第1話 四畳半の先住民
水の入ったプラスチックのコップが、畳から三十センチほど浮いていた。
移動用ケージで寝ていた鳩の銀次が羽をばたつかせ、俺を起こした。目の前ではコップがゆっくり右へ動き、水面が揺れても一滴もこぼれない。
「おいおい、どうなってるんだ」
布団を蹴って立ち上がり、段ボールに躓いて畳を鳴らす。コップの上へ手を通し、底の下も探ったが、糸も支えもない。しかも本物の水入りだ。水が揺れるたびに重心が変わるのに、よく水平を保てるものだ。
コップが俺の手を避けるように、さらに十センチ上がった。
「待て、今のもう一回!」
相手がいないのについ頼んでしまう。俺、七瀬弦、二十三歳。職業はマジシャンだ。もっとも、昨夜の出演料は電車賃と弁当代を引けばほとんど残らなかったから、職業欄に書くたび少し勇気が要る。
今夜越してきた黒荘二〇一号室は、四畳半に小さな流しがついただけ。昔カイトと「事務所」と呼んだ雑居ビルの一室より狭い。元相方が恋人と同棲を始め、俺は安い部屋を探す羽目になった。銀次のケージとトランクを置くだけで寝床は壁際へ追いやられる。
それでも、家賃が安いのには理由があるらしかった。
『夜になると音がするらしいんですよ。前の若い女の子も急にいなくなってね』
銀次がもう一度羽を鳴らした。畳に置いたトランプの箱が、誰にも触れられていないのに開く。五十二枚のカードがぱらぱらと飛び出し、天井近くまで舞い上がった。
「そっちもできるのか!」
「……うらめしやぁ」
カードの向こうで女性の声がした。
白いワンピースに肩より長い黒髪。輪郭のぼやけた足先を浮かせ、いかにも幽霊らしい女がカードの真ん中に現れた。
「この部屋に住みつく者よ。今宵こそ、恐ろしい呪いを――」
「ちょっとコップ動かしてみてくれ。さっきの高さで」
女は両手を垂らした格好で固まる。視界の端でコップが揺れていたので、俺は天井の照明器具まで調べ始めた。
「……ねえ、聞いてる?」
「聞いてる聞いてる。それより、コップの回転ってできる?」
ようやく女の方を向いたところで、目が合った。彼女の視線が俺の顔から胸元へ落ち、さらに下へ動く。
「きゃあああっ! なんで裸なのよ!」
銀次がまた暴れ、カードが数枚落ちる。
「パンツは穿いてるだろ! だいたい、出るなら服を着る時間くらい寄越せ!」
「そっちこそ、勝手に入ってきたくせに!」
「家賃を払って入ってきたんだよ。今日からここは俺の部屋だ」
「私の方が先にいたもん!」
賃貸契約に幽霊の居住権は書かれていない。上着を取ろうと壁際へ歩くと、女が進路をふさいでいた。避ける間もなく肩がぶつかる――と思った。
抜けた、というのは言葉の綾じゃない。
腕が女の身体を通り抜け、何の抵抗もなく反対側へ出た。冷たい風すらない。俺は自分の腕を見返した。
「すごいな。これ、客の目の前でやったらどうなるんだ?」
「人をすり抜けて、その感想!?」
女の輪郭が月明かりに溶けるように揺らぎ、彼女は慌てて胸元を押さえた。俺はそこでようやく、その顔をまともに見た。
「悪い」
顔を背けてTシャツを着る。振り向けば、俺とそう年の変わらなそうな彼女が頬を膨らませていた。
「で、あんた、本当に幽霊なのか?」
「今さら? こっちは一生懸命怖がらせようとしてたのに」
「ごめん。コップの方が気になった」
「普通、人が浮いてたらそっちを見るでしょ!」
人間が浮く演目には心当たりがあるが、水入りの安物コップを自在に操る仕掛けには心当たりがなかった。
名前を尋ねても首を傾げるばかり。住んでいた場所も、いつからこの部屋にいるのかも答えられなかった。
「気がついたらここにいたの。手を伸ばしても壁を抜けちゃうし、誰かが来ても私のことなんか見ないし……だから、たぶん死んだんだと思う」
彼女は宙で膝を抱えた。足先の輪郭が薄い。
「名前も家も、手掛かりを探そう。とりあえず、あのコップをどうやって浮かせたのか教えてくれ」
「切り替えが早すぎない?」
文句を言いながらも、女はコップをこちらへ寄せた。俺が受け取ろうとすると、コップはすっと横へ逃げる。
「手で持ってるわけじゃないの。そこに行けって念じると、動くのよ」
畳の端まで運んでもらうと、女がコップの水面へ目をやった。その途端に動きが鈍り、コップは畳へ着地した。褒めれば、彼女は顎を上げる。
「じゃあ、そのまま握手はできる?」
「やってみれば?」
差し出された手に自分の指を重ねる。指先は空を掻き、女の手首をすり抜けた。
「ほらね。物を動かすのと、触るのは違うみたい」
俺は畳のカードを指さし、さっきのように飛ばせるか尋ねた。
カードがふわりと持ち上がる。全部がばらばらに踊るかと思ったら、左手側に束が寄り、その上を右手で払うような動きに合わせて、一枚ずつ等間隔に開いていった。扇の骨のように揃った端が、月明かりを受ける。
「……へえ」
あの広げ方なら、舞台の端の客にも図柄を見せられる。俺自身、慣れるまでは何度も角度を間違えたものだ。女は俺の顔を見て笑ったが、その途端にカードが一斉に落ちた。銀次のケージにも二枚降りかかり、鳩が迷惑そうに首を振る。
「今の、上手だった?」
「途中までは。最後で全部台無しだな」
「少しは褒めてから落としなさいよ!」
拾いながら考える。力で偶然あの形を作ったのかもしれないが、左右の動きに無駄がなかった。もう一度頼むと、彼女は疲れたと壁際へ逃げた。
「ずっとここにいたのか?」
「たぶん。すごく長い気がする。でも、昨日がいつだったのかもわからない」
何人住んでいたかもわからないらしい。女は散ったカードに手を伸ばし、触れられないと気づいたように引っ込めた。俺が拾い終えてトランクを起こすと、錠前の音に誘われて興味深そうに覗き込む。
「俺は手品で飯を食ってる。こいつらは仕事道具だ」
「手品? さっきから変なものばっかり見てたのって……」
「そう。俺には、あんたのそれが最高のネタに見える」
客の掌からカードが浮き、空の袖からコインが飛び出す。俺が視線を集め、女が物を動かす。そんな舞台なら、今まで断られてきた仕事だって取れる。
「化けて出るなら、俺の舞台に出ろ」
「……私を見世物にする気?」
女は笑わない。
「客から姿が見えなくても、仕事はある。客が楽しめるようにするのは俺の役目だ。あんたには、できることを手伝ってほしい」
「私の姿が見えないって、決まったわけじゃないでしょ。あんたには見えてるし」
「確かに。それは試す必要があるな」
廊下で足音がした。引き戸を少し開けると、買い物袋を提げた住人が通りかかる。女も俺の肩越しに「こんばんはー」と手を振ったが、相手は俺にだけ会釈して階段を上がっていった。
女は手を振ったまま取り残された。やがてそっと手をおろすと、俺をうかがう。
「少なくとも、今の人には見えてなさそうだ」
「……あんた以外にも、見える人がいるかもしれないじゃない」
「もちろん。だから、確かめながらやろう」
戸を閉めると銀次が短く鳴き、女がそちらを向いた。
「俺もあんたのことを調べる。前の借主について不動産屋に聞いてみるし、名前や家を思い出す手掛かりも探す。その代わり、俺の助手になれ」
「本当に、探してくれる?」
「約束する。売れない手品師でも、探し物くらいはできる」
少し考えて、彼女は頷いた。差し出した手に掌を重ねてくれたが、やはり触れ合えない。
「呼び名がないと困るな。幽霊だから……ユウでどうだ」
「ええっ、そんな適当な決め方!?」
「本当の名前がわかったら替えればいい。しばらくは仮の名前だ」
「もっとかわいい名前、思いつかないわけ?」
「候補を出してくれ。採用は俺が決める」
「横暴な雇い主!」
ユウは不服そうに名前を口にした。俺は明日の練習用デックを取り出しかけ、手を止めた。
「そうだ。何か一つでも覚えてることはないか? 好きだったものとか、食べたいものとか。なんでもいい」
ユウは真剣な顔で目を閉じる。俺もデックを膝に置き、待った。
「……プリンが食べたい」
しばらく待ってみたが、続きはなかった。
「……それ、記憶?」
「今、はっきりわかったことよ。助手になるんだから、プリンくらい出るでしょ?」
家賃、銀次の餌代、俺の食費。そこへ、支給方法すらわからない幽霊へのお供え代が加わろうとしている。
ユウは期待に満ちた顔で、俺の返事を待っていた。




