第5話 見える女
タエが数珠を振るたび、その先に結んだ房が俺の頬の前を行き来した。これを客に当てられては困る。俺は半歩引いてシルクを広げ、房と自分の顔の間に赤い布を通した。
「さあ、霊能力者の先生。そちらが退散させる前に、まずはひとつ、こちらのお願いを聞いていただけますか」
「何を企んでるんだい。あんたの後ろにいるのは、よくないものだよ!」
「では、そのよくないものを、皆さんにも見せていただきましょう」
俺は赤と青のシルクを一枚ずつ両手に持ち、胸の前で交差させた。タエの足元からは少し離れた、塩のかかっていない卓の端。そこに置いた空の小容器へ、視線を誘導する。
ユウはまだ俺の背中に半分隠れ、身を縮めていた。合図のため、交差させた右手の指を一度だけ開く。容器の底が卓から離れたのを見て、俺は青い布をすっと引き抜いた。
「おおっ!」
軽い容器が宙に浮いた。タエは数珠を握り直すと、俺より先にその容器へ顔を向ける。空の底が客席からも見えるように、容器の向きはそのままだ。卓に戻るまでの数秒、俺は布を引く手を動かさずに待った。
「何をする! 降りなさい!」
容器は答えるように一度だけ揺れ、卓へ戻った。ユウが額に手を当てる。いつもなら調子に乗ってもう一度浮かせるところだが、今は肩で息をするような仕草をしている。
「それでは先生、次はこちらを。どうかお手元の数珠を高く掲げてください」
「指図するんじゃないよ!」
言いながらもタエは数珠を掲げた。俺はカードを一組取り出し、片手で扇に広げる。客の目が俺の指へ移るのを待って、何枚かを抜き出し、もう片方の手へ滑らせた。浮かせる必要はない。ひらりと札を切り返すだけで、狭い店内では十分に見栄えがする。
扇を閉じて一枚のカードを示した瞬間、タエの数珠の房がぴんと横へ引かれた。
「ひゃっ!」
タエは思わず手首を引いた。俺はカードを数珠へ向けて差し出し、笑って一礼する。客席からどっと声が上がった。数珠そのものを奪う必要はない。房の端がほんの少し動けば、タエの反応が残りを演じてくれる。
「見たかい! こんなもの、さっさと退散させなきゃ!」
「先生、どうぞ。今夜の主役は先生です」
俺が手を引くと、タエは数珠を振りながら大声で何やら唱え始めた。客は手拍子でそれに応じている。ユウの姿が見えている俺だけには、彼女が背中越しに舌を出しているのがわかった。
「うらめしやぁ……」
その声が耳元に届き、危うくカードを落としかけた。こんなときに、練習中は禁止した声を出すな。横目で睨むと、ユウは口元を押さえ、少しだけ笑った。
タエがまた「退散!」と叫ぶ。俺は一歩前へ出てカードを空の左手から右手へ次々に現し、最後の一枚をシルクの中へ消した。容器も数珠も、もう動かさせない。塩で弱っている助手に無理をさせるほど、この客たちは退屈していなかった。
「先生の見事なお祓いに、盛大な拍手を!」
俺が腕を上げると、店じゅうに拍手と笑いが広がった。店主も奥から出てきて「タエさん、うちの特別ゲストは今日だけだからね!」と声を張り、タエは「誰がゲストだい」と言いながら、まんざらでもなさそうに鼻を鳴らした。
カウンターの若い女とタエの目が合う。女が小さく首を横へ振ると、タエは一度口をつぐみ、風呂敷を肩へ掛け直した。
「今夜はここまでにしておくよ。あんたも、変なものを連れて歩くんじゃないよ」
捨て台詞にしては声が穏やかだった。店主に促されて奥の席へ戻る背中を見送り、俺は最後の一礼をする。
ようやく拍手が静まったところで、財布でもトランクでもなく、先に俺の背後を確かめた。ユウは壁際に浮かんでいたが、白いワンピースの裾はまだ輪郭が薄い。こちらの視線に気づくと、親指を立ててみせる。
「……今の、成功ってことでいい?」
「大成功だ。だけどしばらく休め」
「客がみんな笑ってたね」
そう言って笑う顔まで、いつもより淡く見えた。
客が帰り始め、店主とチップの確認を済ませてから、銀次の様子を見に行った。物置脇のケージでは、本人だけが何事もなかったように羽繕いをしている。水皿を確かめて覆い布を掛け直し、トランクと一緒に店の脇へ運んだ。
ユウは軒下の壁際にしゃがみ込んでいた。膝を抱える格好なのに、白い裾から向こうの地面がまだ透けて見える。首元の青いシルクの写しまで、色が薄くなっていた。
「大丈夫か。プリン、帰りに買っていくか?」
「今はいい。それより、あの数珠が動いたときの顔、見た? タエさん、目が真ん丸になってた」
本人が懸命に笑いをこらえるので、俺も思い出して口元が緩む。もっとも、あのときは俺の方も必死だった。最後に何枚カードを出したのか、数えていない。
「その格好でいつまでいるの」
背後から声がした。俺は自分の肩に残った塩を払って振り向く。
「いや、もう帰るところで……」
「あなたじゃない」
カウンターにいた若い女だった。彼女は俺を横切り、しゃがんでいるユウと目の高さを合わせた。
「服、まだ透けてる。寒くはない?」
「……え?」
ユウが目を見開く。女の視線が動けば、その先にユウの顔がある。偶然の方向ではない。
「私のこと、見えてるの?」
「見えてるし、声も聞こえる。今はちょっとぼやけてるけど」
俺が言葉を探す間に、女は腕に掛けていた薄手のカーディガンをたたみ、軒下のきれいな台へ置いた。
「これ、貸す。そこに置くから、受け取ってみて」
「でも、私、物には触れなくて……」
「今の青い布は、どうやって着けたの?」
「こいつはユウ。俺がお供えしたら、写しを身につけられたんだ」
「だったら、同じように試してみようか」
ユウが俺を見た。俺は小さく頷いた。女が台のカーディガンへ向かって「ユウに貸す」と告げる。ユウが受け取るつもりで両手を伸ばすと、柔らかな灰色の写しが浮かび、ワンピースの上から肩に重なった。実物は台の上に残っている。
「……着られた」
「袖、通せそう?」
ユウは腕を通す仕草をし、何度も前合わせを確かめた。顔はまだ驚いたままだが、胸元を覆う布が一枚増えたことで、ようやく肩の力を抜いた。
「ありがと。えっと、あんた……じゃなくて、あなたは?」
女は実物のカーディガンを取り上げて腕に掛けた。
「宮守小夜。聖鳳大学の二年で、二十歳。さっきのタエは私の祖母」
祖母と聞いて、ユウがカーディガンの前を押さえ直した。俺も口を開きかけたが、小夜は先に言った。
「ばあちゃんに、悪い霊がいたら始末しろって言われてる。でも、今日見た限りじゃ、客を喜ばせて、塩を怖がってた助手にしか見えなかった」
「それは……どうも」
手品への評価と、お祓いされかけたことへの驚きが一緒になって、妙な返事になった。
「それから、そこのマジシャン」
「七瀬弦です」
「七瀬さん。あの子、塩をかけられてからずっとつらそうだったよ。大丈夫って言っても、客の前じゃ無理することもあるでしょ」
俺はユウへ目をやった。数珠の房を引いたあと、カードだけの演目に切り替えたが、あの短い動きにも力が要ったはずだ。
「次はもっと気をつける。さっきは助かった。服のことも、ありがとう」
小夜は軽く頷いた。その目がユウの足元へ下がる。
「……足の消え方が、見慣れたのと違う」
「それ、何かまずいの?」
俺が尋ねると、小夜は首を振った。
「わからない。ばあちゃんについて何度か見たものと違うってだけ。理由までは知らないよ」
ユウは自分の足先を見つめ、そっと浮き上がった。輪郭が薄いままの足が、時折形を取り戻したように見える。
「小夜なら、私に触れる?」
「やってみる?」
ユウが手を差し出す。小夜も指を伸ばしたが、二人の手は何の抵抗もなく通り抜けた。ユウは唇を尖らせ、小夜は目の前の手を見返す。
「そっか。見えるのと触れるのは、別なんだね」
「私も、少し期待したんだけどな」
小夜はカーディガンをたたみ直し、ユウに目を向けた。
「それで、二人はずっとここで手品をしてるの?」
「まだ組んで四日だ。名前も仮のものだし、どうして俺の部屋にいたのかもわからない」
俺が話すと、小夜は驚いた顔をするでもなく、ユウに直接尋ねた。
「自分のこと、知りたい?」
「……知りたい。だけど、今の仕事も嫌いじゃない」
ユウが俺の方へ寄ってくる。小夜はその距離を見て、小さく笑った。
「じゃあ、ばあちゃんに報告して終わり、ってわけにはいかないか」
「報告?」
「一応、様子を見てこいって言われてるから。黙って帰れば、また塩を持って来るかもしれないし」
ユウが俺の横で腕を組んだ。
「弦の助手は私なんだけど。いきなり来て、仕事を取ったりしないわよね」
「仕事を取るつもりはないよ。見えてるから、話はできるけど」
小夜の視線が俺の足元へ移った。持ち帰る袋の中には、休憩用に買った小さなプリンが一つある。店では手を付けず、ユウへの分として取っておいたものだ。
「そのプリン、まだ食べられるの?」
「え、ああ。未開封だからな」
「ちょっといいなと思って。あの子も甘いもの好き?」
「大好き!」
ユウの返事が早すぎて、小夜が吹き出した。さっきまで互いを警戒していた二人が、袋を挟んで顔を見合わせる。
「祓えって言われたけど、見逃してあげる。代わりに――」
俺は身構えた。霊能者の孫ともなれば、見逃し料も普通の相場では済まないかもしれない。
そのとき、ポケットでスマホが震えた。見知らぬ番号からの着信だ。名刺をもらったとき、こちらの番号も伝えておいた。出てみると、さっきの背広の男の声がした。
「夜分にすみません。創業記念パーティの件、社内で話を進めています。明日には正式にお願いできるかお返事しますので、そのときお電話してもよろしいですか? 詳しい打合せは週明けになりますが」
隣でユウが顔を輝かせた。小夜はまだ、言いかけた条件を飲み込んだままこちらを見ている。
俺は一度、カーディガンを着たユウへ目をやってから、電話の向こうの男に答えた。
「もちろん。明日のご連絡をお待ちしています」




