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第9話 雨の非常階段

 小夜が案内してくれたのは、実行委員が打合せに使っている小部屋だった。机には模造紙と養生テープが積まれ、窓の向こうでは学生たちが翌日の看板を組み立てている。ついさっきまで歓声の聞こえていた中庭から、夕方の冷たい風が吹き込んだ。


「ここ、しばらく空くって。お湯もあるから、飲んでからにしよう」


 小夜が紙コップに温かい紅茶を注いだ。ユウの前には、売店で買った小さなカスタード菓子を皿に出して供える。いつもなら真っ先に顔を寄せるのに、今日はしばらく包み紙を見つめていた。


「……白石優、か」


 自分の名前を試すように口にして、ユウは皿へ顔を近づけた。甘い匂いを確かめても笑わない。俺は持ち込んだトランクを開け、借りたシルクが折れていないか見てから留め具を閉めた。こんなときでも道具の具合が気になるのは、もう癖だ。


「名前がわかったら、あんたとの仕事も終わりになるのかな」


「明日の出演は決まってるぞ」


「そういう話じゃなくて。私が前にいた場所へ戻れたら、もう助手じゃなくなるかもしれないでしょ」


 俺はトランクの持ち手から指を離した。部室で見つけた写真の優は、楽しそうにカードを持っていた。あの場所に居場所があったのなら、今の四畳半だけを頼りにしてほしいとは言えない。


「まずはお前の用事だ。昔のことを確かめるなら、俺の仕事のついでに付き合ってる場合じゃない。営業の予定は、俺が何とかする」


「……ふうん。そこは引き止めないんだ」


「明日の出番をすっぽかすなら引き止める」


 小夜が紅茶を吹きそうになった。ユウも口を尖らせたが、さっきより俺の方を見るようになった。


「現場へ行くの、やめてもいいんだよ」と小夜が言った。「足が向かないなら、今日は帰ろう。吉野君に聞けることだってあるし」


 ユウは窓の外へ目を向けた。準備中の学生が二人、長い板を運ぶのに苦労している。それを目で追ってから、俺たちへ向き直った。


「行く。あそこで何があったのか、知らないままの方が嫌」


 吉野からは、旧サークル棟の共用廊下と外階段なら準備中に案内できると返事が来ていた。


 夕方の旧サークル棟は、昼より静かだった。吉野が正面入口で待っており、俺たちの来訪を学園祭担当へ伝えたうえで、二階の共用廊下まで案内してくれる。


「僕は倉庫の貸出記録を確認してきます。使った道具が本当に戻ってるか、明日までに見ておきたくて。外階段へ行くなら、雨で滑るので気をつけてください」


 吉野は鍵のかかった倉庫の方へ引き返した。小夜が礼を言い、俺たちは廊下の突き当たりへ向かう。窓の外には細い雨が降り始めていた。


 昼に見た奇術部室の扉が左側にある。今は閉まっていて、貼り紙には翌日の公演時刻が書かれていた。ユウはそこを通り過ぎようとして、足を止めた。


「……違う。ここ、少し開いてた」


「去年の夜のことか?」


「たぶん。隙間から光が出てた。廊下は暗くて、部屋の中だけ明るかったの」


 俺に見えるのは、剥げた扉の塗装と、廊下の天井灯だけだ。ユウは取っ手を見つめたまま、声を落とす。


「赤い布があった。奥の棚の……手品の箱の近く。私、それが必要で」


「取りに来たのか?」


「わからない。必要だったのは覚えてる。でも、なんで今夜じゃなきゃ駄目だったのか……」


 小夜は急かさず、少し離れた廊下の壁に寄った。ユウが扉の隙間を指さす。その指先は木をすり抜け、向こうへ消えた。


「声がした。笑ってた。さっき思い出した、あの嫌な笑い声」


 ユウはそこから途切れ途切れに話し始めた。部室の中央の卓に河野がいて、幹部らしい男が二人、その向かいに別の学生が座っていたという。卓にはトランプと紙幣があり、硬貨も散っていた。棚の赤い布を見つけた優は、声をかける前に、彼らが何をしているのか気づいたらしい。


「お金を賭けてたの。負けた人が『もう帰りたい』って言ってた。河野が『次なら取り返せる。今やめたら損だろ』って」


「ほかの二人は?」と俺が聞く。


「一人は札を揃えてた。もう一人は笑ってた。『もう一勝負だ』って、誰かが言ったの」


 ユウは顔をしかめ、耳を塞ぎかけた。俺が扉を見ると、現在の廊下には学生の足音すらない。どこに何人座っていたか、俺には確かめようがなかった。


「でも、賭けてるってだけじゃなかった。河野の手が……おかしかった」


 彼女は自分の右手を胸の高さへ上げ、袖口を押さえるように手首を内へ曲げた。昼間、河野が吉野へ目を向けたときに見せた動きに似ていた。


「負けてる人が自分の札を見ている間に、河野が右の袖へ指を入れた。札を出して、手に持ってた札と替えたの。ほんの一瞬。あの人、普通にカットしてるときはあんな動きしないのに」


「それを見て、どうした?」


「スマホを出した。言ったって信じてもらえないと思ったから。証拠に残そうとして、扉の横からカメラを向けた」


 ユウの声が急に細くなった。


「画面の赤い丸を押した。ちゃんと撮れたかは覚えてない。音がしたの。ピッ、て。あんなときに鳴るなんて思わなくて」


 開けっぱなしだった隙間の向こうで、河野が顔を上げた。ユウはそう言って、扉の前から後ずさる。俺たちのいる廊下には、夕暮れの薄い光が差しているだけだ。


「目が合った。河野が立った。『おい、何してる』って。私、逃げたの。正面の階段にはあの人が先に出て来そうで、あっちの非常口へ」


 突き当たりには緑色の非常口表示がある。ユウは廊下を滑るように進み、その前で止まった。俺も小夜も後を追う。彼女は押し棒に手を伸ばしてすり抜けたが、俺は案内された共用部分の外階段へ通じる扉を開けた。


 湿った鉄の匂いがした。雨は細くなっていたが、階段の踊り場には水が残っている。手すりの向こうは建物の裏手で、下にはコンクリートの地面が見えた。


「ここ……」


 ユウが一段目の手前で立ち尽くした。うさ耳の先が小刻みに揺れている。俺はその横へ立ったが、声をかけるより早く彼女が話し始めた。


「去年も雨だった。もっと強く降ってて、手すりが冷たそうで。スマホを右手に持って、左で扉を押した。階段を下りれば逃げられると思ったの」


 小夜は扉が閉じないよう支え、俺は足元の濡れた段と手すりの位置を確かめた。ユウが一段目を指さし、そこから踊り場の外側へ視線を動かす。


「一段、下りようとしたとき、後ろから腕をつかまれた。左の腕。河野だった」


「何て言われた?」


「『携帯を返せ』。撮ったものを見せろとも言ってた。返せって、私のなのに……」


 ユウが自分の左腕を握る。右手はスマホを持つ形のままだ。


「私は下へ行こうとして、つかまれた腕を前に引いた。河野は上へ引っ張った。だから振り向いて、左腕をひねって外そうとしたの」


 彼女は一歩横へずれた。俺が立っているのは階段の内側で、その外には雨に濡れた手すりが伸びている。


「そのとき、足が滑った。身体が手すりの方へ向いて……でも河野は離さないで、もう一度ぐっと引いた」


 ユウの右手が跳ね、指が開いた。


「携帯、落とした。鉄の上で音がした気がする。取ろうとして右を向いたら、河野が私の腕を引いたまま前へ出てきて……滑った足で踏ん張れなくて、腰が手すりにぶつかった。その勢いで上半身が手すりを越えて……」


 言い終える前に、ユウは後ずさった。俺がいた場所をすり抜け、手すりの外側へ半身が出る。慌てて腕を伸ばす。


「ユウ!」


 つかむはずだった肩を、俺の手が抜けた。今ここにいる彼女は階段から落ちない。それがわかっているのに、伸ばした手を引っ込められない。


「下が見えた。落ちると思って、手すりをつかもうとしたけど、指が届かなかった。河野の手が離れたのか、私が抜けたのか、そこは……」


 声が途切れた。ユウは下の地面を見つめ、唇だけを動かしている。俺も手すり越しに見下ろした。雨に光るコンクリートがあるだけだ。彼女がそこでどうなったのか、今見てもわからない。


「落ちた。足元がなくなって、背中が冷たくなって……次が、ない」


 小夜が俺の手首に触れた。無意識に手すりへ乗り出していた俺を、半歩後ろへ戻してくれる。彼女はそのままユウの顔の高さへしゃがみ、名前を呼んだ。


「優。今はここにいるよ。私たちもいる」


 ユウの輪郭が不規則に揺れた。白いワンピースの裾も、黒いベストも、雨粒の向こうに溶けるように淡くなる。塩を浴びたときと違い、何かが消えているのか、目の前の姿が震えているだけなのかも判断できない。


「ねえ、小夜。私、あの夜に死んだんだね」


 小夜は答えず、俺を見上げた。俺は濡れた手すりから手を離し、ユウの方へ向き直る。


「そこから先は、まだわからない。落ちたところまでしか、お前は覚えてないんだろ」


「……そう」


「俺に見えるのは、今ここでしゃべってるお前だ」


 ユウはしばらく地面を見下ろしたあと、身体を階段の内側へ戻した。俺の腕はまた何の役にも立たなかった。小夜がまだ手首を押さえているのに気づき、ようやく肩の力を抜く。


 俺たちは階段を下り、建物の裏手へ回った。濡れたコンクリートから踊り場を見上げると、手すりは思ったより高い。それでも、あのとき優がどんなふうに落ちたかは、本人の言葉なしにはわからなかった。


「スマホ、どうなったんだろ。落としたのは覚えてる。でも河野が拾ったかもしれない。私、録画できてたかもわからないし」


「いま映像があるものとしては動けないな」


「私が見たって言っても、誰も信じないかもしれない。あの人、今もみんなに好かれてる顔をしてた」


 俺は昼間の河野の片手カットを思い出した。あれは上手かった。だからこそ、視線が外れた瞬間の妙な右手が忘れられない。


「信じてもらうために、確かめられるものを探そう。吉野のメッセージと貸出記録は明日確認する。大学には家族への取次を頼んである。今夜聞いたことも、忘れないうちに残しておこう」


「それだけで、河野がやったって言える?」


「まだ言えない。お前の話は大事だ。でも、誰かを公に責めるなら、確かめる手段が要る」


 俺はスマホに、ユウの言葉をできるだけそのまま書き込んだ。小夜にも読んでもらい、聞き漏らした言葉を補う。白石家への取次を待つ間に、明日の吉野との約束を確かめておいた。


「ただ、カードの方なら、俺にも調べられる」


「河野のイカサマ?」


「ああ。あの袖の動きが本当に札の交換なのか、見ればわかるようにしたい。明日の対戦で同じことをするとは限らないけどな」


 ユウは濡れた踊り場を見た。目線を上げるまで、俺も小夜も待った。


「私もやる。あいつが袖に何を隠してるのか、私なら後ろから見られる」


「無理はさせないぞ」


「私がやりたいの。あのとき、逃げるしかなかったから」


 俺は頷いた。目の前で誰かが札をすり替えるなら、客に見せる方法はいくらでもある。


「なら、タネだけは暴く」


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