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第8話 聖鳳大学奇術部

 実行委員との打合せを終えると、小夜がスマホの画面を俺に見せた。明日の出番は午後、屋外ステージ。昨夜まで用意していた構成から人体浮遊を外し、カードとシルクを中心にすることになった。風と照明の条件が読めない場所で、重い装置を無理に使うつもりはない。


「それで、奇術部の人が道具を貸してくれるって。挨拶に行こう」


「その部室、近いの?」


 ユウの声がいつもより小さい。小夜は旧サークル棟を指さし、先に歩いた。学園祭の準備で通路には看板と段ボールが積まれ、台車を避けるたびに俺のトランクが足元へぶつかる。ユウは壁を抜ければ早いのに、今日は俺たちと同じ廊下を歩いていた。


 奇術部室で出迎えたのは、吉野と名乗る二年生の男子だった。入口には舞台用の花束、机にはカードの束。見せてもらった演目表には、空中からシルクを取り出す手品が並んでいる。


「七瀬さんですよね。実行委員の人から、紹介の動画を見せてもらいました。あの、ちょっとだけ聞いてもいいですか」


 吉野は自分のデックを取り上げた。右手でカードを消したつもりが、左斜めから見ると親指の脇に角がのぞく。俺が指摘すると、彼は慌てて握り方を変えた。


「握る方を直すより、立つ場所を半歩ずらそう。ほら、こっちから見たら?」


「……あ、消えた」


「客の目は正面に固定されてないからな。カードを隠す前に、客をどこへ集めるか決めるんだ」


 吉野はもう一度やり直し、今度は自分から小夜に横へ動いてもらって角度を確かめた。俺の言葉をメモしてから、「古いシルクも探してきます」と棚へ向かう。


「学園祭の前って毎年こんな感じで。去年の備品も使うから、どこにあるか調べないと」


 吉野は隣の倉庫へ案内し、棚から厚い綴りを引き出した。表紙には「備品貸出・返却」とあり、ページごとに道具の名称と日付、借りた人と返した人の欄が並ぶ。俺が開こうとすると、彼は「汚れたら困るので、あとで自分が確認します」と笑い、机の端へ置いた。


 棚の奥の箱を小夜と二人で出すことになった。通路が狭く、俺が身を引いたところへ小夜が振り向き、肩が触れた。


「あ、ごめん」


「いや、こっちこそ。先に箱を渡せばよかったな」


 小夜は何事もなかったように箱を受け取り、俺だけが置き場所に迷って一瞬立ち尽くした。ユウの姿を探すと、彼女は棚の先に浮いたまま、コルクボードを見つめている。


「弦。これ……」


 人の出入りが多かったのか、古い公演案内は隅に追いやられていた。そこに貼られた一枚のポスター。去年の学園祭に向けて作られた公演ポスターらしい。舞台衣装の学生が数人、トランプを扇に広げて笑っている。


 そのうち一人の顔から、目が離せなくなった。


 肩より少し長い黒髪。口を大きく開けた笑い方。写真は俺の隣で浮いている女より輪郭がはっきりしているのに、眉の上がり方も、笑うと細くなる目も同じだった。


 名前を探す。写真の下には出演者の名前と担当が小さく印刷されている。


『演目担当・白石優(しらいし・ゆう/二年)』


「……私だ」


 ユウが言った。俺は彼女を見た。いつもなら一言余計に足してくる口が、開いたまま動かない。ポスターに向き直ったユウが、印刷された三文字へそっと手を伸ばす。指先は紙を抜け、壁の中へ消えた。


「白石、優」


 声に出してから、もう一度、今度はゆっくり言った。


「白石優。……ユウって、私の名前でもあったんだ」


「俺は幽霊のユウでつけたんだけどな」


「知ってる。ひどい命名だったと思ってた」


 彼女は笑った。俺も笑いかけて、先に目頭をこすった。そんなことをしたら余計にからかわれそうなのに、ユウは何も言わず、ポスターの自分と俺を交互に見ている。


「名字までわかった。白石優だって」


「うん。忘れたくない」


 俺は胸ポケットのメモ帳を取り出し、名前とポスターの日付を書いた。ユウが横から覗き、「優しいの優」と字を確かめる。小夜も写真へ近づき、そっと頷いた。


 箱を持ってきた吉野へ、ポスターの学生を指さす。


「この人、白石優さんというんですね。どんな人でした?」


「白石先輩ですか。僕が一年のとき、カードを教えてもらいました。袖から一枚出すのが下手で、何度も付き合ってくれて」


 ユウが自分の手を見た。俺はカードを扇に開いた夜のことを思い出したが、吉野にはまだ何も言わなかった。


「今は部に来てないんですか」


「去年の学園祭の前の晩から、見てないです。連絡もつかなくて。僕ら、最初は何かあったのかと思ったんですけど」


 吉野は口をつぐみ、机の方へ視線を移した。


「代表たちは、男の人と夜逃げしたって。あと、高い道具を持ち出して、そのままいなくなったんだろうって言ってました。でも僕、白石先輩が持っていくところを見たわけじゃないです」


 ユウの笑みが消えた。コルクボードの写真は明るく笑ったままだ。


「誰がそんなこと言ったの。私、そんな……」


 吉野に声は届かない。俺は机の角に手を置き、次の質問を選んだ。


「ご家族から何か聞いていますか」


「いえ、家の人とは話せていません。先輩と連絡が取れないだけで……」


 吉野は俺の顔を見てから、小さく声を落とした。


「最後に先輩から来たメッセージなら、まだ残してるんです。あれ、どう考えても――」


 廊下から近づく靴音に、吉野の口が閉じた。背筋まで伸びる。その変化を見たとき、入口に男が現れた。


「吉野、お客さんを待たせてないだろうな」


 背の高い、よく通る声の男だった。吉野がすぐに「河野代表」と呼ぶ。河野は俺に笑顔を向け、差し出した名刺を丁寧に受け取った。


「明日の客演、ありがとうございます。部としても刺激になりますよ。うちの後輩、腕はまだまだですが熱心で」


「吉野さん、いいカードを使ってますね。練習もしてるのがわかります」


 吉野の顔が少し上がったが、河野が机の綴りに目をやると、また黙ってそれを棚に戻した。


 俺はポスターを示した。


「一つ聞いてもいいですか。こちらに写っている白石優さんについて」


 河野が持っていたデックの端で、指の動きが止まった。一呼吸置いてから、彼はカードを揃え直す。


「白石ですか。いろいろあった学生でね」


「最後に来たのが一年前だと聞きました。今の居場所を、ご存じですか」


「本人の事情ですから、僕の口からは。家のことは僕が連絡を取っていますので」


「それなら、ご家族に連絡を取り次いでいただけませんか。確かめたいことがあるんです」


「部外の方に、そのままおつなぎはできませんよ。事情を聞いてからですね」


 愛想は崩さなかったが、こちらに質問を返す間を与えない。俺が理由を話そうとすると、河野はデックを片手でカットした。上の束がきれいに一回転して元へ戻る。技術のある手だ。褒めると、河野は「これくらいは」と笑ってもう一度見せた。


 次に吉野が舞台の資料を取ろうとして席を立つと、河野はそちらへ目を向けた。その瞬間だけ右手首を内側へ返し、袖口が開かないように肘を寄せる。袖に何があるとは見えないし、何かを隠した証拠でもない。ただ、客の目を追う手と、目が外れたときの手が違った。


 ユウが俺の横まで寄ってきた。


「……この人の声、嫌だ。手が動くのも」


「知ってる顔か?」と、小声で尋ねる。


「わからない。顔は思い出せない。でも、見てると落ち着かない」


 河野は俺の口元が動いたのを見て「何か?」と尋ねた。俺は舞台の確認だと答え、実行委員から提案されていたカード対戦の企画を切り出した。客演マジシャンと奇術部代表が短い勝負をする、学園祭らしい趣向だ。


「ぜひ。カードならうちの得意分野です」と河野はすぐに頷いた。「明日、盛り上げましょう」


 吉野も横で頷いたが、視線は河野の手元へ落ちた。


 部室を出ると、廊下の窓から午後の光が差していた。準備中の学生たちが看板を運び、どこかで金槌の音が鳴っている。ユウはポスターのあった壁の方を何度も振り返った。


「白石優。名前はわかった。でも、あの人たちは私が逃げたと思ってるんだ」


 小夜が立ち止まった。


「夜逃げも持ち逃げも、吉野君が見たわけじゃない。代表たちが言ってるだけでしょ」


 俺はメモ帳に書いた白石優の名前を見た。河野を通さず、話を聞ける相手を探す必要がある。


 実行委員との連絡窓口へ戻り、白石家への取次を頼んだ。学生課を通すことになり、名刺と伝言を預けた。


 吉野とは部室を出る際に連絡先を交換していた。俺はすぐ、最後のメッセージの原文と送信日時、それに優の古い連絡先を確認したいと送った。「今は代表もそばにいます。明日の朝、直接見せます」と返信が来る。河野の前では続きを聞けなかったが、返事を待つ間にも確かめられることはある。


「ねえ、弦」


 ユウが手を差し出した。俺も反射的に手を上げ、触れられないことを思い出して止めた。彼女はその手をじっと見ている。


「名前がわかったら、少しは元に戻ると思った。けど、触れないままだね」


「……どこから調べようか。お前が決めていい」


 ユウはしばらく黙り、校舎の方へ顔を向けた。


「暗い部屋と、赤い布。あれをもう一度確かめたい。ここに来たら、思い出せる気がする」


「わかった。入れる場所と時間を確認しよう。勝手に歩き回らずにな」


 小夜が大学の案内図を広げた。俺はその端を押さえながら、河野の袖口を思い出す。あの腕の返し方は、客を楽しませるためだけの動きには見えなかった。


 イカサマ師の手だ。……今は、まだ疑いだが。


 少なくとも、白石優の名前が出たときだけ止まった指を、俺は見逃さなかった。


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