第10話 ぽこぽん丸は嘘をつかない
日曜の朝、銀次に餌をやっていると、ユウが窓際で自分の裾をつまんでいた。昨夜の非常階段で乱れた輪郭は、いつもの白いワンピースに戻っている。黒いベストとうさ耳の写しは外してあったが、俺が供えたものと違って、元の服だけは脱げないらしい。
「昨日の話、少し整理していいか」
「いいけど、朝ごはんのあとじゃ駄目?」
「プリンを朝飯に数えるなら、もう食べたぞ」
「匂いを楽しんだだけですけど」
俺は机にメモを広げた。優が思い出した雨の夜、黒髪の長さも白いワンピースも、今の姿と同じだった。最初に二〇一号室で会ったときから、元の服は替えられない。なら、あの日うっかり目にした下着も、事故の夜のものだった可能性がある。
「そういえば、ぽこぽん丸の――」
「朝からその話する必要ある?」
「いや、待て。お前、あの柄を好きで穿いてるって言いかけたよな。あんな格好で男に会いに行くとは……」
「いたら、あんたに何の関係があるのよ!」
反撃が早すぎて、俺は両手を上げた。ちょうど訪ねてきた小夜にも話すと、彼女は靴を脱ぎながら呆れた顔をした。
「好きな下着で誰に会おうと本人の自由でしょ。それ、推理じゃなくて七瀬さんの感想」
「撤回する。悪かった。俺が聞きたかったのは、どうしてあの柄を選んだかってことだ」
ユウはまだ睨んでいたが、やがて畳に腰を下ろす格好になった。黄色い丸顔の総柄を、指で空中に一つ描く。
「……本番の前の晩だけ、家で穿いてた。失敗しませんようにって」
ユウは描きかけた丸顔へ目を落とした。
「あの間抜けな顔を見ると、気が楽になるの。お守りみたいなものだった」
俺は手帳を引き寄せた。去年の学園祭。その前夜。部室の棚にあった赤いシルク。
「翌朝の舞台に要る布を、取りに戻ったんじゃないか?」
ユウが顔を上げた。
「……荷物を詰めてたら、あれだけなかった」
空中に丸を描いていた指が止まる。
「逃げる支度じゃない。舞台に立つ支度だ」
「うん。カードと、化粧道具と、予備の靴。お風呂から上がって髪を乾かしたあと、明日の荷物を詰めてたの。赤いシルクは、前の練習で部室の棚に置いたままだった。朝早く集合するから、今のうちに取りに行こうって」
ユウは目を閉じ、もう一度その順番をたどった。
「すぐ戻るつもりで、そこに掛けてあった白いワンピースを着た」
ユウは膝の上で両手を重ね、ふいに噴き出した。
「最悪。お守りパンツのまま忘れ物を取りに行って、あんなことになったんだ」
「縁起物としては、もう少し頑張ってほしかったな」
「ぽこぽん丸に責任を押しつけないでよ」
小夜が笑いをこらえながら時計を見た。吉野と約束した時間が近い。俺は手帳に、優が思い出した順番を書き留めた。本人が覚えていることと、人に示せる記録は、まだ別だ。
大学の準備室では、吉野がカーテンを半分閉めて待っていた。廊下は学園祭の呼び込みで賑やかだが、ここは関係者の打合せ用で、河野の姿はない。
「昨日はすみません。代表がいるところでは、見せにくくて」
「こちらこそ。約束どおり来てくれて助かった」
吉野は自分のスマホを開き、一年前の奇術部の連絡グループを見せた。名前と日付のある画面を、小夜が横から確かめる。優から送られた最後の文には、こうあった。
『明日八時半集合ね。赤いシルクを部室に忘れたから、今から取ってくる。先に来なくて大丈夫!』
「……これ、私だ」
ユウは画面へ顔を近づけた。送信時刻は学園祭前夜の遅い時間。小夜が読み上げると、彼女は「八時半だった」と小さく繰り返す。
「返事をしたんです。でも、そのあと先輩から連絡がなくて。僕は、翌朝になってからおかしいと思ったんです」
吉野は貸出・返却の綴りも机に載せた。持ち逃げしたと噂された高価なミラーボックスの欄に、借りた人として河野の署名があり、翌週には同じ名前で返却の記入があった。今朝、吉野は保管庫で現物を確かめたという。管理番号も、帳面と一致していた。
「先輩が持って逃げたって、ずっと言われてました。でも、これ、代表が借りて返してるんです」
「その道具については、白石さんが持ち去った説明と合わないな」
「舞台で使わせてもらえるか。見せるのは、この記録とメッセージの必要なところだけにする」
吉野は頷き、記録の写しを作った。小夜が実行委員へ掛け合い、原本の確認と前口上への使用許可をまとめて取りつけてくれた。
「僕も出ます。記録は僕が説明します。カードも僕が配りたいです」
「代表と勝負することになるぞ」
「知ってます。昨日まで、黙ってれば面倒は起きないと思ってました。でも僕、先輩からカードを教わったんです」
吉野はデックを取り、消えるはずの一枚を右手へ収めた。今度は親指の脇から角が見えなかった。
準備室の空いた机へ戻ると、俺は持ってきた小さな紙を広げた。まだ完成品ではない。黄色い丸顔と、その下に下着の輪郭を描いた、ひどく間の抜けたラフだ。
「これも前口上に使えないかと思ってる。記録だけでも噂の一部は訂正できる。でも、お前がどんなふうに舞台の準備をしていたか、客に伝える方法がもう一つあってもいい。もちろん、嫌ならやめる」
「……どうして、よりによってパンツなの?」
「俺に聞くな。こんなお守りを選んだ本人に聞いてくれ」
「そこは自分の発案でしょうが!」
ユウが紙を覗き込み、眉を寄せた。
「まず顔が違う。ぽこぽん丸はもっと眉が垂れてる。口もそんなに大きくない」
「怒るところ、そこか?」
「そこは重要よ。別のキャラにされたら困る」
俺が紙の横に置いたペンをユウが浮かせ、ゆっくり丸い顔を描いた。線は少し震えたが、眉と間抜けな笑い口が加わると、あの日うっかり見てしまった柄と同じ顔になった。俺は余計なことを言わないよう、両手で口を押さえた。
「いい? これは私の絵だからね。実物も写真も絶対に出さないで」
「出さない。下着の形も模式図だけ。名前と、舞台前夜のお守りだった話を添える」
小夜が口を挟んだ。
「断ってもいいんだからね。メッセージと貸出記録だけで、噂の訂正はできるよ」
「わかってる。……でも、あいつらの好きな話にされるくらいなら、私が選んだ馬鹿みたいな柄を見せたい」
ユウは紙を指さした。
「私のパンツを使うなら、私が決める。大きさも、出す時間も」
大きさを尋ねると、ユウは「……普通のポスターくらい」と答えた。
小夜が掲示用の厚紙を持ってきた。横九十センチ、縦六十センチ。俺は実寸の枠を取り、その中にユウの描いた丸顔を何個も写し、下着の簡単な輪郭を入れる。大きさを見たユウが額に手を当てた。
「待って。ぽこぽん丸、一匹が私の顔くらいある」
「客席から見える大きさにすると、こうなる」
「見えるのが問題なのよ……」
小夜が紙を畳んだ状態から広げ、二人で客席のつもりの位置へ立った。ユウはしばらく無言で眺め、俺へ向き直る。
「五秒。開いてるのは五秒だけ。絵も大きさも、今のでいい。そのあとは必ず閉じて」
「直前に嫌になったら出さない」
「……出す。私が決めたんだから」
俺は厚紙の裏に小さく「五秒」と書いた。
そのあと、小夜に上着の袖を借りて短い稽古をした。彼女がカードを袖の内側へ隠す仕草をし、俺が手元と目線の動きを追う。ユウは小夜の背後へ回ってから、袖の端を引く位置を確かめた。人の腕は動かせないが、布なら軽く引ける。
「弦、今の位置だと見えない。もう少し外側へ行く」
「無理に動かさなくていい。何もなければ、ただの対戦で終わる」
吉野が五枚ずつ配る練習を始めた。相手の札を覗けても、俺の引きが悪ければ負ける。勝てそうにない役なら降りる。五番勝負で降りれば一敗だ。それはユウにも説明してある。
「後ろから見た札は、俺のところまで戻って小声で言え。読み間違えたら、そのまま教えてくれ」
「わかってる。心の中で念じたりしないから」
小夜は机の脇に置いた手元撮影用の小型カメラを動かし、袖口まで追える角度を確かめた。実行委員の許可を得て、対戦の様子を記録する。もし袖から札を出した場面があれば、俺の目だけでなく映像でも確認できるようにしておきたい。
俺は実行委員を通して河野へ追加の連絡を送った。白石優の噂について確認できた資料を冒頭で紹介すること、対戦を見に来る客も増えそうなことを伝える。ほどなく『承知しました。対戦は予定どおり。僕も舞台に立ちます』と返事が来た。
白石家への取次には、まだ返事がなかった。俺はスマホを上着にしまい、出番へ向けて袖をまくり直した。
舞台袖へ移る前、小夜が俺の蝶ネクタイを直した。ユウがすぐ横から覗き込む。
「曲がってないってば。さっきから二人とも触りすぎ」
「お前、蝶ネクタイを見てたのか。それとも手か?」
「手品師ならどっちも見なさいよ!」
小夜が笑ってトランクを閉める。吉野はデックを胸に抱え、客席へ通じる通路を確認した。ユウが俺の隣へ並び、さっきの大きなパネルをもう一度見たそうな顔をしたが、何も言わなかった。
幕の向こうで司会者の声が上がり、拍手が返ってきた。
「準備は?」
小夜がカメラを掲げた。ユウは河野が待っているはずの客席へ顔を向ける。
「今度は、逃げない」
その声を聞いてから、俺は二人へ合図を出した。幕が上がり始めた。




