第4話 居酒屋ひょっとこ
金曜の夜の居酒屋は、暖簾をくぐったところから騒がしかった。焼き鳥の煙に醤油の匂いが混じり、奥の卓では仕事帰りらしい男たちが乾杯している。いつもなら、その賑わいの中へ一人で割り込むところだ。
「思ったより人がいるね」
ユウが俺の肩越しに店内を覗き込んだ。白いワンピースの襟元には、例の青いシルクの写しが巻かれている。店の客はもちろん、出迎えてくれた店主も、その声には顔を上げなかった。
「金曜だからな。今から逃げるなら止めないぞ」
「逃げないわよ。あんたこそ、手を震わせないでよね」
「震えてない。トランクが重いだけだ」
銀次のケージは、店主に断って奥の静かな物置脇へ置かせてもらった。水皿を確かめ、覆い布を半分かける。鳩を出すには客との距離が近すぎるし、料理のある卓で羽を散らすわけにもいかない。今夜はカードとコイン、軽いコップだけで勝負する。
「いつものように卓を回っていいよ。ただし料理が来たら一度引いてくれ」と店主が言った。俺が頷くと、ユウも隣で神妙に頷く。店主には見えていないのに、律儀な助手だ。
最初に声をかけたのは、カウンターの端でネクタイを緩めていた会社員風の男だった。枝豆の皿とビールを前に、ほとんど寝かけている。
「一分だけ、お時間をいただけますか。お代は店主から頂いてます」
「手品? いいよ。どうせ帰って寝るだけだから」
俺がカードを広げると、男は面倒くさそうに一枚を引いた。ハートの七。周りの客にも見せてもらい、山の中ほどへ戻す。束を揃えるふりで切り直し、選ばれた札を一番上へ運んだ。
そこで男が、不意に山札へ手を伸ばした。
「俺のカード、まだそこにある? 見ていい?」
確かめたくなる気持ちはわかる。だが今その一枚を抜かれたら、後の段取りが崩れる。俺の横ではユウが早くも手を上げ、山札の角がかすかに浮きかけていた。
まずい。ここで勝手に札が飛んだら、驚きより先に客の手が引っ込む。
「もちろん。せっかくですから、もっと近くで確認してもらいましょう」
俺は男の空いた左手に目を向け、掌を上にしてもらった。その上へデックを載せると、男は背筋を伸ばす。目を細めて眺めていた向かいの客まで、身を寄せた。
「動かないように持っていてください。僕の方は、もう触りません」
ユウを見る。彼女は口を尖らせたまま、練習どおり俺の指先を待っていた。右手を握り、何かをつまみ取ったように引く。視線が拳へ集まる。空の拳を開いてから、左の指で小さく合図した。
男の掌の上で、一番上のカードが端から持ち上がった。
「おっ……え?」
カードはゆっくりと水平になり、デックから指一本分だけ浮いて止まる。男は掌を動かしていない。向かいの客が箸を置いた。
「裏返してみてください」
札がデックの上へ戻るのを待ち、男は指先でひっくり返した。ハートの七だった。
「うそだろ」
今度は眠そうな声じゃない。男が何度も自分の掌を裏返すので、俺は笑ってカードを受け取った。ユウは横で両拳を握り、拍手を催促するように俺を見ている。
拍手は、向かいの客から始まった。
そこからは卓を一つ移るたび、少しずつ人が集まってきた。カードの角がわずかに動くだけで驚く人もいれば、俺の袖を調べさせろと笑う人もいる。ユウは待つのが苦手だが、視線が集まるまでぐっと我慢した。たまに勢い余って札が斜めになると、俺は手首を返し、自分の動きへ目を引きつけてから元の位置へ戻させた。
空になったプラスチックのコップを卓の客から借りたのは、三組目だった。
「これも使っていいですか。中身はありませんね」
「いいけど、割らないでよ」
「割れない材質を選んでますから」
客が笑った隙に、コップへ指を近づける。俺の指と底の間には隙間がある。ユウが頷いたのを確かめて手を引くと、コップは卓から二センチほど離れた。
持ち主の女性が息をのむ。彼女は下から覗き込み、隣の友人の腕を叩いた。俺が手を開くと、コップは音もなく戻る。
「ちょっと、もう一回! 今、何にも触ってなかった!」
「次はお友達にも見える角度でやりましょうか」
やり直しは一度だけ。三度目を求められたところで笑って断った。長くやればユウの集中が切れるし、同じ現象を見せ続けるより、余韻を残した方がいい。
ユウは客の顔を一つ一つ眺めていた。自分へ向けられたものではないと思ったのか、最初のうちは拍手が起きるたび俺の方を見たが、最後には客と一緒に笑っていた。
「今の人、ほんとにびっくりしてたね」
「小声で頼む。俺だけが返事したら変だろ」
「嬉しいんだから、いいじゃない」
店主が渡してくれた小皿には、千円札が二枚と小銭がいくらか載っていた。客が気前よく置いていってくれたチップだ。これなら銀次の餌を少しいいものに替えられる、と真っ先に考えた自分がおかしくなった。俺の食費はその後らしい。
帰り際、背広の男に名刺を差し出された。さっきのコップを見ていた客だという。
「うちの会社、近々創業記念のパーティがあるんです。ああいうの、会場でもできますか?」
「会場の広さと人数によります。今日より大きな演目もご相談できますよ」
「じゃあ、詳しい話は週明けに。まだ決定じゃないんですけどね」
その場で出演が決まったわけではない。それでも俺は名刺を財布にしまい、もう一度端が折れていないか確かめた。ユウが肩口から覗き、声を潜める。
「仕事が増えるかも?」
「まだわからん。でも名刺をもらえたのは本当だ」
カウンターの奥に座る、黒髪を結んだ若い女が目に入った。さっきから妙にこちらを見ている。カードよりも俺の立っている横の空間へ視線が向いていて、何か気になる仕掛けでもあったかと首を傾げた。
そのとき、店の入口で引き戸が勢いよく開いた。
「そこまでだよ!」
入ってきたのは、小柄な老女だった。肩にかけた風呂敷包みから数珠を取り出し、まっすぐ俺を指さす。
「この店に、よくないものが入り込んでる。男の背中にまとわりつく、女の情念だ!」
常連らしい客が「あ、タエさんだ」と笑った。店主は困ったように額へ手を当てる。見世物だと思っている客もいるらしく、何人かが椅子をずらしてこちらを見た。
俺の背中で、ユウが小さく声を漏らした。
「あの人、こっち見てる……?」
タエと呼ばれた老女の視線は俺の肩の少し上を行き来している。ユウの顔を正確に追っているようには見えないが、何もない場所に向かって数珠を掲げた。
「離れなさい。そんな念に取りつかれてたら、芸も曇る!」
「いやあ、芸についてのご心配なら間に合ってまして……」
冗談にして引き取ろうとした俺の前で、老女は風呂敷から小袋を出した。掌に盛った白い粒を見て、ユウの声が裏返る。
「弦、あれ、嫌な感じがする!」
止めるより早く、老女は「清めた塩だ!」と叫んでこちらへまいた。肩と髪に細かな粒がかかり、足元にもぱらぱらと散った。俺は思わず目をつぶった。
目を開けると、ユウの輪郭が揺れていた。
顔はまだ見える。だが白いワンピースの縁が薄くなり、袖口から向こうの壁の模様がちらつく。ユウは自分の胸元を見下ろして両手を寄せ、慌てて俺の背中へ滑り込んだ。
「やだ、服が……! 見ないで!」
俺の身体に隠れたつもりなのだろう。けれど重なった部分はすり抜けていて、俺には横顔まで見えてしまう。視線をそらし、老女と客の間へ半歩出た。
「お客さん、ちょっと下がってください。足元、滑りますから」
卓の向こうで笑っていた男が椅子を引く。ユウはいつものように言い返さず、俺の背に顔を埋める仕草をした。肩越しに小さく震える輪郭が見える。
カウンターの若い女が椅子から腰を浮かせた。その目は老女ではなく、俺の背後に向いている。理由を考える暇はなかった。
ここで黙って引き下がれば、せっかく笑っていた客は何を見せられたのかわからないまま帰る。何よりユウが、このまま怯えて店から逃げ出しかねない。
俺は店主と目を合わせ、トランクの留め具を指した。店主は一瞬眉を上げたが、俺が小さな演出用のスモークを示すと、心得たように周囲の卓を少し空けてくれた。
「皆さん、ご注目ください!」
いつもの営業用の声を、店の奥まで届く高さで出す。カードを扇にして掲げると、客の視線が俺の指先へ戻った。足元から白い煙をひと筋だけ流す。客の足元を隠すほどではない。老女の数珠と俺の手元、その間に薄い幕を一枚置けば十分だった。
「実は今夜、もう一つだけ用意していた演目があります。ずいぶん元気な相手役が来てくれたので、予定を少し早めましょう」
「誰が相手役だい!」
タエの声に、客席から笑いが返る。少なくとも今は、彼女を俺の仕込みだと思った人が何人かいるらしい。店主まで口元を押さえている。
俺はトランクから空の小容器を取り出し、塩の散っていない卓の端に置いた。
「これより特別演目、マジシャン対霊能力者!」
手を広げると拍手が起こり、タエが数珠を鳴らした。その陰で、俺はユウにだけ聞こえる声へ落とす。
「無理はするな。塩には触るなよ。あの空の小容器と、数珠の端だけでいい。できるか?」
ユウは俺の背後からそっと顔を出した。さっきより輪郭は弱々しい。それでも、客の期待に満ちた顔を見てから、俺を見上げる。
「……できる。合図は、ちゃんとしてよね」




