第11話:自立しなくちゃ……!
――エルダが目覚めて、1か月半が過ぎていた。
経過は順調。つかまり立ちで歩く練習も始まっている。
だからもう、食事は自分でできるのだが……。
「シスター・エルダ。はい、あ~ん」
「いやいやいや。さすがに今日は結構よ!?」
というラファエルとのやりとりも、すっかり毎朝の日課だ。
今は朝食が済んで、彼が手ずから淹れてくれた紅茶を一緒にいただいているところである。
「今日は茶葉を変えてみたのですが、お口に合いますか?」
「ええ、とてもおいしいわ」
にっこり笑うラファエルに、どきりとするのも日常茶飯事。とっても心臓に悪い。……誓ってやましい気持ちはないのに、優雅な所作にやたらと目を奪われてしまう。
(と、ともかく早く自立しないと……)
これ以上、この人に甘やかされるのはマズい。本能的に、そう感じていた。自分で歩き回れるようになって、きちんと働ける体に戻らなければ……。
(ここの生活、快適すぎるし。長居したら本当に戻れなくなりそう。このままじゃ、ダメ人間まっしぐらだわ……!)
一刻も早く卒業しなければ――とエルダが固く決意していた、そのとき。
「シスター・エルダの考えていること、当てましょうか」
ラファエルが、スッと目を細めた。
「え?」
「……『早く自立しなければ』でしょう?」
エルダを見つめながら、ラファエルはさらにすらすらと続けた。
「こうも考えているはずです。『早く働けるようになりたい』『これ以上この生活だと、ダメ人間になってしまう』……」
「す、すごい。よく分かるわね」
「分かりますよ。――子どもの頃からずっと、あなただけを見てきたので」
どきり。
と、また胸が鳴ってしまった。そういえば、少年時代の彼にも言われたことがある――『ぼくはいつだってシスターだけを見てるんだから』。
言葉を失うエルダを見つめ、ラファエルはふわりと笑みをこぼす。
「リハビリを急ぐ必要なんてありません。ゆっくり、この日々を楽しみましょう。今まであなたは、いろいろなことに耐えてきたのですから。……もう、何も苦しまなくていい」
「……?」
ラファエルの口ぶりに何やら含みがある気がして、エルダは小さく首をかしげた。
(いろいろなこと? 耐えるほど辛いことなんて、シスターになってからは、一度も……)
「それに、10年待ったこの日々は私にとってご褒美です」
「ご、ご褒美……?」
大きくうなずいて、ラファエルは続けた。
「ええ。シスター・エルダが目覚めてくれた。こうして一緒に話ができて、食事ができて、見つめてくれる。それだけで、私には最高のご褒美なんです」
この人の声は、ふしぎな艶を持っている。
まるで弦楽器のようで、お腹の底に響く甘やかな声。つい酔いしれて、頭がぽーっとなるような、そんな美声だ。
「だから。取り上げないでくださいね?」
くい。と、あごを上向きにされた。驚いて目を見開くと、彼の美貌がすぐそこにある。
「レイ……?」
「回復を焦る必要なんて、本当にありません。ただいつまでも健やかで、そばにいてください。私が望むのはそれだけです」
深い紫のきれいな瞳。
エルダは顎を持ち上げられたまま、身動きできずに硬直していた。
(私……どうしたの?)
……心臓の音が、とてもうるさい。
身体が熱くて、頭の中が真っ白だ。
離れなければ、いけない気がした。
けれども彼が、こんなにも近い。指の温もりがじんわり肌に沁みてきて、瞳の色が近づいてくる。
その距離感はまるで――まるで。
(――だめ!)
エルダは咄嗟に、両手でラファエルの肩を押し返して身を離した。それと同時、柱時計の鐘が鳴る。
ぼーん、ぼーん、と繰り返す鐘の音だけが響く中、エルダは荒い息をつきながら彼と距離を取った。
「……ご、ごめんなさい。……私」
(でもこんなの、近すぎるもの。レイは昔の感覚で触れ合っているだけなのに……私、勝手におかしな気分になってくる……)
ラファエルは、虚を突かれたように表情をしていた。
その沈黙は、どれほどの長さだったろう?
「…………そろそろ、次のリハビリの時間ですね」
淡い微笑でそう切り出したラファエルが、心なしか寂しそうに見える。
ソファの脇に置いてあった呼び鈴を手に取ると、彼はそれを静かに振った。
鈴の合図で、侍女3人が入室してくる。
「お待たせいたしました、旦那様」
「シスター・エルダの補助を頼む」
「かしこまりました」
「……レイ。あの……」
ラファエルはエルダを振り返り、「それでは、後ほど」と言い残すと退室していった――。
***
「シスター。お湯加減はどうですか?」
「……とても良いわ。3人とも、ありがとう」
湯船に浸かりながら、エルダは侍女たちにお礼を言った。お湯がじんわり心地よく、体の芯まで温まる。
この入浴も、リハビリの一環だ。
エルダは毎日、車いすでミモザたちに浴室へ連れて行ってもらい、こうして湯船に浸かっている。
……本当に、何という好待遇だろう。
とても快適なのに、エルダは少し気持ちが沈んでいた。
「どうしたんです? シスター・エルダ」
「今日は少し元気がないですね」
「……そんなこと、ないわ」
先ほどのラファエルとのやりとりを思い返すと、胸の奥がチクリと痛む。
(さっきのレイ……悲しそうだった)
優しく接してくれたのに、一方的に拒んでしまった。
勝手に気まずい気分になって、勝手に距離を取ってしまった。……未熟な自分が恥ずかしい。
レイを傷つけてしまって……悲しい。
湯船に口元まで沈め、息を吐き出した。ぶくぶくと白い泡が、言葉にならない気持ちのように小さく弾けて消えていく。
ミモザたちは、互いに顔を見合わせた。
彼女たちもまた、子ども時代からエルダとともに過ごしてきたのだ。エルダを心配する気持ちは一緒だった。
「シスター……?」
3人の顔を見て、エルダはハッとした。
「心配かけてごめんね。私……なんだか自分が情けなくなっちゃって」
「……情けない? どうしてですか?」
「ええ。レイ……いえ、ラファエル様とどう接すればいいのか、全然わからないのよ」
エルダは、ふと浴室に掛けられていた鏡を見た。鏡に映った自分の背中は、健康な素肌そのものだ。
「昔は、背中にたくさんアザがあったの。いばらの呪いのアザよ。それが今は、ひとつもない……ラファエル様のおかげね」
いばらの呪いに罹ると、ツルバラの蔦に似たアザが出る。そのアザは肌を這い回るように背や胸へ広がっていき、やがて昏睡状態に陥ってしまう。
「子どもの頃も今も、あの人はずっと優しいままなのに。……私ったら、自分勝手に逃げ出してしまって」
大人になったレイといると、勝手に心臓がうるさくなる。
あの人は、きっと昔のように仲よくしたいだけなのに。
……こんな自分が、恥ずかしい。
昔は、距離を取りたいなんて絶対に思わなかったのに。
いつも一緒で、自然に笑って、無邪気に抱きしめ合ったりしていたのに。
(そういえば昔、背中のアザを見られたこともあったっけ……)
ミリュレー修道院にいた頃。
ひとりでエルダが湯船に浸かっていたときだ。
懐かしい気持ちが込み上げ、エルダはそっと目を閉じた。
まるで昨日のことのように、思い出が蘇ってくる――。





