
そう。
エルダを脅かす存在など、この世に一つとして許さない。
だからラファエルは、彼女に害を為した者たちに制裁を加えてきた。
元婚約者のダニエルも。実家のオルドー子爵家も。すべて必要な報復だった。
その甲斐あって、今のエルダを脅かすような人間はいない。だから、そろそろ次の段階を目指すべきだと思った。
――『私……もう、帰れないの?』
修道院がなくなったと知ったエルダの、悲しそうな顔。
「シスター。あなたは、私と生きたいと思ってくれないのですか?」
自分は、ずっと彼女の隣にいたいのに。
……本当は、そばにいるだけでは足りない。この腕できつく抱きしめて、とろけるほどに愛したい。
絶対に逃げ出さないよう、しっかり捕えて自分だけのエルダにしたい。
――なのに。
ラファエルはひとつ溜息をついて、鍵付きの引き出しから一通の手紙を取り出した。
今朝届いたばかりの、家令からの手紙である。
『領内にて有事。至急、戻られたし』
その文面を睨みつけ、ラファエルはかすかに眉をひそめた。





