第15話:幸せな目覚め
――毎朝の目覚めがこんなに楽しみなのは、生まれて初めてかもしれない。
朝の気配を瞼に感じ、ラファエルは目を覚ました。
思わず、笑みがこぼれてしまう。
今日はシスター・エルダと、どんな話をしよう?
今日のシスター・エルダは、どんな表情を見せてくれるだろうか?
彼女と過ごせる日常は、なんてすばらしいんだろう!
「……いろいろなことを、がんばってきた甲斐があった」
幼い頃からの痛みも苦しみも、今ならすべて許せる気分だ。エルダが一緒にいてくれるなら。
「目覚めてから、もうすぐ4か月か」
とうとうエルダは、自力で歩けるようになった。
最初は生まれたての子鹿のようだったが、今では昔と変わらぬ元気な姿を見せてくれている。
熱心にリハビリに励んだ成果だ。
長時間の歩行もまったく苦ではないようで、最近は侯爵邸の敷地内を楽しそうに散策している。
エルダが幸せだと、ラファエルも嬉しい。
(……だが、少し心配だな)
朝の身支度を終え、ラファエルはエルダの部屋へと向かった。
身体の自由を取り戻したエルダが、自分の手の届かないところに行ってしまったらと思うと気が気ではない。
我ながら過保護が過ぎると思いつつ、長い廊下を進んでいたそのとき――。
「きゃあああ!」
「なにしてるんですか、危ないです!!」
アニスとミモザの悲鳴が曲がり角の向こうから聞こえた。
「落ちたらどうするんですか!」
「早く降りてください!!」
「平気よ、このくらい」
「「「ダメですってば、シスター・エルダ!」」」
――シスター・エルダ!?
血相を変えてラファエルが駆け込めば、高い梯子に登って吹き抜けフロアの天窓を雑巾で拭くエルダの姿がそこにあった。
「何をしているのですか!! シスター・エルダ!」
「あ。レイ」
何をしている? 彼女は何を!?
ラファエルは不意に、ミリュレー修道院で働いていた頃のエルダを思い出した。当時の彼女は毎朝必ず、礼拝堂のステンドグラスをきれいに磨き上げていた。
「ずっと休んでいたから、たまには拭き掃除でもしようかなって」
「だからっていきなり――」
「平気平気」
エルダは大きく手を振ったが、それが良くなかった。
やっぱり鈍っていたらしく、細い身体がふらっと傾く――
「キャーー」
「危ない!!」
すんでのところでラファエルが滑り込んで抱き留めていなかったら、エルダは床に墜落していたはずだ。
ぜい、ぜいと荒い息をして、ラファエルは珍しく動揺していた。
「だから危ないと言ったのに!」
「ご、ごめんね……レイ」
腕の中でシュンとするエルダがあまりに可愛くて、怒りがうっかり吹き飛んだ。もだもだと悶えたいのを我慢して、ラファエルは子どもを諭すような表情でエルダを見つめた。
「……ともかく、怪我がなくて良かった。いくら動けるようになったといっても、いきなり昔と同じにできる訳ないでしょう?」
「はい……」
妙なところが抜けているのも昔のままだ。彼女はしっかり者なのに、自分のこととなると途端にずさんになる。そんなところも、可愛らしくてたまらない。
本当はこのまま、ずっと抱きしめていたかった。
「働かなくていいんですよ、シスター・エルダ。せっかく元気になったんですから、のんびり過ごしてくださ――」
「そう言う訳にはいかないわ。私、働きたいの」
エルダは真剣そのものだった。
「これだけお世話になっていて、私だけのんびりなんて絶対にイヤ。どんな雑用でもいいの。……迷惑は、かけないようにするから。お願い、レイ」
途中から弱弱しい声になったのは、今の失敗を申し訳なく思っているからなのだろう。耳を垂らして反省する仔犬の姿を重ね見て、ラファエルは心臓を撃ち抜かれた気がした。
(うっ……)
かわいい。可愛すぎる。
エルダは仔犬で、天使で、女神だ。
「……分かりました。でも、危ない作業は禁止です。あと、何かするときは事前に私に確認してください」
エルダは顔を輝かせた。
「ありがとう! それじゃあ私、これから何をしたらいいかしら」
「そうですね……」
ラファエルは考えた。なにか作業を頼むなら、自分の目の届く場所だけにしてほしい。
「それでは、私の執務室の清掃を」
最近仕事が立て込んでいて、ちょうど散らかり気味だった。
しかしエルダは手際が良いから、あの程度ならすぐに片付け終えてしまいそうだ。
(……不自然にならない程度に、少し仕事を増やしておくか)
「1時間ほどしたら、片付けに来てくれますか? 最近仕事が忙しくて、散らかって困っていたんです」
「わかったわ!」
笑顔を咲かせるエルダを見つめ、ラファエルはやれやれと思いながらも嬉しかった。背中にジトっとした視線を感じて振り返ると、侍女3人が呆れ顔でラファエルを見ていた。
「「「…………(見え見えですよ。長居させたくて、わざと散らかすんでしょ?)」」」
「こほん(何か文句でも?)」
「「「……(いえいえ?)」」」
ラファエルが冷ややかに咳ばらいをすると、侍女たちは表情を切り替えてそれぞれの持ち場に戻っていった。
***
――まるで、夢のようだった。
エルダとふたりきり。彼女がわざわざ、自分のために片付けに来てくれるだなんて。
「助かります、シスター・エルダ」
「こちらこそ、任せてくれてありがとう。さっそく床掃除からさせてもらうわね? でも本当に今でいいの? お仕事の邪魔にならないかしら……」
「邪魔だなんてとんでもない。ぜひよろしくお願いします」
普段は文官や執事が出入りすることも多いが、今はしっかり人払いしておいた。彼女とふたりきりの時間に、他人が割り込むなんて論外だ。
ラファエルはさりげなく、掃除をしているエルダの背中を目で追った。
(シスター・エルダ……昔のままだ……。いや、前よりさらに美しい……)
10年眠り続けたエルダは、まもなく27歳になる。
世間では『行き遅れ』と揶揄される年齢かもしれないが、もしエルダをそのように呼ぶ輩がいたら社会的に抹殺してやる。
エルダは咲き誇る華だ。
清楚で気高く、いつもラファエルを照らしてくれる。
(……参ったな。これでは仕事どころじゃない)
どきどきと、胸の高鳴りが止まらなかった。
自ら甘く迫るときに恥じらうことはないが、エルダの側から何かしてもらえるなんて嬉しすぎる。緩む頬を引き締めるのが大変だ。
床掃除。窓磨き。書類の整理。
エルダはひとつひとつの作業に心を込めて進めてくれた。やがて1時間半ほどで、エルダは作業を完了させた。
「ありがとうございました、シスター・エルダ。見違えるようです」
「ふふ、こちらこそありがとう」
目を細めて笑うエルダを見て、ラファエルは少し違和感を覚えた。……彼女の瞳が、何か言いたげだ。
「ねえ、レイ。…………この部屋、わざと汚したでしょ」
「……っ!」
――バレていたのか。
かなり工夫して手を加えておいたのに。
「窓枠の埃の溜まり方で分かっちゃった。でも、書類の整理のほうは実際に役に立てたみたい。違う?」
「……」
言葉を失うラファエルを見つめて、エルダは子どものいたずらを見抜いたような顔で苦笑している。
「私って、やっぱり頼りないのね」
「……違います」
ああ、我ながら幼稚なことを――と、ラファエルは遅ればせながら後悔した。くだらない出来心で、エルダを不安にさせるなんて。
「すみません、シスター・エルダ。……時間を稼ぐために、浅はかな真似をしました」
「怒ってないわ。私を気遣って、仕事を増やしてくれたんでしょう?」
……それもある。
でも、本音はもっと別だ。
「いいえ……気遣いよりも、私自身のわがままです」
「え?」
正直に白状するしかない。情けなくて、頬が勝手に熱くなった。
「シスターに、何かをしてもらえるのが嬉しくて。……少しでも私のそばにいてほしかった」
軽蔑されると思った。
けれどもエルダは、なぜか頬を染めて視線をうろうろさせている。
「…………レイったら、やっぱり甘えん坊ね」
ふい、とそっぽを向きながら、エルダは口元を手で隠して呟いた。
「シスター……?」
「片付けてくる。……それじゃあ、失礼しました」
掃除用具を抱えたエルダは、どこかそわそわした様子で退室していった。
***
(……なにそれ。なにそれ、なにそれ……!!)
顔を真っ赤にしながらエルダは廊下を駆けている。
『シスターに、少しでも私のそばにいてほしかった』
――きゅん、と来た。
これまでのドキッとするのとは、全然違う。
すてきな大人になったのに。あの人が、子どもみたいなことを言うから。
(……照れてるレイ、かわいかった)
顔を赤くして、しょんぼりと謝る姿がとてもかわいくて溜まらなかった。
(ちょっと待ってよ、私……。こんなの、変よ……)





