第2話 霊体の取扱説明書
翌朝、目を覚ますと、枕元に置いた財布の上で十円玉が回っていた。
「起床の合図。どう、便利でしょ?」
ユウは天井近くに浮かび、得意そうに俺を見下ろしている。十円玉が倒れたところで銀次が鳴いた。時計はまだ七時前だ。
「まず降りてこい。人が寝てるところを上から覗くな」
「起きるまで暇だったんだもん」
「俺の睡眠を暇つぶしに使うな」
餌を欲しがる銀次に水と配合飼料をやり、俺は流しで顔を洗った。朝飯にできそうなのは昨夜買った食パンの端だけ。ユウにねだられたプリンもない。買い出しに出ると告げると、彼女は「ここで待ってる」と言いながら、もう窓の方へ身体を傾けていた。
戻ったのは昼前だ。スーパーの袋を両手に提げて黒荘へ近づくと、門柱の脇から白いワンピースが現れた。
「おかえり! 外まで行けた!」
「えっ、お前、部屋から出られるのか」
「そこの角まで。もっと先も行けそうだったけど、帰る場所がわからなくなったら嫌だから」
通りかかった住人は、俺の返事にちらりと目を向けただけで、ユウの声には反応しなかった。俺が袋を持ち直すと、彼女は何食わぬ顔で壁へ消えた。
買い物袋を抱えて歩き、汗をかいた俺は、部屋へ戻るなりTシャツを脱いだ。新しいシャツを探してトランクに屈んだとき、壁から女の顔がにゅっと出る。
「ねえ、プリンは――きゃっ!」
「出るなら、服を着る時間くらい寄越せ!」
「それ、昨日も言ってなかった!?」
ユウは壁に頭まで引っ込めた。そもそも出入り口がどこにでもある相手と、四畳半をどう使えばいいのか。
着替え終えてから、引き戸に「入室前はノック」と書いた紙を貼った。指で戸を叩けないユウには、外に置いた軽いコインを二回当ててもらう。着替えるときは俺が先に声をかける。寝床の上には浮かばない。彼女は最後の項目だけ「暇なのに」と不満そうだったが、俺が布団を頭からかぶって実演すると、笑いながら頷いた。
ユウはさっきの住人も気づいてくれなかったとぼやいた。俺がスマホのカメラを向けると、画面には畳と段ボールしか映らない。ユウがコップを宙へ上げると、それだけが映像の中で浮いた。折り畳みの鏡でも同じだ。俺の顔の隣にいるはずのユウだけが、ぽっかり抜けている。
「これじゃ髪が跳ねててもわからないじゃない」
「俺には見える。今は右がちょっと跳ねてるぞ」
「そういうの、昨日のうちに教えなさいよ!」
午後は、仕事道具を畳に並べて試験をした。コイン、空のコップ、水を半分入れたコップ。そして銀次の餌袋を入れた重いトランク。
「まずは一枚。俺の指の上で止めてみろ」
十円玉は浮いたが、指先を狙うと横へ逸れ、畳に落ちた。何度か繰り返すうちに俺の膝へ転がってくる。ユウが「今のは惜しい」と言うので、俺は届く位置に指を置き直した。それでも最後の数センチがうまくいかない。
「じゃあ、こいつは?」
トランクを示すと、ユウは両手を突き出し、顔を真っ赤にして唸った。留め具がかすかに鳴っただけで、底は畳から離れない。
「重すぎる! 中身、石でも入ってるの?」
「仕事道具だよ。石も演目によっては使うけどな」
「今の冗談、ちっとも面白くない」
空のコップなら持ち上がる。水を入れると揺れが大きくなり、長く浮かせるほどユウの視線が険しくなった。俺は順番に道具を片づけながら、トランクを客前で宙に上げる案に早々と見切りをつける。
試しにスプーンを差し出してみたが、ユウの手は柄を通り抜けた。コインは動かせるくせに、差し出された一本を人間のようにつかむことはできないらしい。
「触れないって、不便ね。この服だって、着替えられないし」
ワンピースの裾をつまむ仕草をして、ユウが眉を寄せた。
「試してみたいから、外に出てて」
俺は銀次に声をかけ、廊下へ出た。しばらくして呼ばれ、戻ると、彼女は鏡の前で髪を両手に集めている。
「どうだった?」
「無理。目が覚めたときから、このワンピースも下着もずっと同じ。脱ごうとしても脱げないの。それより、後ろの髪、おかしくない?」
鏡に映らない後頭部を確かめてやると、ユウは何度も髪を撫でつけた。服を替えられないうえに寝癖も自分で見られないとは、俺よりよほど身だしなみに苦労しそうだ。
買ってきたプリンを卓代わりの段ボール箱に置いたのは、そのあとだった。スーパーの値引きシールを剥がそうとすると、ユウが容器に顔を寄せた。
「早く開けて。朝からずっと楽しみにしてたんだから」
蓋を剥がし、スプーンを添える。彼女は嬉しそうに近づいたものの、スプーンも容器もすり抜けてしまう。何度か口元へ運ぶ真似をして、とうとう座り込んだ。
「見せびらかすために買ってきたの?」
「待て。食えないと決まったわけじゃない」
仏壇の線香を思い出した。物そのものではなく、煙や香りを供える。なら、幽霊にも似た方法が通じないだろうか。
「お前に供える。目を閉じて、匂いを吸ってみろ」
半信半疑のユウが顔を寄せる。ふっと肩の力が抜けた。
「……甘い」
「本当か?」
「カラメルの匂いもする。あ、すごい。口に入れたわけじゃないのに、甘さがわかる!」
彼女はもう一度深く息を吸うような仕草をした。俺にはただの安いプリンだが、ユウは目を細めて楽しんでいる。ただ、スプーンで冷たい一口をすくうことは、やっぱりできなかった。
「で、実物は減ってないな」
俺がスプーンですくうと、ユウの笑顔が止まった。
「ちょっと。なんであんたが食べるのよ」
「供え終わった分を食うだけだ。うまくいけば、お前も食えて俺も食える」
「理屈はわかるけど、なんか悔しい!」
俺が最後の一口を食べるまで、ユウは恨めしそうに見ていた。ようやく幽霊らしい顔つきだと思ったが、言えばプリンの追加を要求されそうなので黙っておく。
その後、彼女は道具箱にあった小さな青いシルクを指さした。
「それ、首に巻いてみたい。服が替えられないなら、せめて飾りくらい」
「実物は持てないだろ」
「プリンみたいに供えてみてよ」
畳に広げ、ユウにやると告げる。彼女が受け取ろうとすると、布の淡い写しがふわりと浮かび、白いワンピースの襟元に重なった。実物の青い布は畳に残っている。
「どう? 似合う?」
「悪くない。ただし本物は俺の手元に置くぞ。仕事で使うから」
「プレゼントなのに返せって言うの?」
「お供えだ。現物まで持っていくな」
夕方、不動産屋へ電話をかけた。前の借主について尋ねると、若い女性が急に退去したこと以上は詳しく話せないという。名前や連絡先も教えられなかった。
「どうだった?」と、電話を切った俺にユウが尋ねる。
「手掛かりはなかった。ほかも当たってみよう」
ユウは首元の青い写しをつまむような仕草をした。以前好きだったもの、馴染みのある道具、行ってみたい場所を順に聞いてみる。彼女はしばらく考えたが、首を横に振った。
「じゃあ、思い出す手掛かりも仕事をしながら探そう。今はこれだ」
空になったプリン容器を洗い、コップを一つ畳の中央に置く。俺が指を鳴らしたら、客の目線の高さでゆっくり一周させる。ユウは三分の一ほど進めたところで軌道を外し、俺は反射的に彼女の腕を直そうとして、また空をつかんだ。
「右、もう少し右。違う、俺から見て右だ」
「最初に言ってよ!」
夕飯を済ませ、銀次の水を替える頃、コップがようやく一周して元の位置へ戻った。俺が親指を立てると、ユウは得意そうに胸を張った。速さはまだばらつくが、道具を壊さず終えられたのは収穫だ。銀次のケージにかけた布を整え、俺も布団を敷いた。
「明日から特訓だ」
ユウは枕元にふわりと降り、俺が眠る前に顔を覗き込もうとして、あわてて離れた。
「ねえ、プリンって前払い?」




