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第6話 衣装合わせ

 土曜の午前、電話を切った俺は、メモに書いた出演料をもう一度確かめた。昨夜、居酒屋で名刺をくれた会社から、創業記念パーティの正式な依頼が来たのだ。会場はホテルの宴会場。火曜の夜、七十人ほどの客を相手に二十分。俺がいつも回っている居酒屋の卓とは、ずいぶん勝手が違う。


「いくら? ねえ、昨日の何倍?」


「出演料の話はあとだ。まず何を見せるか決める」


 ユウが俺の肩越しにメモを覗いた。昨夜の清め塩の影響は薄れ、ワンピースも青いシルクの写しも元の輪郭を取り戻している。小夜に借りたカーディガンの写しは、朝になって外していた。朝一番で「ちゃんと見える?」と聞かれたときは、顔より先に袖口を確かめて怒られた。


「カードを大きく浮かせて、コップも飛ばして。最後は人体浮遊だ」


「誰を浮かせるの?」


「そこが問題なんだ。仕掛けはあるけど、客に見える助手がいない。古い道具は使えるはずだが――」


 戸を二回叩く音がして、小夜が入ってきた。昨日、店の脇で連絡先を交換し、言いかけた条件の続きを聞くために来てもらった。ユウは彼女の腕を見て、あの灰色のカーディガンが今日は実物として着られていることに気づいたらしい。


「助手を探してるの?」と小夜が聞いた。


「聞こえてたのか」


「だったら、私がやる。立つ場所も覚えるし、稽古にも来る」


 俺は小夜を見た。人体浮遊には、所定の姿勢を保ち、客の視線を引き受ける助手が欠かせない。彼女が引き受けてくれるなら、あの大道具にも出番がある。


「小夜が?」


「その代わり、助手料はきちんと払って。練習する時間も取ってもらう。あと、ユウが嫌がることを勝手に演目へ入れないこと」


「私のことは私に聞けばいいじゃない」


「だから本人の前で言ってる」


 ユウは言い返しかけ、なぜか口を尖らせただけで黙った。小夜はもう一つ、と指を立てた。


「稽古の日は甘いものを差し入れること。人数分ね」


「報酬の条件が一つ増えたぞ」


「そこは昨日から決めてた」


 俺は帳面に助手料を二人分書き込み、昔の相方の番号を押した。カイトは恋人と暮らし始めてから、共同で揃えた大道具を近所の保管場所へ移している。


『人体浮遊の台? まだあるよ。そっちの持ち分なんだから返す。日曜朝に集会室へ届くよう手配するから、場所を送って。小道具の箱だけは別便で午後になるぞ』

「助かる。費用は俺が持つ」

『その代わり、今度こそ仕事の写真を送れよ』


 電話を切ると、小夜が使える練習場所を訊いた。昨夜、後片づけを手伝ったとき店主に教わった集会室なら、日曜に借りられる。俺は空き時間を押さえ、銀次の移動用ケージを点検した。鳩の餌だけは、助手料より先に買っておかないと機嫌を損ねる。


 午後は三人で衣装を探しに出た。小夜は何着か試した末、動きやすい黒いパンツに白いシャツ、短い上着を選んだ。鏡の前で腕を上げ、膝を曲げてから「これなら平気」と自分で決める。俺が手にした派手なスパンコールの服は、値札を見る前に戻された。


「そっちの方が舞台では目立つぞ」


「動けなかったら意味ないでしょ。客を見て立てる方がいい」


 試着室の外にある姿見には、小夜と俺だけが映っていた。二人の間でユウが腕を組んでいる。


「ねえ。私だけ普段着なの、変じゃない?」


「客には見えないだろ」


「客に見えなくたって、仕事なんだから着たいの。あんたも見るでしょ」


 小夜が笑いをこらえながら、小物売り場のうさ耳を指さした。俺は黒いベストと蝶ネクタイ、丸いしっぽのついた飾りも揃える。帰宅して畳の上に並べ、ユウに使っていいと伝えると、実物を残したまま、それぞれの写しが彼女の手元へ浮いた。


 白いワンピースの上に黒いベストが重なり、襟元には蝶ネクタイ。耳だけは少し斜めに傾いた。青いシルクの写しは首元から外して蝶ネクタイに替える。


「どうよ」


「なんちゃってバニーだな」


「なんちゃっては余計!」


 ベストの片側がずれていたので、俺はつい手を伸ばした。指は黒い布もユウの肩も通り抜ける。


「もうちょい右だ」


「どっちから見て右?」


「あなたの右。そう、そのくらい」と小夜が横から教える。


 ユウが胸を張った途端、背中のしっぽが気になったらしく、身体をひねった。


「ねえ、これ真ん中についてる?」


「ついてるから動くな」


「自分で見えないんだもん!」


 くるりと向き直ろうとして、また上下を見失った。白い裾がふわりとめくれ、黄色い丸顔が一瞬だけ視界を横切る。俺は即座に背を向けた。


「真ん中だ! 間違いない!」


「何を見て確認したのよ!」


「しっぽだよ、しっぽ!」


 小夜が笑い声を漏らしたので、ユウはますますむくれた。結局しっぽの位置は小夜が確かめ、うさ耳の角度も声をかけて直させることになった。俺が小夜の衣装代と小物代を帳面につけていると、ユウは鏡の映らない場所で何度もポーズを変えていた。


 日曜、借りた集会室は黒荘の何倍も広く見えた。朝のうちに運送業者から受け取った大道具を、俺は床に並べて状態を確かめる。銀次は入口から離れた壁際にケージごと置き、水と餌をやった。重い部材は俺が運び、金具を締め、足元にがたつきがないか何度も押した。ユウは軽い覆い布を一枚ずつ広げ、小夜はチェックした部品に印をつけてくれる。


 更衣スペースは衝立の向こうだ。俺は衣装の上着を取りに行きかけ、何も考えず仕切りを少し開けてしまった。見えたのは小夜のインナーと、肩に掛けた上着まで。すぐに閉じる。


「悪い!」


「入口の札、見てから開けて」


 外側の札には、ちゃんと「着替え中」と書かれていた。自分で用意しておきながら、確認もせず開けてしまった。


「札を見落とした。悪かった」


「次からは声もかけて。道具の位置ばっかり見てないで」


 衝立の向こうから小夜の呆れた声が返った。ユウは、俺が札の前で頭を掻くのを見て、得意そうに腕を組む。


「ほらね、壁を抜けなくても事故は起きるのよ」


「お前まで言うか」


 小夜が着替えて戻ると、俺は人体浮遊の立ち位置から合わせた。見せ場は宙へ上がっているように見える時間だけじゃない。客の前で手を取って案内し、終わったあと自然に戻ってくるまでが演目だ。


「ここで俺が手を出す。小夜はその手を取って、ゆっくり身体を預ける。急がなくていい」


 差し出した手を、小夜が握った。彼女は教えた位置へ足を進め、俺の手を支えに装置の上へ仰向けになった。姿勢が安定したところで、俺は手を離した。ユウはすぐ隣に浮いていたが、珍しく口を出さない。


 俺が覆い布を持ち上げようとすると、脇の卓からカードがぱらぱらと散った。ユウがまとめて浮かせようとして、途中で集中を切らしたらしい。小夜が反射的にそちらを見る。


「そのまま。顔は客席へ」


 俺は小夜に手を貸して装置から降りてもらい、落ちたカードの方へ向き直った。ユウは両手を身体の横に下ろし、散った札を見つめている。


「ごめん。邪魔するつもりじゃなかった」


「わかってる。札はあとで拾う。こっちは今、動きを覚えてるところだからな」


 小夜が上着の袖を直しながら近づいてきた。


「じゃあ、覆い布を外す役はユウに頼めない? 軽い布なら動かせるんでしょ」


「外すだけ?」


「ここで私が客を見る。そのあと弦が手を上げたら、布の端を引く。私にはできない角度から動かせるし、きれいに決まると思う」


 試してみると、布は早すぎず遅すぎず、俺の手から滑り落ちるように外れた。俺が客席のつもりで並べた椅子の方へ向き直ると、小夜はそのまま姿勢を保ち、ユウは離れたところで布を畳の上へ戻した。


「今の、私の出番だったね」


「うん。私が客席を向いたら、今度はユウの番」と小夜が返す。


 俺は道具を戻し、二人にもう一度最初の立ち位置から頼んだ。さっき散ったカードは片づけてからにする。銀次は壁際のケージで静かにこちらを見ていて、舞台の主役が三人に増えたことには興味がなさそうだった。


 大道具は管理人の許可を得て集会室の倉庫に預け、火曜の搬出を手配した。夕方、集会室を片づけて黒荘に戻ると、カイトが手配した最後の道具箱が届いていた。玄関前から部屋へ運ぶだけで腕に来る。ユウが手伝おうと近づいたので、留め具だけ頼んだ。


 蓋が開くと、古いクロスの匂いがした。折り畳まれた道具と布、金具のついた小さな箱がぎっしり詰まっている。どれにも表から読める名前の札はない。


「前の相方と使ってたもの?」


「ああ。カイトは本番前、いつも袖に忘れ物をしてな。俺が取りに戻ると、あいつは客の前で『助手が逃げた』なんて言い出す」


「ひどい相方じゃない」


「客には受けたんだよ。俺も次からわざと遅れて出て、やり返した」


「……二人で、ずいぶんいろんなことやってたんだ」


「失敗も山ほどしたぞ。カイトなんか、俺の帽子から鳩を出そうとして自分のネクタイを引っぱり出した」


「それ、ちょっと見たかった」


 ユウは笑って、古いクロスの端が箱に挟まらないよう浮かせた。俺は留め金を確かめ、ひとつずつ道具を取り出す。箱の底に折り畳みの脚と薄い天板が見えた。金具に錆がないか調べようとしゃがみ、手元を見たまま声をかける。


「ユウ、そこのフロテ取ってくれ」


 返事はなかった。だが俺が指さすより先に、ユウは折り畳まれた脚の方へ向いていた。


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