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第7話 フロテ

 箱の底に収まった折り畳みの脚を、ユウが見ていた。


「これ、開く?」


「いや、待て。なんでそれがフロテだとわかった?」


「……あんたが取ってって言ったから」


「名前は教えてないだろ」


 俺は錆を確かめていた指を止めた。箱には布も金具も、似たような道具がいくつも入っている。どれにも名前は書かれていない。それなのに、ユウは迷わず脚のある方へ向いた。


 フローティングテーブルの略で、テーブルが宙を舞うように見せる道具だと説明すると、ユウは口を開きかけて閉じた。箱を覗き直す。俺が脚を持ち上げて広げると、彼女は邪魔になりそうな専用クロスの端だけを浮かせ、金具から遠ざけてくれた。


「これなら手伝えると思ったの。名前を聞いたら、こっちだって……でも、なんでわかったんだろ」


 説明していない道具を選んだからといって、職業までわかるわけじゃない。どこかで演目を見たことがあるのかもしれないし、誰かの準備を手伝った経験があるのかもしれない。


 最初の夜のカードを思い出した。あのときユウは、左右の手を無駄なく動かし、五十二枚を扇形に開いていた。念動でたまたま揃えたのだと思っていたが、親指で札を広げるサム・ファンに似た手の運びでもあった。


「お前、前に手品をやってたんじゃないか?」


 ユウが驚いて俺を見たので、道具を扱ったことがあるだけかもしれないと付け加えた。少なくとも、フロテという言葉は耳慣れているのだろう。


 ユウは自分の両手を眺め、試すように指を開いた。何も浮かばないまま、今度は首を傾げる。


「覚えてない。でも……知らないって感じもしない」


 俺が天板を立ててみせると、ユウは専用クロスが脚に挟まらない位置へそっと逃がした。手つきは器用だが、それが今日初めて考えた動きなのか、以前の習慣なのか、本人にもわからないらしい。俺はクロスの端を押さえ、折り目を直してから箱へ戻した。


 日曜の夕方、買い物袋を持ってきた小夜にも話してみた。差し入れは小さなシュークリーム三つ。小夜がユウの分を皿に置いて「これ、ユウの分」と勧めると、彼女は嬉しそうに顔を近づけ、甘い香りを楽しみ始めた。


「マジシャンだった可能性はある。舞台の手伝いとか、好きで道具を集めてたとかもな」


「大学の奇術部っていうのもあるよね」と小夜が言った。


 その言葉に、ユウが顔を上げた。


「……大学」


 いつものようにすぐ続きをしゃべらない。目を閉じ、首元の蝶ネクタイに手を寄せる。俺と小夜は皿を置き、しばらく待った。


「暗い部屋がある。赤い布……それから、誰か笑ってる」


「誰だ?」


「わからない。楽しそうな笑いじゃないの。聞きたくないって思ったことだけ、覚えてる」


 ユウは目を開けると、畳の上の赤いクロスを見た。俺の仕事道具だが、彼女が言う赤い布と同じものかどうかは判断できない。俺が手を伸ばして片づけようとすると、ユウは首を振った。


「置いといて。もう少し見たい」


 小夜はスマホを取り出した。


「うちの大学にも奇術部があるよ。去年までの公演案内なら公開されてるかも。出演者の名前が載ってるとは限らないけど、何か見覚えのある演目があるかもしれない」


「大学に行ったら、私のことわかるかな」


「それはわからない。でも調べることはできる」と小夜が返す。


 ユウはシュークリームの匂いをもう一度楽しむと、窓の外を見た。


「もしわかったら、ここにはもういられないのかな」


 俺は卓の端に置いていたコインをしまった。答えを知らないまま慰めても、しょうがない。


「今、出ていくかどうかまで決めなくていい。まず火曜の仕事だ。調べるのも、お前が行きたいところからにしよう」


「……じゃあ、大学。見に行ってみたい」


 小夜が公演案内のページを開くと、ユウは横から画面を覗き込み、知らない道具の写真にも一枚ずつ目を留めた。誰の顔も写っていない写真をしばらく眺めた末、「こっちの箱、格好いいね」と言う。俺はその箱の値段を知っていたので、返事をせずにスマホを伏せた。


 月曜の夜には、二〇一号室で小道具の合図をもう一度さらった。ユウはちゃんと俺の指を待ち、小夜も舞台での立ち位置を床に置いた紙で確認する。赤い布については、ユウから新しい記憶は出てこなかった。


 火曜の夜、ホテルの宴会場は居酒屋とは比べものにならないほど明るかった。丸卓を囲む客は七十人ほど。胸元に社章をつけた人たちが料理を終え、こちらへ椅子を向けている。


 銀次には部屋で餌と水を用意してきた。今日は鳩の出番を入れていない。大道具は集会室の倉庫から手配した便で搬入し、俺が舞台裏で脚の固定と金具の締まりを確認した。小夜は白いシャツと黒い上着に着替え、動くたびに裾が引っかからないか試している。ユウだけは、客席には見えないうさ耳をいつになくまっすぐ立てていた。


「緊張してる?」と小夜が聞く。


「してない。そっちは?」


「少し。でも、立つ場所は覚えたよ」


 ユウは小夜の足元に引いた目印を見下ろし、それから俺へ親指を立てた。幕の向こうでは司会者が俺の名前を呼んでいる。


「皆さん、本日は創業記念、おめでとうございます!」


 拍手を受けて舞台へ出る。最初に客が見たのは、俺と小夜の二人だけだ。客席を一巡させたデックからカードを一枚選んでもらい、表を確認してから束へ戻してもらった。俺はカードを揃えながら、選ばれた一枚を一番上へ運ぶ。


「選んだ札が、私の手を離れても戻ってくるとしたら?」


 指を鳴らす。デックの上の一枚がゆっくりと浮き上がり、照明を受けて赤い裏面を見せた。客席から声が漏れる。ところがカードが途中でわずかに傾き、先端が別の札に触れかけた。


 俺は慌てて札を追わず、空の右手から銀色のコインを取り出してみせた。


「失礼。こちらの方が先に出たがっているようで」


 前列から笑いが起き、視線がコインへ集まる。その間にユウはカードを水平へ戻した。俺はコインを握り消し、もう片方の手で、浮いた札をそっと受け取る。選ばれた一枚を表へ返すと、客席の後ろからも拍手が上がった。


 小夜の出番では、まず俺が彼女を紹介した。


「次は助手にお願いしましょう。ここから先は、私も少々緊張します」


 小夜は客席へ一礼し、俺の差し出した手を握った。装置へ進む歩幅は稽古どおり。横たわった彼女の姿勢と支えの状態を確かめてから、俺はゆっくり手を離した。小夜の身体が床と平行に持ち上がり、客席のあちこちから携帯電話が向けられる。


 ユウが俺の肩のあたりで頬を膨らませた。客の拍手も視線も、小夜へ集まっている。けれどユウはすぐに腕を組み直し、居酒屋で拍手を聞いたときのように客の顔を見回した。


「次、私の番」


 俺だけに届く声だった。小夜が客席へ目を向け、俺が覆い布の縁を持ち上げる。舞台の端から差す照明が、布の影を装置の足元へ長く伸ばしていた。俺は客席へ半歩出て、空いている方の手を掲げた。


「ここからは、目を離さないでください。といっても、目を離した方が不思議に見えるかもしれませんが」


 何人かが笑い、顔を上げる。小夜の姿勢は崩れない。俺の手が合図の高さへ届いた瞬間、ユウが軽い覆い布の端を引いた。


 布は練習よりも大きく弧を描き、白い帯になって舞台の横へ流れた。小夜は宙に横たわったままだ。その背中と床の間を、客席から向こう側まで見通せる。俺が腕を開くと、一拍遅れて客席の後ろまで歓声が広がった。


 前列の女性が両手を口元に当て、隣の男が立ち上がって拍手を始める。小夜は稽古どおり姿勢を崩さず、俺が目配せすると客席へ少しだけ微笑んだ。舞台脇で見守っていた担当者まで胸の前で手を叩いている。


 小夜が装置から降りて俺の横に並ぶと、二人で頭を下げた。ユウもその間へ割り込み、見えないうさ耳を揺らして一礼する。俺は客席に顔を向けたまま、左手の指をほんの少しだけ彼女へ向けた。


 終演後、依頼主が「想像以上だった」と握手を求めてきた。記念写真には小夜と俺、それに舞台を片づけるスタッフが写る。ユウは自分の姿のない画面を覗いて「耳、まっすぐだったのに」とぼやいた。


 控室で俺は帳面を開き、受け取る出演料から経費を引いて、助手料を二人分同じ額で計上した。小夜には約束どおり現金で渡し、ユウの分は供え物と今後の活動費として別に取り置く。計算を見たユウが腕を組んだ。


「プリンに全部使ったら怒るからね」


「お前が言うのか」


「ほかにも衣装が欲しくなるかもしれないでしょ」


 そこへ先ほどの依頼主が戻ってきた。聖鳳大学の卒業生だという。


「今度の週末、母校の学園祭があるんです。実行委員会が外部ゲストの演目を探していて。今日のショーなら推薦したいんですが、どうでしょう」


 小夜が驚いて顔を上げた。


「私、聖鳳の二年です。実行委員にも知り合いがいます。確認してみますね」


 依頼主は紹介ならできるが、出演は委員会の判断になると念を押した。俺は名刺を交換し、小夜と連絡先を確かめる。ユウは俺の背後で、いつもより静かに話を聞いていた。


 水曜には小夜から、公演の打合せを土曜に行えると連絡が来た。大学の公開情報を調べても、過去の奇術部の案内には演目名ばかりで出演者の詳しい名前は載っていない。木曜と金曜はいつもの小さな営業をこなし、帰宅してから三人で打合せ用の構成を直した。銀次の餌も、出演料の一部で買い足せた。


 土曜の朝、大学へ向かう前に衣装を替えていると、壁からユウの額が現れた。


「弦、そろそろ――あっ」


「おい。ノックは?」


 ユウは慌てて壁の向こうへ引っ込んだ。俺はシャツの袖に腕を通しながら、以前引き戸に貼った約束の紙を見た。


「今、指の隙間から見てただろ」


「見てない! 見えたのはシャツだけ!」


「それは見たってことだろ」


「だからすぐ戻ったじゃない!」


 壁の向こうでコインが二度、軽く戸を叩く音がした。俺は返事をしてから上着のボタンを留めた。


 聖鳳大学の正門に着いたのは昼前だった。小夜は普段着に戻り、俺は小道具の入ったトランクを引いている。銀次は水と餌を用意して二〇一号室に残してきた。今日は打合せだけだ。


「聞かれたら、七瀬さんもOBってことにしとけば?」と小夜が言った。


「卒業した学部まで聞かれたら困るな。いっそ幻の学部を――」


「冗談だから。普通に外部ゲストって言ってよ」


 守衛室の受付で、俺は事前に届いた案内を見せ、名前を告げた。担当者は来訪予定を確認し、打合せ場所への道を教えてくれる。小夜が先を歩き始めたが、ユウだけが門の内側で立ち止まっていた。


 古い校舎の窓を、一階から順に見上げている。いつもならうさ耳を揺らして何か言いそうなのに、今日は黙ったままだ。


「ユウ?」


 呼びかけると、彼女は俺を見ずに小さく頷いた。小夜が戻ってきてトランクの持ち手を軽く叩く。


「まずは打合せ。こっちだよ」


 俺はトランクを引き直した。ユウは校舎から目を離し、俺たちの隣へ並んだ。


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