第16話:必ず幸せにします
――おかしい。おかしい、おかしい、おかしい!
自室のソファに倒れ込み、エルダは頭を抱えていた。
(なんなの私!? どうしちゃったの!?)
きゅんと来た。
この感じは、なんかマズい。よく分からないけれど、この甘酸っぱいのはアウト寄りな感じがする。
「あああああ、もう、……私、ばかっ!!!」
自分の頬をばしばし叩き、エルダはソファから立ち上がった。
(何考えてるの! だめでしょ、そんなの絶対ダメ!!)
ラファエルに、不謹慎な感情を持つ気はない。守るべき子どもだった頃も、立派な大人になった今も、それだけは変わらない。
(たるんでるわよ、エルダ! 長居しすぎて、やっぱりダメ人間になっちゃってる!!)
自立だ。
とにもかくにも、今の自分は自立が足りない。
このお客様待遇は、修道女としてあるまじきものである。
――そう考えたエルダは、今後の計画をきちんと立てておこうと思った。
「ミリュレー修道院には、いつごろ戻れるかしら。レイとドクター・ピーナに、あとで確認しておかなくちゃ」
日常動作がひとしきりできるようになれば、社会復帰は目前のはずだ。
アルシュバーン侯爵邸での日々は楽しいけれど、自分の生き場所はここではない、とエルダは思っている。だって自分は生涯を修道院で過ごすつもりで、実家と縁を切ったのだから。
「……ミリュレー修道院は、今どんな感じなのかしら」
思い立ち、エルダは書庫室に向かった。
アルシュバーン侯爵邸の書庫室には、古今東西の歴史書や経済白書など膨大な書物が収蔵されている。地図帳くらい、すぐに見つかると思っていた。
けれど――。
「あら?」
地理関連の棚には、なぜか国内の地図帳だけがない。
「貸し出し中……かしら」
そう思いつつ探し続けていると、なぜか全く別ジャンルの書棚の一番上のほうに、ひっそりと国内の地図帳が押し込まれているのを見つけた。
「収納場所が間違っているみたい。寄りにもよって、こんな取り出しにくい場所に……」
脚立に登って最新の地図帳を抜き出すと、エルダは机に向かった。
国内西部のページをめくる。
「あれ?」
エルダは小さく首をかしげた。
ミリュレー修道院の荘園領地が、なぜか別の貴族のものとして記載されている。
「この地図、間違っているわ」
どうやら国内の地図帳は、二年に一度更新されているようだ。同じ書棚にあった2年前に刊行されたものを取り出し、再びミリュレー修道院の場所を調べた。
しかし、また……。
「どうしてミリュレー修道院がないの?」
なんだか、いやな感じがした。
もう一つ、さらに一つと古い地図を見比べてみる。8年前の古い地図で、ようやくミリュレー修道院を見つけることができた。
――どういうことだろう。
理解できないモヤモヤが、胸の中に広がっていく。
……ただの誤記では、ない気がする。
ミリュレー修道院は、国内有数の広大な荘園を所有していた。
薬草の収穫高は国内西部で一番で、その収益で病める人や貧しい人を支えていたのをエルダは知っている。
「収穫高の、統計資料は……?」
貴族の屋敷の書庫ならば、必ず置いてあるはずだ。全国各地の農作物の、領地ごとの税収白書が。
書庫の奥まった場所にそれを見つけ出したエルダは、ページをめくって読み込んでいった。
――小麦。芋。羊毛。薬草。
各領地の収穫高と、税収の数値が並ぶ。
「……ない」
どのページにも、ミリュレー修道院の名がない。
(どういうこと!?)
エルダは資料を抱えて書庫室から飛び出すと、ラファエルの執務室へと向かった。
「レイ!!」
執務室には、ちょうどラファエルとミモザがいた。二人とも、エルダのただならぬ様子にぴくりと顔をこわばらせている。
「シスター・エルダ……?」
「ミリュレー修道院がないの!」
「っ」
税収白書のページを開き、エルダはそれを指さした。
「薬草も、小麦も……! ミリュレー修道院の荘園領地の報告がないなんて」
ラファエルとミモザの顔が、ますます硬くなった。
「地図帳も変だったの。8年前の版までは、名前があったのに」
息を呑む二人を見て、エルダは悟った。――自分の知らされていない真実が、存在するのだと。
「お願い、教えて。ミリュレー修道院は今、どうなっているの!?」
「………………」
「レイ!」
ラファエルは、言葉を探しているようだった。
本当は、彼を困らせたくはない。でも、知らないままではいられなかった。
彼は気まずく押し黙ったまま――その沈黙は、どれほどの長さだっただろうか。
「――ありません」
(……そんな)
観念したように吐き出されたその言葉に、エルダは耳を疑った。
「もう、ないんです。修道会内部の事情で、解体されました」
「嘘でしょう……?」
震える声で尋ねてみても、二人は頷いてくれなかった。
「私……もう、帰れないの?」
エルダが問うと、ラファエルは切なそうな顔をした。
「あなたの居場所は、ここではいけませんか?」
「でも……!」
――マザー・グレンナは?
ふと、彼女の姿が頭をよぎった。
エルダにとって、母親以上の存在だった。どんなときでも強くて逞しくて、帰れば必ず、憎まれ口をたたきながらも笑って迎えてくれると信じていた。
(解体って……それじゃあ、マザー・グレンナはどうしたの? あの人が地位を手放すなんてありえない。どんな手を使っても、自分の利権を守ろうとしたはずよ……そういう人だもの)
酒を飲みながら、金勘定をしながら、マザー・グレンナは口癖のように言っていた――『あたしが生きてる限り、院長の座はあたしのもんさ。この荘園は、金の卵を産む鶏だからねぇ』。
――生きている限り?
(まさか……!)
恐ろしい予感に、全身の血が凍り付いた。
……考えられないことではない。
なんせ、10年だ。マザー・グレンナは生きていれば71歳。かなりの高齢である。どうしてこれまで思い至らなかったのだろうか……マザー・グレンナが亡くなっていたかもしれないということに――。
(…………っ)
その瞬間、ぷつりと糸が切れた気がした。
「「シスター!?」」
身体に力が入らない。
ネジ巻き時計のゼンマイが切れたように、全身が言うことを聞かない。
(あれ……私……どうしたの……)
「まさか……呪いの再発?」
「きゃああ! しっかりしてください、シスター・エルダ!!」
「落ち着け、ミモザ! すぐにドクター・ピーナを呼ぶんだ!」
「分かりました!!」
ラファエルに抱かれてぐったりしたまま、エルダは意識を手放した。
***
「……ター、……スター」
たゆたうような暗闇の中、エルダは誰かの声を聞いた。
「……ルダ」
弦楽器のように低く伸びやかで、聞きほれてしまいそうな美声だ。繰り返し響くその声は、次第にはっきり聞こえ始めた。
「しっかりしてください、シスター・エルダ!」
暗闇の中から引きずり上げるような、力強い声だった。
「……………………ん」
ぴくり、と。
エルダは瞼を震わせた。重たい瞼を、微かに開く。
目に映る、すべてがぼんやりとしていた。天井の美しいシャンデリアも。真剣な顔でこちらを見つめる、紫色の瞳も……。
「シスター・エルダ!!」
ラファエルの声で、エルダの意識が徐々に目覚める。しっかりと握られた手の感触が、ありありと感じられてきた。
「――――あれ。……私……」
自分がベッドに寝かされていることに、エルダは気づいた。
ラファエルの隣にいるのは、ドクター・ピーナ。その後ろにはミモザとローゼル、アニスの姿もあった。全員が、安堵と緊張をない交ぜにした顔でエルダを見つめている。
「よかった……。やっと目覚めてくれましたね」
ラファエルの瞳は、今にも泣きだしそうだった。
「シスターは、一昨日からずっと眠ったままだったんですよ」
「一昨日……?」
「ええ。……呪いが一時的に再発したんです」
再発――?
戸惑うエルダを、ドクター・ピーナが診察した。
「現在は安定した状態です。念のため、数日安静にしてから普段通りの生活に戻していきましょう」
「あの。私、一体……? 再発って……?」
呪いは治ったものだと思っていたけれど、実際は違うのだろうか。不安そうにするエルダを見つめ、ドクター・ピーナはラファエルに許可を得てから説明を始めた。
「目覚めておよそ半年は、呪いの残滓が体内に残っているのです。再発のリスクは徐々に低下していきますが、今はまだ注意が必要な時期です」
ドクター・ピーナは説明を続けた。
「精神的なショックを受けると、再発するおそれがあります。個人差があるので、必ず倒れるというわけではありませんが――」
たしかに。マザー・グレンナの死を悟った瞬間に、いきなり身体が動かなくなった。
「すみませんでした、シスター・エルダ」
表情を曇らせたエルダの手を、しっかりとラファエルが握っていた。
「いいえ……。私こそ、無理やり聞き出したりしてごめんなさい」
地図帳が不自然な場所にあったのも、なかなか話してくれなかったのも、エルダを気遣ってのことに違いない。
エルダの負担になりそうなものを、彼は意識的に避けたのだろう。
「それでは、アルシュバーン侯爵閣下。わたくしは別室にひかえておりますので、いつでもお呼びくださいませ」
ドクター・ピーナが退室し、その後ろに侍女3人も続いた。
ぱたんと扉が閉まってからも、ラファエルは握った手を決して離そうとしなかった。
「目覚めてくれて、本当によかった」
「レイ……」
(私、強く生きなきゃ。マザー・グレンナも、きっとそうだったはずよ)
喪失感やショックが引き金だというのなら、これからはもっと強く生きよう――と、エルダは心に誓った。マザー・グレンナもきっと、命の火が消える最後の日まで逞しく生きたはずだから。
(レイが私を生かしてくれた。だからこの命、絶対ムダにはしないわ!)
修道院がなくなった以上、今後の生き方を考え直さなければいけない。
でも、きっとなんとかなる。
エルダは力強く笑った。
「心配かけてごめんね。私、もう大丈夫よ」
一方のラファエルは、まっすぐな瞳で見つめ返してきた。
「私が必ず、シスターを幸せにします」
「……?」
紫の瞳には、なにかの決意が籠っているように見えた。





