書類は溜めるな 第75話
「やっと帰って来れたな……」
ダンジョン最下層に足を踏み入れた瞬間
ドラコニクスが低く、どこか安堵を滲ませて呟いた。
「もう少しいてもよかったんですが」
リシェルがくすりと微笑む。
その表情には、ほんのりと名残惜しさが浮かんでいた。
「わしも温泉にもう一回入りたかったのー」
ガルディアスが肩を落とし、大きな溜息をつく。
「あれは極楽じゃった……骨の芯まで温まるとは
ああいうことを言うんじゃな」
「確かにな。あれほどの露天風呂はなかなかない」
バルドレインが腕を組み、しみじみと頷いた。
思い出しているのか、わずかに目を細める。
――湯気、夜気、星空。そして静寂。
戦い続きだった彼らにとって、それはあまりにも贅沢な時間だった。
「あれほどではないが……ダンジョンにも温泉はあるぞ」
ふと、ドラコニクスが思い出したように口を開いた。
「えっ、本当ですか?」
リシェルがぱっと顔を上げる。
「初耳ですね。どこにあるんですか?」
興味を隠しきれず、身を乗り出す。
「お前でも知らないことがあるのか」
バルドレインが意外そうに眉を上げた。
リシェルは肩をすくめる。
「さすがに全部は把握できませんよ」
「雨の少ない時期だけ、入れるようになる温泉だ」
ドラコニクスが静かに説明を続ける。
「普段はただの地底湖だ。水位が下がった時だけ、湯になる」
「なるほど……だから情報に出てこなかったんですね」
リシェルが納得したように頷いた。
そして次の瞬間、ぱっと表情を輝かせる。
「時期が来たら、ぜひ教えてください!」
期待に満ちた笑顔で身を乗り出した。
「ギルドの者が、ダンジョンの魔獣と仲良くしてもいいのか?」
ガルディアスが腕を組み、やや慎重な声音で問いかける。
立場上の問題を気にしているのだろう。
しかし――
「別にいいでしょ」
リシェルはあっさりと言い切った。
「私は派遣ですし、正規の職員でもありません。
給料もエルフ国から出ていますから」
迷いのない、あまりにもあっけらかんとした口調だった。
「それもそうだな」
バルドレインが苦笑混じりに頷く。
「お前さんの仕事はラビリオスの情報収集だ。
立場的には外様みたいなもんだしな」
「そういうことです」
リシェルが軽く笑った。
「俺らもギルドとは無関係だしな」
バルドレインが肩の力を抜き、にやりと笑う。
「魔獣と仲良くしようが問題なし……ってことは――」
少し間を置き、口元がだらしなく緩んだ。
「温泉、また入れるなぁ……」
完全に緩みきった顔だった。
「もう一度温泉に入れるのか〜楽しみだな」
ガルディアスも極楽気分を想像し笑顔で言った。
それを聞いたリシェルが、くすっと笑う。
ドラコニクスはそんなやり取りを静かに
見つめながら、わずかに口元を緩めた。
戦いの後に訪れた、穏やかな時間。
ダンジョンの深層に、珍しく柔らかな空気が流れていた。
ーーーー
ギルドの重厚な扉が、軋む音とともに開いた。
外の空気を背に受けながら
リシェルはそのまま迷いなく受付へと歩み寄る。
「リシェルさん! お帰りなさい!」
明るい声が弾けた。
受付に立つカノンが、満面の笑みで迎えた。
「ただいま」
リシェルも軽く手を上げて応じたが、すぐに周囲を見渡し――
「あれ? リリアはどうしたんですか?」
もう一人の受付の姿がないことに気づき、首を傾げる。
カノンは一瞬だけ視線を逸らし、困ったように笑った。
「リリアさんなら……ギルド長の部屋で、書類と格闘してます」
「格闘?」
リシェルの眉がぴくりと動く。
「ええ……山みたいに積まれた書類に埋もれてて
……もう、戦場みたいな感じです」
思い出しただけで気が重いのか、カノンが肩をすくめた。
「……なるほど」
リシェルは短く呟き、少しだけ目を細める。
「で、その原因になっている当人は?」
静かな声だったが、妙に圧がある。
カノンは苦笑いを浮かべながら答えた。
「園長なら先ほど、いつも通り……ふらっと外に出て行きました」
ほんのりと不満が滲んでいる。
「やはりか……」
ガルディアスが肩を揺らし、苦笑した。
「周りの者に迷惑をかけとるんじゃないかと思ったが、その通りじゃな」
「まぁまぁ」
バルドレインが間に入るように手をひらひらさせる。
「午前中だけでも机に向かってるなら、あいつにしちゃ上出来だろ」
軽い調子で言いながら、リシェルへ視線を向けた。
「あんまり責めてやるなよ」
だが――
「そういう訳にはいきません」
即答だった。
リシェルはにこりと微笑む。
だが、その笑顔は妙に冷えている。
「お二方」
ゆっくりと振り返り、ガルディアスとバルドレインを見る。
「行きそうな場所、心当たりがありますよね?」
その言い方は“お願い”の形をしているが、実質は確認だった。
「……あるの」
ガルディアスが目を逸らす。
「……あるな」
バルドレインも苦笑いを浮かべる。
リシェルの笑みが、わずかに深くなる。
「では、案内してください」
有無を言わせぬ声音だった。
カノンはそのやり取りを見ながら、小さく手を合わせる。
(園長さん……ご無事を祈ってます)
心の中でそっと呟いた。
ーーーー
「ここだ。……ちょっと待っておれ」
ガルディアスが低く言い、扉に手をかける。
ゆっくりと押し開かれた扉が、鈍い音を立てた。
『ギィィー……』
中から流れ出てきたのは
酒と煙草と――どこか熱を帯びた空気。
「ここは……酒場ですか?」
リシェルがわずかに眉をひそめ
周囲の気配を探るように問いかける。
「ただの酒場じゃねぇ」
バルドレインが口の端を上げた。
「遊戯酒場だ。酒を飲みながら、運と腕を賭けて遊ぶ場所さ」
視線の先では、カードを切る音、コインの触れ合う音
そして歓声と舌打ちが入り混じっていた。
「……いたぞ」
先に中へ入ったガルディアスが、扉の隙間から顔を覗かせる。
その一言で、空気が変わった。
「行きましょう」
リシェルは迷いなく扉に手をかけ――
次の瞬間、力任せに押し開けた。
『バァーン!!』
場の喧騒が、一瞬だけ止まる。
鋭い視線が一斉に入口へ向いた。
その中で――
リシェルの姿を見たガランが、ぴくりと表情を強張らせる。
何も言わず、隣に座るグレイブの腕を軽く叩いた。
「……なんだ? どうした」
グレイブはカードから目を離さず、気だるそうに問い返す。
「後ろだ」
短く、しかし切迫した声。
ガランの視線に釣られ、グレイブがゆっくりと振り向く。
――その瞬間。
彼の顔から、余裕が消えた。
「……リシェルさん。お帰り、でしたか」
グレイブがわずかに声を震わせ、様子を窺うように口を開いた。
「はい。つい先ほど戻りました」
リシェルはにこやかに答えながらも、その目は笑っていない。
ゆっくりと一歩、また一歩と距離を詰めていく。
「――ところで」
間を置かず、問いが落ちた。
「伝令鳥は、届きましたか?」
「あ、ああ……! もちろんだ。きちんと確認したぞ」
グレイブは慌てて頷く。
「無事、討伐……見事だった。ご苦労だったな。
こうして無事に戻ってきたこと、何よりだ」
どこか辿々しい言葉。
明らかに取り繕っているのが見え見えだった。
「そうですか」
リシェルの笑みが、ほんのわずかに深くなる。
「では――今は、何をされているんですか?」
逃げ道を塞ぐような一言。
「い、今はだな……その……」
グレイブの視線が泳ぐ。背後の卓、酒、カード
――そしてガランへ。
「討伐も無事終わったことだし……ガランたちと、軽く祝杯をな」
苦し紛れの言い訳だった。
その瞬間――
「グレイブ。観念せい。もうばれておるぞ」
低く重い声が割って入る。
ガルディアスが腕を組み、呆れたようにため息をついた。
「素直に謝っとけ。今ならまだ軽く済むぞ」
バルドレインも肩をすくめながら、諭すように言う。
「…………」
追い詰められたグレイブの額に、一筋の汗が伝った。
そして――リシェルが口を開こうとした、その瞬間。
「リシェル。我らも温泉でくつろいだのだ。
ここは一つ、許してやってもよいのではないか?」
ガルディアスがさりげなく割って入り
場の空気を和らげるように言った。
「温泉……?」
グレイブがぴくりと反応する。
「確か、伝令鳥の報せには……後処理に時間がかかるゆえ
帰還が遅れる、と書いてあったような……」
ぼそりと呟いたその一言に、場の空気が一瞬だけ凍りついた。
「……」
リシェルのこめかみが、わずかに引きつる。
だが次の瞬間――
「……まぁ」
すっと表情を整え、何事もなかったかのように微笑んだ。
「今回は、特別に目をつぶってあげます」
優しい声色。しかし逃げ場はない。
「その代わり――今後は書類の処理、きちんとやってくださいね?」
にこり、と。
その笑顔の裏にある圧に、グレイブの背筋がぴんと伸びる。
「は、はいっ! もちろんです!」
反射的に返事をするグレイブ。
「よろしい」
満足げに頷くリシェル。
その様子を見て、ガルディアスは小さく息を吐き
バルドレインは肩を揺らして笑った。
「助かったな、グレイブ」
「命拾いだな」
「……本当にな」
グレイブは力が抜けたように椅子へと崩れ落ちる。
再び酒場にざわめきが戻る中――
その夜、ギルドにはもう一つだけ、新たな誓いが生まれていた。
――**「書類は溜めるな」**と。
第75話
書類は溜めるな
お読みいただきありがとうございます!
無事にダンジョンへ帰還したラビリオスの面々ですが
彼らの頭の中はすっかり「温泉」でいっぱいのようですね(笑)。
ドラコニクスから語られた「雨の少ない時期だけ入れる幻の温泉」
果たして彼らが入浴する機会は訪れるのでしょうか。
そして後半は、ギルドをサボって遊戯酒場に入り浸るグレイブと
それを容赦なく追い詰める完璧な秘書リシェルの攻防戦!
受付嬢のカノンやリリアの苦労も垣間見えましたが
ガルディアスの不用意な一言(温泉でくつろいだ)によって
見事な「お互いの弱み(サボり)の握り合い」で
幕を閉じるというコミカルな展開になりました。
次回もどうぞお楽しみに!




