4. 通した者
ラーゼンの迷宮へ、足を踏み入れた。
壁を組む石は冷たく湿り、松明を近づけると薄い水の膜がぬらりと光る。空気は井戸の底のように重く、わたしたちの足音だけが暗がりの奥へ、先へ先へと転がっていく。三層まで、いちばん短い道を迷わずたどった。右、右、左、突き当たりを右。
「ねえねえ、なんで分かるの?」
「勘です」
「うっそだぁー」
「勘です」
「二回言ったー。ぜったい嘘じゃん。きゃははは!」
シビラが声を弾ませて笑う。ヨアヒムは眼鏡を押し上げ、つまり、と得意げに切り出した。
「つまり、この迷宮は左回りに設計されているのですね。であれば次は左です」
「右です」
「しかしですね、古代の設計思想では」
「右です」
「……ええ、右ですね」
答えは、右である。
一度目、ここで五日迷った。水もパンも尽き、舌がひび割れても、シビラは壁に印をつけて回ったのだ。どの石に、どんな傷を刻んだか。
今日は半刻で抜けた。ほっとするより先に、あの日の渇きが喉の奥によみがえる。
◇
三層の広間へ入ったとたん、目の端で壁が動く。
一度目には、いなかったものである。壁抜けだ。石壁の中を魚のように泳ぎ、こちらの背中を狙ってぬるりと出てくる。
降りてくる途中、二層の壁には新しい巣が増えていた。砦から散った群れが、湿った闇を伝ってここまで来ているのだ。
わたしが裏口を通したせいで、正面の門は開かずに済んだ。だが、開かなかったぶんだけ、群れは南へ散る。その行き着いた先が、ここである。
「後ろ!」
振り向きざまに剣を薙ぐ。刃先が空を切り、届かない。七分の腕が、また見えない底に当たった。
くっ!
石くずを散らし、壁抜けの爪がまっすぐわたしの喉へ迫る。
爪と喉のあいだへ、大盾が滑り込んだ。
ガンッ、と金属が潰れる鈍い音。ジルヴィオの肩から先が、赤く裂けた。血が盾の縁を伝っても、彼は膝をつかない。つかないまま盾をずらし、その重みごとわたしを後ろへ押しやる。
「下がれ!」
「あなたこそ、下がってください!」
「俺が下がったら、後ろが通れない」
「通します。わたしが、通します」
「なら、生きて出るのが先だ」
石壁の内側で、黒い染みのような影がもう一つ膨らんでいる。二体目である。
「ヨアヒム、火を! 左の壁ぎわへ」
「む、無茶を仰る。私の指が焼けます」
ヨアヒムの杖の先が、隠しきれないほど震えている。この人はいつも、撃つ前に一度だけ言い訳をする。
一度目、ヨアヒムはこの広間で指を二本なくしている。天井から落ちた罠の石に手ごと潰され、そのあとしばらく、杖は左手だった。あのときの乾いた悲鳴が、耳の奥から消えてくれない。
今日はまだ、十本ある。ならば、どれも失わせない。
「焼けません。あなたの指は、まだ十本あります。十本あるうちに、撃ってください」
「……ええいっ、ままよ!」
ゴウッ、と火が唸りを上げて壁を舐めた。熱に照らされた水の膜が、赤く揺らめく。だが壁抜けは石の中で炎を避け、何事もなかったように反対側から頭を出す。
「き、効きません!」
「知っています。いまのは道を空けさせただけです。――退きます! 全員、来た道を!」
「ええーっ、獲らないの? もったいなーい!」
「もったいないで、人が死にます」
退路を見ながら、わたしは悔しさごと奥歯を噛む。
一度目のレジーナの腕なら、獲れるだろう。でも今の、この腕では無理だ。
同じ体で、同じ型を使い、同じ場所に立っている。それでも、どうしても届かないものがある。この二周目で、わたしが最初に覚えなければならないのは、たぶんそれである。
◇
外へ出ると、光はもう西へ傾いている。迷宮の冷気と血の匂いをまとったまま、五人で長い坂を下りていく。
迷宮の口には、討伐の記録所を兼ねた小屋がある。煤けた窓の向こうで、下役のケルプが討伐帳を前に退屈そうに鼻をこする。
「討伐は?」
「ありません」
「じゃあ書けません。戻ってきただけの者は書けません。まあ、聖女様のおかげでございましょう」
わたしは小屋の窓枠に手を置く。ささくれた木が、熱の残る掌に刺さる。
「五人が出て、五人が帰りました。数えてください」
「はあ?」
「そこに立っている頭を、数えてください」
「……一、二、三、四……五」
「五人です。誰が通したかも、そこへ書けますね?」
ケルプの筆が、紙の上でぴたりと止まる。穂先にたまった墨が丸く膨らみ、今にも落ちそうである。
「そ、そんな行は、見たことがありません」
「今日から、見ることになります」
ケルプは口を尖らせたまま、指をもう一度折り直した。折り終えれば、もう言い逃れる道は残っていない。
「……盾方ジルヴィオ、五人を通した」
「等級は据え置きで結構です。名前だけ」
ジルヴィオが小屋の中をのぞきこみ、書かれた行をしばらく見つめている。
「……俺の名前だ」
「あなたの働きです」
「……そうか」
彼は裂けた肩をかばいながら、小屋の窓から一歩さがる。
ヨアヒムが眼鏡を押し上げ、窓を横からのぞきこんだ。傾いた光の下、書かれたばかりの一行は、消えない傷のように黒く見える。
「つまり、討伐の無い日に盾方の名を残すと、次からも残せということになりますね」
「そのとおりです」
「それは……つまり、手間が増えますな」
この人はいつも、正しそうな理屈を並べ、いちばん損なほうへ話を運ぶ。一度目もそうだった。そのたびにわたしは、なるほど、と頷いて引き下がったのだ。
「増えます。増えたぶんは、誰かの名前です」
シビラが窓の桟に顎を乗せ、下から書かれた行をゆっくり目で追う。
「ごーにんをとおしたぁ。ふーん。それ、報酬いくら?」
「一枚も出ません」
「えー、じゃあなんで書かせるの?」
「一枚も出ないものが、いちばん長く残るからです」
シビラは口を尖らせ、窓の桟を指ではじく。乾いた爪の音が、小屋の板を一度だけ鳴らした。
ケルプは筆を置き、こちらを見ないふりをしている。それでも指だけは、もう一度、立っている頭の数を折り直す。書いた一行が、本当に消えないか確かめるように。
「ジルヴィオさん。明日の朝、この帳の写しが王都へ発ちます」
「王都か」
「ええ。あなたの名前が、そこへ行きます」
「行っても、俺は見に行けない」
「わたしが後で見ます。ちゃんと載っているか」
◇
夜の野営で、わたしは焚き火のそばに座り、ジルヴィオの肩を縫った。
聖女は少し離れたところで、白い湯気を立てながら湯を沸かしている。呼べばいい。手を借りればいいのに、わたしの手はもう針を取っていた。この傷も、この人が名を残した今日も、夢ではないと。
「聖なる光なら、もう当ててもらった」
「存じています。塞がったのは表だけです。深いところは、針でないと閉じません」
焚き火の煙と、血と、煮えた湯の匂い。この三つが混ざる夜を、わたしは五年、いつも後ろのほうで嗅いできた。今夜は、火の熱も彼の息づかいも届く、いちばん近いところにいる。
「痛みますか?」
「……いや」
「嘘です。歯が鳴っています」
「……縫うのが、うまいな」
「五年、やっておりましたので」
彼がわずかに首をひねり、焚き火越しにこちらを見た。
「五年か」
「……はい。自分なりに頑張っておりました」
針を通すたび、深いところから血がにじむ。わたしは血を見ても、もう手が震えない。
そういえば、聖女もさっき、裂けた肩を見て顔色ひとつ変えなかった。慣れたのだ、とわたしは思う。わたしも二月目には慣れた。けれど胸の奥に、小さな棘が引っかかる。……ずいぶん早い。
「……ジルヴィオさん」
「はい」
「わたしは、あなたに借りができました」
「借りなら、返さなくていい」
「返します。名前で返します。あなたの名前で」
言い直したのは、この体に染みついた癖が口をついたからである。ジルヴィオは何も問わず、縫い終えた肩をゆっくり回した。糸の結び目を親指でそっと撫でる。その指にこもった熱を確かめるようにして、それきり火のほうを向く。
武器が一枚減る。先を知っているという一枚が、今日から欠けはじめている。残るのは、この体が覚えているという一枚だけ。七分しか出ない、頼りなくても手放せない、その一枚だけである。
前回は曲がりなりにも魔王を倒せたが、このままでは今回は危うい。
倒せなければ街のみんなは蹂躙される運命。やるしかない――――。




