1. 刺した女の腕
ズスッと鈍い音を立て、レジーナの剣が魔王の心臓を深々と貫いた――――。
黒い血が刺し口から激しくほとばしり、彼女だけでなく、後ろで控えていたわたし【聖女アデーレ】も飛沫を浴びてしまった。焦げた蜜のように甘く、それでいて喉の奥へこびりつく匂いだ。ほかの三人は、まだ後方で四天王たちに止めを刺している最中である。
五年、この人たちと、笑いも傷も分け合って歩いている。最後の一年は、この魔王を倒すためだけに費やした。
「やっと……終わり、ましたね」
「ああ。終わったな」
レジーナは崩れかけた魔王の胸から、ずるりと剣を引き抜いて振り返る。しかし、返り血に濡れたその琥珀の瞳には、まだ殺意が宿ったままだ。
え……?
「もう用済みだ……」
レジーナはわたしの肩をすり抜けざま、そのままわたしの胸を一突き――。
え……?
燃えるような痛みが全身を貫き――意識が薄れていく。
「ど、どうして……?」
「治すだけのくせに、なぜわたしより褒められるの?」
耳のすぐうしろで囁かれたそれは、わたしの口調をそっくりなぞった口真似である。
「アンタばっかチヤホヤされてムカつくのよね。後ろでお気楽に治してるだけなのにね?」
「そ、そんな、わたし、は……」
わたしは慌てて治癒魔法を唱えようとする。けれど、薄れていく意識の中では、たった一節の呪文さえとても無理だった。
ズルリ、と剣が肉をこすって抜ける。背中に、風の通る空洞だけが残る。
「聖女は魔王に胸を突かれ殉死――――盛大な葬式を開いてあげるわ。ふふふっ」
膝から力が抜ける。石の床が、冷たい色を広げながら迫ってくる。
『その体で、もう一度やってみろ』
死にゆく魔王のひび割れた口から、息にまぎれてそれだけがこぼれる。意味は分からない。
◇
目が覚めた――――。
見覚えがあるケーレンの三本橋亭。節穴から差す朝の光が三筋、色あせた毛布へ細長く落ちている。討伐の旅に発つ朝、確かに見上げた天井である。
起き上がろうとした途端、手が勝手に動く。枕元に在るはずのものを、迷いなく掴んでいた。鞘である。わたしは杖しか握ったことがないのに、掌はその重みを知っている。
鏡台へよろめき寄り、映った顔に息が止まる。黒に近い赤毛。短く整えた襟足。琥珀の目。頬を斜めに走る古い傷。
え……?
なんとレジーナがぽかんと口を開け、鏡の中からこちらを見返しているではないか。
そして頭の奥には、知っていることが一つだけ沈んでいる。教わったのでも、調べたのでもない。血そのものが置いていったのだ。
『魔王の血を、二人でもう一度浴びれば戻る』
血が教えたのは、それだけである。いつ浴びられるかは、血ではなくわたしの記憶が知っている――一年後の、あの魔王の部屋で。
階下から、匙が皿に触れる乾いた音がした。
「おはようございます、レジーナさん。よく眠れました?」
わたし【聖女アデーレ】の顔が、わたしに笑いかけているではないか。
「……眠れましたよ」
彼女はアデーレの両手で椀を包み、目をやわらかく細めて。でも――――私の笑顔ってこんなのだったかしら?
「あら。今日はずいぶん、言い方が丁寧ですね」
「……そ、そうかな?」
「そっちの方がいいですよ。丁寧な人、わたしは好きですから」
厨のほうで、ガシャン、と皿の割れる鋭い音が響いた。
気がつくと、椅子を蹴って立ち上がっている。右手は剣のない腰の高さ。左の肘が卓を払い、頭より先に体が戦いの構えを取っている。それは聖女だった頃では考えられない反射神経だった。
「シビラさん、困ります。それ、レジーナさんの椀です……」
「しーらない。あなたがそんな所にいるからじゃん」
「言い逃れはダメです。片付けといてくださいよ?」
「まぁまぁ。つまりですね、旅の初日というのは緊張で反射が過敏になるのです。学術的には、戦場帰りの兵に多く見られる症状でして」
「出たぁ、ヨアヒムの『つまり』」
斥候のシビラが、麺麭をくわえたまま寄ってくる。鼻先が首筋へ触れそうに近づき、空気をすうと吸われる。
「あれっ……? レジーナ、なんかあった? 匂いが……」
「……匂い、ですか?」
「んー……ま、いっか。賭けにはなんないし」
「なにを賭けるつもりだったのですか?」
「言ったら賭けになんないっしょ」
ジルヴィオが大きく息をつくと割れた皿を拾いに立つ。何も言わず、こぼれた粥を静かに片づけていく。
◇
殺されたらレジーナになって、過去に飛ばされていた――。
この意味の分からない事実に混乱してる暇もなく、一行は討伐へと出発してしまう。
『自分は未来から戻ってきたアデーレだ』などと言っては狂人扱いされてしまうし、人々の暮らしを守るため、もう一度魔王を倒さねばならないのは変わらないのだ。
はぁぁぁ……。
仕方なくみんなについていく以外ない。
◇
その日の昼、ケーレンの西門に牙持ちが三体出る。
知っている。一度目のレジーナは、この門でためらいもせず三体とも斬っている。
だからわたしも、記憶に追いつこうと誰より早く駆け、誰より早く剣を抜く。
しかし――――怖い。
今まで後衛で、見守ることしかやってこなかったのだ。
殺意に塗れた光る牙に狙われ、平常心など保てるわけがない。
それでも身体は自然と剣を振るう――。
一体。二体。
だが、三体目で、腕が止まった。
恐怖で半歩踏み込みが甘かったのだ。届かない――――。
「門番のゼルプですっ! 援護します!」
「来ないでっ!」
若い男が、槍を構えたまま踏み込んでくる。止める間もなく、牙持ちの顎がその腕へ横ざまに食らいついた。ゴキッ、と鈍い音がする。
「うわっ、あ、ああああっ!」
「離れてっ! 伏せて!」
「う、腕……自分の、腕がっ」
「見ないでください。息をして――吸って、吐いて」
三体目は口をゆるめて首を振ると、門外の藪へ跳び、枝葉を激しく揺らして消える。
わたしは剣を下ろす。
やってしまった。
聖女アデーレが神聖魔法で怪我を直していくのを見ながら、わたしはうなだれた。
いきなり実戦で、レジーナと同等の剣さばきなどできる訳がない。
頑張ってみても知っていたはずの未来にさえ、届かない。
一度目のこの日、この門で腕を折られた者はいなかった。
◇
夕方、門の脇に卓が出る。討伐帳である。
傾いた西日が、帳の紙だけを白く浮かび上がらせる。街の代表のゴートが、通りの人々へ高らかに告げる。
「みなさん、ご安心を。聖女様のおかげです」
書記の筆が、〈聖女アデーレの加護により、牙持ち三体を退く〉と紙の上を走る。
通りから拍手が湧き起こる。一度目のわたしは、この輪の真ん中で、拍手を自分のものだと信じて頭を下げていた。前で剣を振っていた人の顔を、見ようともせずに。
なるほど、これがわたしの死因なのだ。襲い来る恐怖に命がけで戦った者の名が、無くていい訳がない。
「お待ちください。二体を斬ったのは女剣士レジーナ、そこは記載してもらわないと」
書記が顔を上げ、わたしの腕を上から下までなめるように眺めて、鼻で笑う。
「女ひとり、この腕で二体も?」
「魔王も聖女も殺せる腕です。よく斬れますよ」
「……え? ……はっは、剣士どのは冗談がお上手だ」
書記が吹き出し、ゴートもつられて笑う。誰も筆を止めようとはしない。
わたしは震える指で、卓の縁を押さえる。
「斬ったのはこの腕です。名前を書き直していただきます」
声が、思ったよりも低く出た。笑い声が、波を引くように止む。
討伐帳は、その日のうちなら書き直せる。翌朝には写しが王都へ発つ。だから今日でなければならない。
「し、しかし、その、慣例というものが……」
「慣例は、腕を折られません。ゴートさん、あなたの口で読んでください」
「わ、わたしが、ですか?」
ゴートの喉が、ごくりと鳴る。
「あなたが言ったことです。あなたが読んでください」
「……三体目は、逃げた、と?」
「ええ。逃がしたのはわたしです。そう書いてください」
「……逃がした、と、書けと?」
「はい。書けと申し上げています」
街の代表は口を開けたまま、書記とわたしを見比べている。
ゴートが書記の筆を取り上げ、その行を黒く消して下へ書いた。
「……剣士レジーナ、牙持ち二体。三体目は逃げた。ならびに、門番ゼルプ、負傷」
「逃げたぶんも書いてくださって、ありがとうございます」
名が載れば、見舞金が出る。ゼルプは折れた腕を胸にかばいながら、左手で銀貨を受け取る。
「あ、あの……ありがとうございます」
「順番が逆です。わたしが三体目を逃がしたせいで、あなたの腕が折れた」
「でも……自分の名前、帳にあります」
「……それが、なにか?」
「父も、門番でした。父の名前は……どこにも残っていません」
銀貨を握った左手が、痛みだけではない震え方をしていた。
◇
その夜――。
灯が消えていく街を、宿の窓辺から見下ろす。
この一年を、わたしはもう知っている。どこに罠があり、どうすれば楽に攻略できるかも。
剣士としての腕の足りないところは知識でカバーするしかない。
しかし、このままでいいのかしら? いったいこの二度目の生は何なのか――――?
いくら考えても何も分からない。ただ、魔王を倒せるのは自分たちしかいないだろう。覚悟を決めるしかない。
――前に出ます。今度は、わたしが。




