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2. 裏口

 峠道を、列が這うようにゆっくり登っていく。


 朝の霧が松の黒い幹をなめ、足元の石は薄氷のように濡れて光っている。息を吸えば、冷たい針が喉の奥まで差し込んでくる。トールン砦まで、あと半日。荷を積んだ驢馬(ろば)の脇を、痩せた少年が懸命についてくる。同じ荷を担いだ母親は、少し離れた列のうしろにいる。


 クノー。十四。肩書きは荷方である。


 一度目、この少年は七日目の朝、砦の正面で命を落としている。城壁から射下ろされた味方の矢が細い首を貫いても、名前は帳に載らなかった。載らなかったから、母親には一枚の銅貨さえ渡らない。


「クノー」


「は、はい」


「今日は先頭に出ず、列の真ん中を歩いてください」


「で、でも、荷方は道を作るのが仕事だって、砦の人に……」


「道は作らなくていい。歩いてください」


 少年は口を開きかけ、言葉ごと飲み込むように荷紐を握り直す。指先が白くなる。


「あの……叱られませんか?」


「叱られたら、わたしの名前を出してください」


 クノーは目をまるくし、わたしが何を考えているのか探るように見つめてから、素直にうなずいた。首に巻いた布が朝の風でめくれ、頼りないほど細い首がのぞく。矢が入るのに、たいした力は要らない。


       ◇


 砦の南斜面まで来ると、わたしは列を止めた。


 斜面の下から見上げると、石垣の三段目だけが白っぽく浮いている。雨で流れた土が、継ぎ目の漆喰(しっくい)を洗い落とし、古い傷のような隙間をさらしているのだ。


「ここから登ります。継ぎ目が崩れていて、人ひとりなら通れます」


 守備隊長のデーゲンは、腕を組んだまま、見下すように鼻を鳴らす。


「正面から当てればいい。冒険者など、使い減りしない駒だ」


「駒は返事をしません。わたしは返事をします」


「……なんだと」


「ここから入って、日のあるうちに終わらせます。見ていてください」


 デーゲンの眉がぴくりと動く。横に立つジルヴィオだけが、わたしの腹を読んだように、ほんの少し口の端を上げた。


「日のあるうち、とはな。ずいぶん言い切るじゃないか。外したらどうする?」


「外しません」


「ほう……外れたら?」


「外れたら、そのときは正面から入ります。あなたの駒としてではなく、わたしの足で」


 風が草を伏せながら斜面を吹き上げ、霧を薄く裂いていく。霧から現れた石垣の三段目だけが、傷口のように白く見える。


「……好きにしろ」


「はい。好きにします」


       ◇


 継ぎ目は、記憶に焼きついた形のまま崩れている。


 一度目、わたしたちはこの砦に十一日かけた。正面の門を叩いては押し返され、また叩き、三人が死んでいる。裏の穴を見つけたのは七日目の夜だった。けれど、闇の中から勝ち筋を見つけた人間の名を、もう誰も覚えていない。


 石の裏は湿ったかびの匂いに満ち、外の光が糸のように一筋だけ差している。その頼りない一筋を追って、五人は身を細めながら縦に進む。


「うわ、せっま! あたし、肩つっかえてんだけどぉ」


「息を吐いてください。吐ききれば通ります」


「吐いてもつっかえるんだってばぁ!」


 松明を低く構え、揺れる火に目が慣れるのを待つ。暗闇の奥で、硬い甲が石をこする音がした。亀のような巨大な魔物〈砦喰い〉だ。


「砦喰いは、腹の下の甲が薄いんです。ひっくり返してください」


「承知」


「ヨアヒム、腹が浮いたら火を。長く撃たなくていい、一度だけ」


「……一度で、よろしいので?」


「一度で足ります」


 ジルヴィオが盾ごと懐へ潜り込み、大盾をてこにして巨体を持ち上げる。すかさずボッとヨアヒムの火が腹をなめ、ミシリと薄い甲が熱に反って浮く。開いた隙間へ、わたしは迷わず滑り込む。


 腕を肘まで潜らせ、ズブリと手応えごと引き抜く。返り血が肩から胸へ落ち、革の下まで生温かい。


 このレジーナの体は、自分が使うと力が七分しか出ない。体になじんでいないのだろう。ならば、七分で足りる相手を選べばいい。足りない分は、記憶で埋める。


 日のあるうちに、すべて終わった。


       ◇


 夕方、赤い西日が砦の狭い窓から差すころ、傷だらけの卓に討伐帳が出る。


「いや助かった。聖女様のおかげで、砦が保った」


 デーゲンが満足げにそう言い、書記へ顎をしゃくる。


「斬ったのはこの腕です」


 わたしは血の匂いが残る腕を示して言い、それから、列の端にいる少年へ目を向ける。


「それと、荷方クノー。裏の継ぎ目まで、驢馬を引いて登ったのはこの子です」


「荷方に等級などつかん」


「等級はいりません。名前を書いてください」


「……なぜ、そこまで荷方にこだわる?」


「名前が載らないと、死んだときに一枚も出ないからです」


 卓の向こうで、部下の一人が小さく息を呑む。書記の筆も、紙の上で止まった。


「縁起でもないことを言うな」


「縁起の話をしています。ここは砦です」


「……載せたところで、出るのは今日ぶんの賃金だけだぞ」


「それが要るんです。今日のぶんが、今日出ます」


 デーゲンはしばらく黙り、部下たちの視線を受け止めている。やがて、自分で筆を取った。部下たちの見ている前である。


「……荷方クノー、驢馬を裏の継ぎ目まで上げる」


「もう一度、その子に聞こえるようにお願いします」


「……なぜだ?」


「その子が、字を読めないからです」


 デーゲンは渋い顔のまま帳を持ち上げ、列のほうへ向き直る。


「荷方クノー。驢馬を裏の継ぎ目まで上げる」


 賃金の袋が渡される。名の載った者にだけ、その日のうちに出る銭である。クノーは壊れ物に触れるように、それを両手で受け取った。すぐ胸に抱え、まっすぐ列のうしろへ走っていく。そこには、荷を担いだままの母親が立っている。ゲルダである。


「母ちゃん、これ!」


「……あんた、いったいなにしたの?」


「驢馬を裏まで上げた、って。帳に書いてあるんだ」


「へっ!? あんたの名前が、帳に書いてあるの?」


 ゲルダは袋を胸元に挟み、土で汚れた両手を前掛けで何度も拭う。銭に触れるのがこわいようだった。


「う、うん。書いてもらった」


「読めないよ、あたし。……どれ、どこに書いてあるの?」


「ここ、ここだって!」


 母親は何度も頭を下げる。銅貨が袋の中で触れ合い、乾いた小さな音を立てる。


 この音を、一度目の母親は聞いていない。名前の載らなかった息子の墓を、この人は自分の手で掘ったのだ。土で爪を黒くし、呼ばれなかった名を声が枯れるまで呼んでいた。


       ◇


 夜、砦の石壁が冷えはじめるころ、焚き火のそばで盾役のジルヴィオが言う。


「きみ、すごいな。砦の裏を、前に見たことが?」


「あるわけないじゃないですか」


「……そうか」


 彼はそれ以上、何も聞かない。聞かないまま、わたしの手元へ湯気の立つ椀を寄こした。受け取る指が触れ、火のそばにいた彼の手のほうが冷たい。


「ジルヴィオさん。わたしの声は……変ですか?」


「いや、低くて良い声だ」


「そうなんですね……知りませんでした」


「知らないほうが、よく通る」


 声が低いと、人は黙って聞く。


 わたしは五年、笑って頼んできた。笑えば嫌われずに済むと信じていたらしい。けれど今日は誰にも笑わなかったのに、全員が動いた。同じ言葉なのに、届き方がまるで違う。悔しさに似た何かが腹の底で光る。それは希望と呼ぶには、まだ少し痛かった。


 焚き火の向こうで、聖女が荷の縄を締め直している。手首が返るたび、火の粉が横顔を赤く照らす。あれは剣士の結び方である。端を二度巻いて、親指で押さえ、迷いなく引く。荷方はこう結ばない。


「……レジーナ?」


 そうつぶやき、わたしは湯気で顔を隠すように椀を傾けた。わたしができない結び方を聖女がやっている。この聖女は誰なのだろう。しかし、聞くわけにはいかない。レジーナは私を一度殺しているのだ。


        ◇


 夜半、見張り鐘が短く鳴り、息を切らした伝令が来た。砦の正面へ集まっていた群れが散り、南へ流れたという。


「南って、隊商の道じゃーん。あーあ……」


 シビラは肩をすくめる。


「……南の、どこですか?」


「知らなーい。あたし、賭けの外の話なんて覚えないの」


 わたしが門を開けさせなかったからである。開かない門の前に、獣はいつまでも留まらない。守れた命のぶんだけ、危険を別の場所へ押し流してしまった。


 知っている道を選ぶと、知らない道が生まれる。それを、まだ勘定に入れていなかったのだ。南の闇が、急に底のないものに見える。

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