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第3話 ぽこぽん丸事件

 水曜の朝、俺は畳に座って銀色のコインを磨いていた。金がないからといって、客に見せる道具まで汚くしていい理由にはならない。銀次のケージを流しの脇へ寄せ、四畳半の真ん中にどうにか腕を振れる場所を作る。


「昨日のコップより簡単でしょ。これ、小さいし」


 ユウは俺の向かいで胡坐をかく真似をしている。青いシルクの写しは、まだワンピースの襟元に巻いたままだ。


「小さいから難しいんだ。勝手に飛んだら、客は驚く前に目で追っちまう」


「飛ばなきゃいいのね」


「まず俺の手を見ろ」


 左手の指先につまんだコインを、右手で取り上げるふりをする。実際には左の掌へ落として隠し、空の右手を握る。フレンチドロップ。俺が右の拳を開いて消失を見せた後、左手の陰からコインを浮かせる。そう決めていた。


「ここで、お前の出番だ」


 指を鳴らすより早く、コインが左手から飛び出した。俺の胸の前を銀色の円盤が横切り、箪笥代わりの段ボールに当たって落ちる。


「すごい速さで飛んだ!」


「見えたら駄目なんだよ。俺はまだ消してない」


「消せばいいじゃない」


「そうじゃなくて、客に消えたと思わせるのが先なの」


 もう一度やると、今度は俺が右手を開いた瞬間、コインが勢いよく横へ逃げた。俺は追いかけて拾い、畳の縁へ戻す。三度目はゆっくりと念を押したせいか、動き始めたコインがふらつき、ユウの鼻の位置をまっすぐ通った。


「いったあ! 鼻に直撃した!」


 彼女は両手で顔を押さえた。コインはそのまま身体を抜けて壁際へ転がっている。


「お前、当たってないだろ」


「わかってるわよ。気持ちの問題!」


 そこまで痛そうな顔をされると、謝るべきなのか迷う。結局、俺はコインを拾いながら、鼻の位置を通さないことを次の練習項目に加えた。


 その後もユウは浮かせるたびに「うらめしやぁ」と低い声を出したがった。客には聞こえなくても、俺の耳には届く。


「それも禁止。カウントが聞こえなくなる」


「雰囲気が出るのに」


「俺が間違えたら雰囲気も何もない。今の仕事は、怖がらせることじゃなくて驚かせることだ」


 銀次にも出番を用意してやりたかった。ケージから出して慣れた箱へ移し、蓋を閉めていつもの合図を送る。ユウには箱の軽い蓋を開けてもらう。鳩を浮かせようとするなと念を押すと、彼女は「銀次に失礼なことしないって」とむくれた。


 一度目は蓋が早く開きすぎ、銀次が中から首を出して俺を見た。二度目は上手く合ったが、当の銀次が出ようとしない。小さく餌を見せると、ようやく白い羽が箱から広がった。


「そっちの都合もあるもんな」


「私より銀次に甘くない?」


「銀次の方が先輩だからな」


 銀次がケージへ戻るのを見届けてから、俺は箱を片づけた。ユウは何か言いたそうに銀次を眺め、蓋だけをもう一度静かに開けてみせた。今度は合図より一拍遅い。


 午後はコインに戻った。コインが飛んでいくたびに拾いに行くのでは時間がかかるので、練習用の布を広げ、転がる範囲を狭くする。ユウは畳をすり抜けてしまうくせに、コイン一枚を目の前で止めることにはずいぶん苦労していた。


「だったら、一緒に手を動かしてみよう」


 俺が右腕を構えると、ユウはその腕へ自分の腕を重ねた。半分ほど身体が俺の肩から胸に入り込み、横を向けばすぐそこに彼女の顔がある。触れる感覚はまるでないのに、誰かの顔が自分の肩口から覗いているのは落ち着かない。


「近すぎる。少し離れろ」


「あんたが重ねろって言ったんでしょ。どっちよ」


「腕だけでいい。頭までこっちへ持ってくるな」


 文句を言いながら、彼女は肩を引いた。俺は左手にコインを戻し、右手をかぶせる角度を確かめる。客の目は、取ったはずの右手についてくる。左手に残ったコインは、その視線が移ってから動かさなければならない。


「いいか。俺の右が閉じる。客がそっちを見る。開いて空だとわかる。そこで初めて――」


 またコインが先に動いた。ユウは右腕の軌道をなぞりながら、俺より少し前へ出ていた。


「お前、俺の手より半拍早い」


「だって、次にそうすると思ったから」


 そう言われて気づいた。何を頼んでも彼女は次の位置へ行こうとする。こちらの手が動ききる前に、次の手順へ進みたくなるらしい。最初の夜、カードを扇に開いたときもそうだった。教えもしないのに、左右の手が妙に手際よく動いていた。


「じゃあ、その半拍だけ待て。俺の指が開くまでは、動かすな」


 何度か失敗してから、ようやく右手を開く瞬間が来た。掌には何もない。ユウがすぐ横で息を止めたのが見え、俺も無意識に止めていた。次の瞬間、左手の陰からコインがすっと浮き上がり、俺の目の高さで止まる。


 今度は追いかけずに済んだ。


「……もう一回、できるか?」


 ユウは答える代わりに、ひどく得意そうな顔で頷いた。俺はまだ右手を開いたまま、コインが落ちるまで待った。


 木曜には、コインの移動先を増やしてみた。俺の前からユウの横、そこから畳の上へ戻す。位置を覚えるため、彼女はコインの周りをくるくる回り始めた。最初は真横に並んでいたのに、いつしか身体ごと回転し、頭を下へ向けている。


「ユウ、逆だ。そっちへ回ると――」


「わかってる! 今、上がどっちか探してるの!」


 逆さになったまま身体をひねった拍子に、ワンピースの裾がめくれた。俺の目の高さに、白地へ黄色い丸顔をびっしり並べた柄が現れる。


 どこかで見た顔だ。少し垂れた眉に、間の抜けた笑い口。子供向けの菓子の袋に描かれている、あの――。


「……ぽこぽん丸」


 名前が口から出た瞬間、俺は背を向けた。


「何? 今、なんて言った?」


「いや、何でもない」


「ぽこぽん丸って言ったでしょ! どこを見たのよ!」


 背後でユウが急いで姿勢を直した気配がする。見なくても、声だけで顔の赤さが想像できた。


「すまん。わざとじゃない。もう見てない」


「名前までわかったってことは、しっかり見たんじゃない!」


「一瞬だって。そもそも見ようと思って見たんじゃ――」


「好きで穿いて……じゃなくて、なんで私が説明しなきゃいけないのよ!」


 俺が言葉を探している間に、目の前へカードが一枚ずつ並び始めた。十枚ほどが縦横に重なり、即席の壁を作る。裏面の青い模様しか見えない。


「見えないでしょ。ずっとそこ向いてて!」


「わかった。だから無理して浮かせ続けるな。落ちるぞ」


「余計なお世話!」


 言い終えるより先にカードが崩れ、俺の足元に散った。拾おうとして一歩進むと、向こうから「まだこっち来ないで!」と声が飛ぶ。仕方なく、俺は銀次のケージの前にしゃがみ込んだ。銀次は首をかしげ、餌入れをつついている。


「お前はいいな。見ちゃいけないものが少なくて」


 銀次から返ってきたのは、短い羽音だけだった。


 午後遅く、ようやくユウが俺の隣に戻ってきた。青いシルクの写しを首元へ整え、さっきまで怒っていたことなど忘れたように、練習用のコインを見下ろす。


「次は失敗しないから」


「俺も、見る場所を間違えないようにする」


「その話は終わり!」


 買っておいたプリンの蓋を開け、ユウに供える。練習の約束を果たした分だ。彼女が甘い香りを楽しんでいる間に、俺は畳のカードを拾って箱へ戻した。指先で端を揃えていると、スマホが震えた。


 画面には「居酒屋ひょっとこ」の店主の名前が出ていた。金曜の夜に頼まれていたテーブルマジックの最終確認だ。狭い店内で、客の卓を順に回る。普段なら俺一人で引き受ける仕事だった。


「予定どおり伺います。道具は小さめのものにしますから、よろしくお願いします」


 電話を切ると、ユウがプリンから顔を上げた。


「仕事?」


「ああ。明日の夜、ひょっとこで営業だ。お前も来るか?」


 さっきまで大口を叩いていたユウは、しばらくコップとカードを見比べた。俺と銀次以外に客はいない部屋でなら、失敗しても拾い直せば済む。店で同じことをやったらどうなるか、俺にもまだわからない。


「行く。今日の分は、ちゃんと仕事で取り返す」


「それなら、もう一回だけ合わせよう。客の前じゃ、俺の合図が先だぞ」


 ユウが頷いたので、俺はケージの留め具を確かめ、明日の移動に使う覆い布と衣装をトランクの上へ揃えた。コインを一枚渡すつもりで手を伸ばしかけ、彼女には手渡せないのを思い出して畳へ置く。


 ユウはコインを静かに浮かせ、俺の合図を待っている。


「明日は、客の前でもそれをやれ」


「拍手、もらえるかな」


「取りに行くんだよ」


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