3. 影を斬る
南へ伸びる道で、ようやく隊商の列に追いついた。
乾いた土埃が、ろばの腹を隠すほど白く舞い上がっている。日は高く、積み荷の影は足元で黒く丸まっていた。焼けた道の脇では、商人のタウベが若い冒険者の賃金を値切っている。
「五等に三日ぶん? いやいや、二日ぶんが相場だよ」
「で、でも、夜も見張りますし……」
「見張りまで仕事のうちだろう?」
「……はい」
若い男は、唇を噛む代わりに肩の荷を担ぎ直し、黙って視線を落とす。ウルス。二十歳。等級は五等。
「……二日ぶんで、お願いします」
「そうそう、そうこなくちゃ。話の分かる子は好きだよ」
一度目、わたしはこの男の名を知らないまま、林で影食いに二人を奪われた。その二人のうちの片方は、たしか彼とよく似た背格好をしていた気がする。顔まで思い出せない。あのときのわたしは、ずっと後ろにいたからだ。
◇
影食いは、目に見える本体を斬っても死なない。
地面に落ちた影のほうこそ本体で、そちらへ刃を入れれば砂のように崩れる。一度目、わたしたちはそれを知るまでに七日かけた。七日のあいだに、二人が死んでいる。
だから、今日は知っている。木が落とす影と、命を食らう影。その見分け方まで、この目は覚えているのだ。
知っているはずなのに、林へ入って三歩で、足が地面に縫い留められた。
葉擦れに揺れる木漏れ日のまだら模様、その中に輪郭だけが不自然に濃いものが二つ、息を潜めている。
「……二体、ですか?」
「あれぇ、増えてるね。昨日はいなかったっしょ」
「……昨日、見たんですか?」
「見たよー。一体だった。増えるのは、よそから来たときだけ」
シビラは枝の上で身を低くし、獣の気配を探るように鼻をひくつかせている。
「よそ……というのは」
「んーっと、北。峠のほう」
「峠で、なにかあったんですか?」
「さあねー。レジーナのほうが知ってそうだけど」
一度目は一体だった。砦の正面から散った群れが、この林で分かれたのだ。わたしが裏口を使ったから、知っている流れが早くもずれた。
喉の奥がひりつく。知っているという武器が、いま手の中で一枚欠け、その乾いた音だけが胸の奥へ落ちる。
右の影がスゥッと下草の中に紛れ込む――――。
「シビラ、逃げた右の影の位置を、早く!」
「えーっ、あたし戦わないってばぁ」
「位置だけでいい!」
「五歩右、ちょい前! はい、まけといたげる!」
シビラは木の上で膝を抱えたまま、片目をつぶり、面白い見世物でも眺めるようにこちらを見下ろしている。
「……まける、とは?」
「本気で読んだら賭けになんないの。今のは半分ね」
「半分で結構です」
右の影へ刃を走らせる。黒い輪郭がほどけるより早く、左が背後へ回り込む。振り向いたときには、もう腕が七分の底に当たっている。
くっ!
届かない。
その瞬間、横から誰かが土埃を蹴って飛び込み、左の影の上へ倒れ込んだ。ウルスである。両手両膝で、暴れる影を地面へ必死に押さえつけている。
「は、早く! 押さえてます!」
「離れて!」
「離したら、逃げますっ!」
「押さえたまま、頭を右へ! 剣が通ります!」
「み、右! 右ですね!」
ためらえば、彼の体が裂かれる。わたしは鋭く踏み込み、彼の指の間へ狙いを定めて剣を落とす。
サアッ、と刃の下で、影が乾いた砂のように崩れた。
ウルスは地面に伏せたまま、肩を大きく上下させている。爪が両手の甲を深く裂き、指の節には土と生温かい血がこびりついている。
「……立てますか?」
「立てます! ……あの、自分、間に合いましたか?」
「間に合いました。あなたが押さえてくれたので」
ウルスは確かめるように両手を返して見る。裂けた甲から、鼓動に合わせてまだ血が滲んでいる。
「手当てをします。手を出してください」
「い、いえっ、こんなの、唾つけときゃ治ります」
「ア、アデーレ! こっちに!」
聖女は含みのある顔で小首をかしげ、静かにやってくる。
聖なる力を使う昔のわたし――しかし、本当は誰なのか分からない。でもその力は本物ではある。まるで私が剣士としてやれているように。
「彼女に手を治してもらってください」
「……はいっ」
わたしはその場を離れ、シビラはそんなわたしをじっと見ていた。
とりあえず、何とかなったが――――知識だけでは足りない。その足りない分を埋めたのは、傷つき、息を切らし、それでも飛び込んだ、名前のある人間である。それを胸に刻まねばならない。
◇
夕方、赤い西日が差し込む宿場の卓で、タウベが酒臭い息を弾ませ、上機嫌に言う。
「いやあ、聖女様のおかげです。祈りで浄化されたんですなあ」
「斬ったのはこの腕ですが?」
わたしは逃げ道を塞ぐように、卓へ手を置いた。
「それと、影を押さえたのはウルスです。分け前の帳を、開いてください」
「いや、開くもなにも、五等の取り分は決まって――」
「今日の働きで決めてください。ここに、見ていた人が三十人います」
「さ、三十人?」
「荷を下ろした人も、水を飲みかけた人も、こちらを見ています」
三十人の前で名前を消すのは、たやすい。消された者が黙れば、それで済む。けれど、三十人の前で名前を書き直させるのは、そうではない。だから、人の目と声が集まるところでやる。
一度目のわたしは、宿へ戻ってから帳のことを聞いた。聞いて、そういうものですかと笑い、何の興味も持たず、それで終わりにしたのだ。それが死を呼んだということだろう。
タウベの指が、しぶしぶ帳へ伸びる。その指先が表紙へ触れる寸前、積み荷の陰から声が飛んだ。
「押さえてたぞ、あの兄ちゃん!」
「見た見た! 手え、血だらけでさ」
「わしも、しかと見たぞ」
声はばらばらで、誰が言ったのかも分からない。分からないからこそ、ひとつだけを黙らせても、もう止めようがない。
タウベは居心地悪そうに首のうしろを掻き、それから帳を開く。判を取り出し、諦めたように長い息を吐く。トン。
「……四等。次の護衛から、回す」
判が紙に落ちる音は、思ったよりも小さい。それでも、そのかすかな音を聞き逃すまいとするように、卓のまわりが静まり返る。
ウルスは両手を差し出しかけて、途中で止める。爪に裂かれた甲はまだ跡が残り、受け取る資格を問われてしまうとでも思っているようだった。
「で、でも……」
「ちゃんと受けてください。あなたの紙です」
彼は恐る恐る両手で受け取り、それきり動けなくなる。紙の端が、強く握った指のかたちに、じわりと湿っていく。
「……自分、五等で三年です」
「今日から四等です。明日から、仕事が変わりますよ」
「……変わりますか?」
「変わります。五等は荷の後ろ、四等は先です。夜の見張りも、二人で分けます」
「……はい。……はいっ」
返事が二つになる。震えた声の奥で、ようやく明日を信じる音がした。一度目のわたしは、一つ目の「はい」しか聞いていない。
タウベが荷方を呼びつけ、明日の隊列を組み直しはじめる。ウルスの名が、今まで届かなかった先頭のほうで一度呼ばれた。
「四等、ウルス! 明日は先だ」
「はいっ!」
卓を離れかけた若い冒険者が、二人ばかり足を止め、ためらいがちにこちらを見ている。五等の襟をした男たちである。
「あ、あの。今日の、あれ……」
「……はい」
「ああいうの、言ってもいいんですか?」
「言っていいんです。今日のうちなら」
男の一人が、長く馴染んだ傷に触れるように、襟についた五等の印を指でつまむ。
「……今日のうち、ですか?」
「はい。明日になると、紙が遠くへ行きます」
男たちは顔を見合わせる。その目に小さな決意を灯し、それから深く頭を下げて、人の輪の中へ散っていく。
名前は、書き直せる。ただし、その日のうちに、書く人の前で、声に出して言った者の名前だけだ。わたしは五年、紙が遠ざかるのを黙って見送り、そのどれもしなかった。そして最後刺されたのだ。
◇
その夜、宿の井戸端では、薄い月明かりの下で、村の女が聖女にすがるように頼んでいる。
「お願いです、うちの子に、浄化を……」
「……ごめんなさい。今日は、その……力が足りません」
「そこを……なんとか」
「力が戻るまでは何もできないのです」
女は下がらない。前掛けの端を白くなるほど握りしめたまま、祈りと疑いの入り交じった目で聖女の顔を見上げている。
「でも、このままじゃ死んじまうんだよぉ!」
「明日……来てみてください」
「明日ですね! ありがとうございます!」
釣瓶の縄が、夜気を吸って手のひらに冷たい。井戸の底で水音が揺れ、わたしは汲み上げる手を止める。
今日、聖女が使った聖なる力など数えるほどしかない。なぜ、力が枯渇しているのだろうか?
水面に映る顔が、細かな波紋に揺れて崩れる。頬に古い傷を刻んだ、わたしの知らない女の顔だ。
一度目のあなたは、断らなかったわよ?




