5. 墓標
わたしたちはケーレンへ戻った。
教会の広間に負傷者を横たえ、聖女が順に手をかざしていく。香の煙は白い布のように低くたゆたい、石の床の冷たさは靴底を通して足の裏へしみる。高窓から斜めに差す光の中で、埃だけが息をするようにゆっくり回っている。
逃がした三体目の報せは、あれから一度も入っていない。どこかにいる。その事実だけが、抜けない棘のように胸の奥へ残っている。
毛布にくるまった子どもが、怯えきった目でこちらを見ている。わたしは笑いかけてみる。
「う、うわあああん!」
「あ……ごめんなさい。怖くないです。怖く、ないですから」
「こ、怖いぃ! 顔、怖いぃ!」
「あの、レジーナさん。その顔で笑うと、よけい怖いですよ」
言われたとおり、そっと口の両端を下ろす。笑わないほうが人を安心させるらしい。
「……はい。覚えておきます」
聖女がやわらかく笑い、子どもの背をやさしく撫でた。細い肩から力が抜け、泣き声は驚くほどあっさり途切れる。
ジルヴィオは柱のそばに立ち、黙ってその様子を見守っている。肩をまだ吊ったままなのに、聖女が立ち上がろうとすると、すぐ手を差し出す。
「無理をするな。あなたは治す側だ」
「わたしなら平気です。ジルヴィオさんこそ、どうか座っていてください」
差し出されたその手から、わたしは目を逸らす。
一度目、あの手はわたしに差し出されたままだったのだ。そのあいだ、前で戦う人がどんな顔でこちらを見ていたのか、わたしは一度も知ろうとしなかった。
いま、わたしはそちら側に立っている。胸のあたりが、狭い靴を履いたときのように窮屈になり、うまく息が吸えない。
◇
奥の回廊から、白髪を高く結い上げた女が姿を見せる。背筋はまっすぐで、衣擦れの音まできっぱりとしている。テレジアである。
「まあ、まあ……よくお帰りになりました」
その声を聞きつけ、記録係のニーゼが帳面を胸に抱えて走ってくる。
「テレジア様、その……記録は、いかがいたしましょう」
「『聖女様の加護により、一行は生還した』。……ええ、それで結構です」
「わたしの名前は、そこにありますか?」
「まあ、ございませんとも。書く欄がございませんもの」
「では、書く欄を作ってください。今日の分です」
◇
記録の間で、ニーゼは唇を引き結び、渋々と筆を走らせた。紙をこする音だけが響く。
「……『盾方ジルヴィオ、聖女様を護送す』」
「……護送ではありません。通したのです」
「同じことでは……?」
「違います。護送とは、荷を運ぶことです」
「……『盾方ジルヴィオ、五人を通した』」
討伐帳は、その日のうちなら書き直せる。今日の分は、これで直る。
「では、四月二十七日の分を見せてください。迷宮の口で、下役のケルプが同じ行を書いています」
「あれは……もう写しが発ちました。聖女様のおかげと、そう書けと仰せです」
「いつ、発ちました」
「に、二十八日の朝、王都へ」
「……承知しました」
現地の帳には、ケルプの字で彼の名が残っている。確かに残っているのに、王都へ届く紙の上では、初めからいなかったように消されている。
書き直せるのは、目の前の一枚だけなのだ。その紙の薄さが、ひどく重かった。
「あとは、その……年の変わりの名簿だけです。四月三日に、一年ぶんを綴じますので。そのとき、ご本人の申し立てがあれば、名の欄は直せます」
「四月までは、待てません」
わたしは長く息を吐く。負けである。口の中に、鉄を噛んだような苦さが広がる。
五年、わたしは負けるたびに笑ってきた。笑えば何も傷ついていない顔ができる。そのまま次の街へ行き、また同じことをされてきたのだ。
けれど、負けたときは、別のところを叩けばいい。
「では、教会の帳ではないものを見せてください」
「……は?」
「墓標は、教会の帳ではありません」
◇
墓地の隅、傾きかけた夕日の中に、去年の春に立った墓標がある。
ラーベ。門番。去年の春、牙持ちを止めて死んだ男である。
一度目も、二度目も、この人は死んでいる。わたしが変えられるのは四月三日から先だけで、この石は、それより前に立ったものだ。
石には、名前だけが彫ってある。苔はまだ薄く、撫でると細かな砂が指の腹へざらりと残る。
一度目のわたしは、この街に四度来た。四度も来て、この石を一度も読んでいない。
「石工を呼んでください。一行、足します」
「そ、そんな勝手なことを……!」
「あなたが呼んでください。教会の墓地ですから」
「……な、なぜ、わたしが?」
「あなたが写しを出したからです。出した人が、呼んでください」
ニーゼは口を開け、何かを言いかけて閉じた。それから裾を持ち上げ、逃げるように走っていく。四半刻ののち、鑿を担いだ石工と、その弟子と、頬を赤くして息を切らした記録係が戻ってくる。
「名前の下に……こうです」
鑿の音が、夕暮れの墓地へ澄んで響く。削られた石の粉は風に乗り、雪のように足元へ落ちてくる。かん、かん、と一定の間で重なる音が、なぜか胸の奥をやわらかくする。
――門を守った。
彫り終わるころ、墓地の入口から小さな影が転びそうな勢いで走ってくる。息を切らし、前掛けをつけたまま、片方の靴を履き違えている。
ラーベの妹である。ダーラ。十七。石工の弟子が知らせに走ってくれたのだと、あとで知る。
ダーラは震える指を伸ばし、彫ったばかりの溝を一字ずつ、確かめるようになぞっていく。
「兄ちゃん……これ……」
「……読めますか?」
「読めます。……あ、あの、これって、書いてもらえるものなんですか?」
「石は、いつでも彫り足せます。誰かが言い出すまで、誰も彫らないだけです」
ダーラの指が、最後の溝の底で止まる。爪の間には、白い石の粉が入り込んでいた。
「兄ちゃん、門番だったんです……ほんとに、門番だったんです」
「そう書いてあります。もう、消えません」
「……消えない」
「ええ。石ですから」
石工は黙って道具を片づけ、胸の前で帽子を取る。弟子もそれにならう。
ダーラは崩れるように膝をつき、長いあいだ石へ額を押し当てていた。肩が声もなく震えている。前掛けの裾が土に汚れていくのに、直そうともしない。
夕日は墓地の草をやわらかな橙に染め、石の溝にだけ細い影を残している。彫ったばかりの字は、傷口のようにまだ白い。
名前だけでは、その人が生きた証しにはならない。何をして、何を守ったのかが並んで、はじめて名前になるのだ。
わたしは五年、聖女という二文字の下に立っていた。あの二文字の下では、誰が何をしたか、すべてが白い光に塗りつぶされる。消されるたびに笑い、痛くないふりをして、次の街へ行った。
聖女が、そのうしろで祈っている。立ったまま、伏せた睫毛をかすかに震わせながら。
服が汚れるのが嫌なのだろう、とわたしは決めつける。そう思えば、胸のためらいを見ずに済む。
……いや。自分への言い訳を振り払うように、わたしは膝をついた。
冷えた土の感触が、膝から骨へじわじわと上がってくる。この冷たさを、一度目のわたしは知らない。知ろうともしない。
◇
教会の門まで戻ると、暮れかけた空を背に、テレジアが待っている。
「まあ……あなたさまは、まことによい剣士でいらっしゃいますね」
「……恐れ入ります」
「けれども、名前というものは、書く者のためにあるのではございませんよ。読む者のためにあるのです」
「読む者とは、誰ですか?」
「民ですよ。民は、旗を読みます。旗に、剣を持った女の名は要りません」
門の内側から、香の匂いがまとわりつくように流れてくる。甘く、少し重い。喉の奥に、あの黒い血の匂いがよみがえった。
「では、旗の下で腕を折った子の名も、要りませんか?」
「……まあ。お強い方ですこと」
テレジアは袖の中でゆっくりと手を組む。微笑みの形だけを唇に残し、それきりこちらの問いには答えない。
答えないまま、視線だけを聖女のほうへ滑らせる。
「聖女様を、教会でお預かりしたい」




