第13話:新聞とオルドー子爵家
「そう。上手に歩けるようになってきましたね、シスター・エルダ」
「ありがとう、レイ!」
目覚めてから、あっという間の2ヵ月だ。
昼下がり。エルダはいつものように、ラファエルに支えられて歩行練習を行っていた。
彼の腕につかまって、ゆっくり一歩ずつ進んでいく。
「左足を出すとき、重心をあと少しだけ前に傾けてみましょう。歩行が安定するはずです」
「こう?」
「ええ。とても良いですよ」
眩しい笑顔も、すっかり素直に受け止められるようになった。
ふとした瞬間ドキリとするのは相変わらずだが、ミモザたちの助言のおかげで楽になった。
(昔はあんなに華奢だったのに……本当に成長したのね)
彼の腕につかまっていると、がっしりとした逞しさに驚いてしまう。ほっそりとした外見をよそに、意外と鍛えているようだ。
「あっ」
――そのとき不意にバランスが崩れた。大きくよろめきそうになると。
「大丈夫」
しっかりと抱き留められていた。男の人の爽やかな香りと体温に包み込まれて、またもやカッとなってしまう。
「ご、ごめんなさい!」
「平気ですよ。疲れが出てきましたか? そろそろ切り上げましょう――失礼します」
ラファエルはエルダを抱き上げて、ソファに運んだ。
「いつも、ごめんね……重いでしょ?」
「まさか。羽のようですよ」
この人は、いつもそう。いつだって優しく笑って、エルダに寄り添ってくれる。
ソファに並んで座りながら、エルダはその横顔を盗み見た。
(それにしても、レイがアルシュバーン侯爵家のご令息だったなんて。いったいどういう事情で、貧民街で暮らしていたのかしら……)
そしてなぜミリュレー修道院から、アルシュバーン侯爵家に戻ったのか。そしてどうやって当主になれたのか。
エルダには、分からないことだらけだ。
(たしかアルシュバーン侯爵家には、私と同い年くらいの跡取り息子がいたはずよ。その後継者を差し置いて、レイが当主になるって……?)
エルダの視線に気づいて、ラファエルが微笑みかけてきた。
「私の顔に何か付いていますか?」
「う、ううん。何でもないの」
いろいろ気にはなるけれど、どう考えても訳ありだ。興味本位で聞いていい話ではないと思った。
「――聞いてくれて、良いんですよ?」
と、ラファエルはまたエルダの思考を先回りするように囁いてきた。
「え?」
「あなたには、偽らないと決めているので」
す――。と、さりげない所作で彼はエルダと手を重ねた。
ぴくり、と強張るエルダの手を、ラファエルはまるで宝物のようにしっかり包み込んでいる。
(……手!? ちょ、ちょっと手……レイ!)
さすがに羞恥が込み上げて、エルダは露骨にうろたえていた。
「私はあなたに信頼されたい。だから嘘だけはつきません。……誓います」
その瞳があまりに切実で。
エルダは、思わず息を呑んだ。
「今はまだ伝えられないことも……いつかすべてを、必ず」
「?」
重大な秘密を抱えているような、その口ぶりはなんだろう?
(……レイ?)
そのまま降りた沈黙を、控えめなノックの音が断ち切った。
入ってきたのは、侍女のローゼルだ。
「失礼します。ラファエル様、王宮より書簡が届いています」
「…………分かった」
ラファエルは名残惜しそうな顔でエルダを振り返った。流れるような仕草で、握っていたその手に口づけを落とす。
「ひゃ!?」
「すぐ戻りますね、シスター・エルダ」
水を掛けられた猫のように飛び上がるエルダと両頬を押さえて目を輝かせるローゼルを残し、ラファエルは退室していった。
「んなななななな……!!!」
「きゃっ♡♡ ラファエル様ったら大胆! シスター、お顔が真っ赤ですよ♡」
「何言ってるのよ、ローゼル! こ、困った子ね、レイは…………大人になった自覚が、た、足らないというか! 昔のノリで来られたら、さ、ささ、さすがに困るわ!」
「へー……」
ニマニマとしたローゼルの視線がつらい。
「ちょ、ちょっとローゼル……変な顔しないで……」
居心地の悪さに耐えかねて、エルダは「もう!」と声を上げた。ともかく、話題を変えなければ……!
「ローゼル! 悪いけれど、何か読みものを持ってきてもらえる!?」
文字を読むのも、立派なリハビリの一つだ。
「わかりました。恋愛小説でもお持ちしますか?」
「そういうのじゃなくて、もっと固いの……! そうだわ、新聞をお願い!」
ローゼルが持ってきてくれた今朝の朝刊を受け取ると、エルダは早速読み始めた。
「新聞なんて珍しいですね、シスター・エルダ」
「ええ。十年も寝てたんだから、少しは社会勉強しておかなくちゃ」
ローゼルが退室すると、エルダはこほん、と咳払いして気を引き締めた。
「……さて。世間は今、どんなことになっているのかしら?」
政治欄や経済情報、上流階級の動向なども気になるところだ。
「ふぅん。新大陸との交易も、ずいぶん発達したのね」
ふと、新大陸での鉱山開拓の記事に目が留まった。なんでも、4年前に我が国の貴族が鉱山ビジネス絡みの詐欺事件を起こしたらしい。その記事によれば、その悪徳貴族は――。
そのとき、ノックの音が響いた。
「レイ」
仕事が済んだらしく、レイが戻ってきた。
「お取込み中でしたか、シスター?」
「少し新聞を読んでいたの」
歩み寄ってきたラファエルは、エルダの視線の先にある記事に目を落とした。
「……あまり細かい文字を読み過ぎると、疲れが出ます」
軽やかな口調でそう言うと、彼はエルダの新聞をそっと引き取ってしまった。
「一緒にお茶でもしませんか? 今日は天気も良いですから、庭に用意させましょう」
「え? でも私、まだ疲れてなんて……」
「せっかくなので付き合ってください。それと、お茶のあとに書庫に案内しましょうか?」
「書庫? 行っていいの?」
「もちろんです。いろいろな本がありますから、退屈しませんよ。ずっと同じ部屋にいるより、場所を変えると気分転換にも良いですし」
「ありがとう!」
「それでは、まずはお茶にしましょう」
エルダは目を輝かせてうなずいた――。
***
――その夜。
ラファエルは、執務室に執事と侍女を呼んでいた。その手には、エルダから回収した新聞が握られている。
「……ラファエル様。申し訳ありませんでした」
ローゼルが、気まずそうに頭を下げた。
「まさか今日の新聞に、あの事件のことが載っていたなんて……」
ミモザとアニスも、ローゼルを庇おうとした。
「あの。私たちもいけませんでした!」
「考えずに新聞を渡してしまって。内容をチェックしておくべきでした」
執事も、申し訳なさそうにしている。
「いえ、責任はこのフェンネルにあります。書簡の件でラファエル様をお呼びするよう伝えたのは、私ですから」
4人の顔を見つめていたラファエルは、静かに首を振った。
「君たちを責めるつもりはない。事前に指示していなかった私が甘かった」
新聞を執務机に広げ、柳眉をひそめて声を続ける。
「シスター・エルダが記事を読み切る前だったのが、不幸中の幸いだ。オルドー子爵家の事件について、彼女はまだ知るべきではない。……刺激が強すぎる」
ラファエルは息を吐き出した。
「ショックを与えると、いばらの呪いが再発するおそれがある。だから今は、シスターの体を第一に考えなければ。彼女が外の情報を求めたら、みんなも引き続き気をつけてくれ」
「「「「かしこまりました」」」」
執事と侍女が退室し、独りきりになった室内で。
「オルドー子爵家。あのクズどもは、惨めに散るのがお似合いだ」
ラファエルは椅子にもたれて天井を仰いだ。その美貌には、冷ややかな笑みが刻まれている。
「だが――」
悪魔めいたその笑みが、不意に切実そうに歪む。
痛みを堪えるようにして、ラファエルは胸を手で押さえた。
「シスター・エルダは、胸を痛めるかもしれない」
――だから。
今はまだ言わない。
エルダに隠している真実は、いくつもある。
彼女には決して嘘をつかないけれど、時期が来るまで伏せておくべきことはある。
すべてを打ち明けられるのは――きっと、まだまだ先だ。





