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【現役料理人が執筆】名を呼ばれた日、進化が始まった 〜召喚レッサーパンダの魔獣物語〜  作者: 幸辰


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116/125

心優しき主、その名はデュダイン 第116話

フェルナ領の北の果て、エデン。


大氷原を越えた瞬間から、世界はその色彩を失った。


目の前に立ちはだかるのは、天を突くほどに険しい岩山。

凍てついた黒い岩肌は、ナイフの刃のように尖り

鋭い突風が吹き抜けるたびに、まるで悲鳴のような

不気味な風切り音を響かせている。


カイチたち魔獣選抜と、ヴァルド率いる人間選抜の一行は

一歩足を踏み外せば命はない、底の見えない断崖の細道を

ただ黙々と登り続けた。


高度が上がるにつれ、大気は極限まで乾燥し

喉を焼くような寒冷の空気が肺を白く染めていく。


やがて、険しい山頂を越えた彼らの前に広がったのは

草木の一本すら生えない、静寂に支配された「霧の荒野」だった。


それは、ただの霧ではなかった。

生き物のように這いまわりつき、視界をまたたく間に

白濁の闇へと変えていくその濃霧は

空間そのものを拒絶するように重く立ち込めている。


かつて多くの冒険者が挑み

誰一人として戻らなかったとされる

人間には見ることも立ち入ることもできない絶対の結界。


「……ここから先が

神話に謳われる不可視の荒野『デュダイン』の入り口だ」

カイチの低い声が霧に溶けていく。


「カイチ、出来るなら霧の外に引きずり出せ」

祈るように、園長が言った。


「もし消滅しなかったらどうする?

お前達を危険に晒すことになるぞ……

それは最後の手段だ。その時は頼んだぞ、園長」

カイチが告げて、ゆっくりと歩き出した。


人間の目には、ただ眼前を遮る圧倒的な白い壁にしか見えない。

しかし、魔獣たちの超自然的な嗅覚と

空間の歪みを感知する感覚だけが

その「見えない境界線」の奥へと続く

神聖にして過酷な聖域への道を微かに捉えていた。


「カイチ、アンズー、ヴォルン。

……幸運を祈る」

園長の叫び声が霧の壁を震わせた。


「「「幸運を祈ります」」」

口々に発せられた言葉が

霧の壁を震わせ、祈りの言葉が

カイチたちの背中を優しく押していた……


――――


不可視の荒野「デュダイン」の聖域。

千の山々が連なる赤茶けた大地に

カイチ、アンズー、ヴォルンの交渉部隊が

ゆっくりと足を踏み入れていった。


彼らの眼前に立ちはだかるのは

ビル五階建てに匹敵する十五メートル級の巨躯を持つ

三体のベヒモスの分身体。

山脈そのものである本体の質量が限界まで凝縮されたその姿は

歩く城壁そのものだった。


「我らは戦いに来たのではない。

この地に眠る『アイアン・デューク』

採取の許可をいただきたい」

カイチが厳かに言葉を紡いだ。


しかし、三体の分身体の漆黒の瞳に宿ったのは

深い拒絶の光だった。巨獣たちが同時に鼻を鳴らし

大気を激しく震わせる。


「……お前たちからは、忌まわしき人間の匂いがする。

魔獣でありながら、人間の使いか?」

中央の分身体が、地鳴りのような咆哮を上げた。


「人間は奪うのみ。欺くのみ!魔獣であっても

人間の仲間と交渉などできん。

――去れ!さもなくば踏み潰すのみ!」


警告の咆哮とともに、三体の巨獣がその短い四肢を踏み締め

猛然と突進を開始した。


戦いの火蓋は切って落とされた。


「来るぞ!持ちこたえろ!」

ヴォルンが叫び、ドワーフの怪力を込めて特製の大盾を構える。

カイチとアンズーもその肉体を盾とし

押し寄せる圧倒的な質量を正面から受け止めた。


ズガァァァン!!!


魔法も精霊の加護も一切が消し去られた絶対領域。

頼れるのは純粋な肉体の力と、磨き上げた技術のみ。


十五メートルの突進の威力は凄まじく

三人の足元の岩盤が爆砕する。


『カイチ、アンズー!右前方、およそ二百歩の場所に

深い裂け目があるわ!誘導して!』


遥か上空、ベヒモスのアンチ・マジック領域の影響を受けずに

飛行するシルヴァから、鋭い指示が飛ぶ。


「よし、最初の一体だ!ヴォルン、引け!角度を変えるんだ!」

カイチの鋭い指示に、ヴォルンが盾をわずか三十度に傾け

グリップの力を抜く。


激突の刹那、最初の一体の突進エネルギーが

傾けられた盾の表面を滑るように斜め前方へと受け流された。


ズシャァァァンッ!


「いなし」は完璧に成功した。勢い余った最初の一体は

自らの凄まじい突進の速度を制御できず

シルヴァの指示通り、目の前に現れた深い地割れの裂け目へと

真っ直ぐ突っ込んでいった。


短すぎる手足では一度落ちれば這い出せない

最初の一体の無力化は見事に成功した。


しかし、残る二体目はそれを見ていた。

あからさまに警戒し、いなしの角度を警戒して

容易に突進の軌道を逸らそうとしない。


直線的な突進ではなく、フェイントを交えながら

じわじわと間合いを詰めてくる。


「くそっ、警戒されて上手く誘導できん!

これでは埒があかんぞ!」

ヴォルンが盾を押し込みながら歯噛みする。


(このままでは時間を消費し、こちらの体力が削られるだけだ)

カイチが眼光を血走らせ、覚悟の咆哮を上げた。

「いなしはやめだ!このまま力任せに裂け目へ押し込むぞ!」


戦術理論を捨て、ドワーフの怪力と神話の魔獣の全質量をかけた

文字通りの「正面突破の押し合い勝負」への切り替え。


「おおおおおっ!」


「ぬううううっ!」


カイチとヴォルンが大地に足を突き刺し

アンズーが翼を激しく羽ばたかせて後方から推進力を加える。


押し返す力が強ければ強いほど

泥泥とした力比べのベクトルが動き始める。


ギリギリと音を立てて二体目の巨躯が後退し

ついにその短い足が二つ目の裂け目の縁を捉えた。


ズズズ……ドォォォン!!


二体目も、力任せの押し込みによって

地割れへと転落していった。


しかし、代償は大きかった。

加護のない世界での全霊の力比べは

三人の体力を限界まで削り取っていた。


カイチは荒い息を吐き

ヴォルンの腕は疲労でガクガクと震えている。


そこへ、無傷の三体目が

最も激しい怒りを燃え上がらせて突進してきた。


「が、はっ……!?」


体力を使い果たした三人は、三体目の圧倒的な押し込みを

受け止めることができず、ただずるずると後退を余儀なくされる。


足元の硬い岩肌が、三人の足の裏で削れ、白い煙を上げる。


『カイチ!アンズー!ヴォルン!止まって、後ろは崖よ!』

上空のシルヴァから、悲痛な叫び声が響いた。


「何だと……!?」

アンズーが背後を盗み見る。そこには、落ちれば命はない

……暗黒の断崖絶壁が迫っていた。


「カイチ、後ろは崖だぞ!落ちたら死ぬぞ!」

ヴォルンが悲鳴のような声を上げる。


目の前からは、十五メートルの神話の質量が

容赦なく圧力をかけてくる。


背後は一歩も引けない絶壁。

横に受け流そうにも、斜めにいなせばその瞬間に

バランスを崩して崖下へと滑り落ちてしまう。


「いなしは使えないぞ……!!」

カイチが叫ぶ。


完全な袋小路。崖を背にし

盾の極意すら封じられた極限の窮地の中で

三体目の無慈悲な質量が、三人をもろとも圧殺せんと牙を剥いた。


その時、アンズーの体の中で、消え失せていたはずの何かが

爆発するように湧き上がった。

羽毛の先まで、見覚えのある超自然的な力が満ちていく。


「加護が戻った!!」

アンズーが狂喜の声を上げた。ベヒモスのアンチ・マジック領域に

なぜか一瞬の綻びが生まれたのだ。


精霊の加護、そして風の浮力が、彼の肉体に再び宿る。

「カイチ!このままいなして、崖に落とそう!」


アンズーの叫びに、カイチは鋭い眼を見開いた。

「正気かアンズー!それではベヒモスの分身が死んでしまうぞ!」


分身体とはいえ、この高さの断崖から落とせば命はない

不殺の誓いを破るわけにはいかない。


「わかっている、俺がなんとかする!俺を信じろ!」


アンズーの決死の眼差しに、カイチは覚悟を決めた。

これ以外の選択肢はない。

「――わかった、行くぞ!力いっぱい押し返して、いなしだ!!」


三人分の全霊の加護が、再びヴォルンの盾とカイチの肉体に

爆発的な推進力を与えた。


限界まで押し込まれていたベクトルを

一瞬だけ正面へ力任せに押し返す!


ドゴォォン!!


ベヒモスの巨躯が一瞬だけ怯み

押し返す圧力が生じたその刹那

ヴォルンとカイチは「いなし」を爆発させた。


盾の角度を極限まで傾け、ベヒモスの突進の軌道を斜め後方

――崖の淵へと滑らせる!


ズシャァァァンッッ!!!


完璧な受け流しだった。勢い余った三体目のベヒモスは

止まりきれずに自らの質量で断崖絶壁の虚空へと躍り出た。


「アンズー!!」

カイチの咆哮と同時に、アンズーが戻った風の加護をまとい

弾丸のように崖下へと急降下した。


落下していく十五メートルの巨躯。

アンズーはその太い首筋に必死に飛びつき

ライオンの爪を皮膜に引っ掛け

大空を覆うほどの鷹の翼を限界まで広げて

激しく羽ばたかせた。


「おおおおおっっ!!!浮けぇぇぇ!!!」

さすがの神話級の力をもってしても

十五メートル級の圧倒的な質量を

完全に浮かせるだけの力はない。


凄まじい風圧と重力がアンズーの翼の骨を軋ませ

悲鳴を上げさせる。


しかし、無駄ではなかった。


アンズーの決死の羽ばたきは

ベヒモスの致命的な落下スピードを

激しく減速させることに成功した。


ズドォォォォンッッ!!!!


崖の底に、地鳴りのような凄まじい衝撃音が響き渡る。

土煙が激しく舞い上がり、ベヒモスの分身体は

底の岩盤に叩きつけられた。


だが、死んではいない。


アンズーが命懸けで制動をかけ続けたおかげで

巨獣は激しくうめき声を上げながらも

奇跡的に死の淵から踏みとどまっていた。


息も絶え絶えのアンズーが

泥まみれになりながらベヒモスの傍らに降り立つ。


崖の上から、カイチとヴォルンがその姿を見下ろし

大きく安堵の息を漏らした。


崖の上でカイチとヴォルンが胸を撫で下ろしたのも束の間

デュダインの空を覆っていた分厚い雲が、にわかに割れた。


――ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……!!


地殻そのものがひっくり返るような

地鳴りとも咆哮ともつかぬ重低音が荒野を揺るがす。


見上げる遥か上空、雲の切れ間から現れたのは

一つの山を丸ごと削り出したかのような

文字通り桁違いの質量を持った本体ベヒモスの巨大な足だった。


数キロメートル級の神話の魔獣が、その足裏で

崖の上のカイチたちを押し潰さんと、ゆっくりと

本当にゆっくりと頭上から迫ってきたのだ。


しかし、その動きはあまりにも緩慢だった。


まるで時間が止まったかのように

大山のごとき足がじわじわと降りてくる。


あまりの遅さに、カイチとヴォルン、アンズーは

歩いて簡単にその場から退避し、攻撃を避けることができた。


無事に踏み荒らしの範囲から逃げ延びた一同は

少し離れた岩陰から、なおもスローモーションのように

地面へと向かっていく巨足を見上げていた。


泥まみれの羽根を震わせながら

アンズーが不思議そうに首を傾げる。


「おい、カイチ……なんであんなに

ゆっくり攻撃してくるんだ?

本気で俺たちを圧殺する気なら

もっと勢いよく踏みつければいいだろうに」


その問いに、カイチは巨足を見据えたまま

重々しく首を振った。

「そうではない、アンズー。

奴がゆっくりとしか足を下ろさないのは

我らを侮っているからでも、動きが鈍いからでもない。

……あの一足を、もし思いっきり地面へ踏みしめてみろ

ここにいる小さく弱い魔獣たちにとっては

一瞬で大地が崩壊する大地震になるからだ」


「……」

カイチの言葉に、アンズーとヴォルンは息を呑んだ。


ベヒモスは、人間を連れてきた一行に対して

激しい怒りを燃やしている。


だがその一方で、自分が一歩の踏み込みを誤れば

このデュダインの聖域で共に暮らす

愛すべき無力な仲間たちをも巻き添えにして

圧死させてしまうことを誰よりも理解していた。


主としての優しさと責任

そして神話の質量を持つがゆえの悲しき制約。


ゆっくりと、地表の羽虫一匹すら潰さぬような

慎重さで大地へと下ろされていく巨足を見つめながら


一同が目指す素材が眠る大地……

そこの守護者が決してただの邪悪な怪物ではないことを

一同は身を以て知るのだった。


――――


「カイチ、あいつは助けなくていいのか?」

ヴォルンが崖の下、激しいうめき声を上げている

三体目の分身体を指さし、焦燥を孕んだ声で尋ねた。


不殺の作戦だ。だが、十五メートル級の巨躯を

崖上から引き上げる術など、今の彼らにはない。


「助けたいが、この絶壁では簡単には降りられんだろ」

カイチが眼を歪め、もどかしげに唸ったその時。


上空から、純白の体毛をなびかせたシルヴァが

音もなく舞い降りてきた。


「カイチ、ヴォルン!本体のベヒモスは崖の方角に向かって

今も少しずつ移動しています。

これ以上ここに留まるのは危険です!」


「何だと……。どうする、カイチ」

ヴォルンが上空を見上げ

じりじりと迫る巨大な山の影に身震いする。


時間がない。だが、傷ついた分身体を見捨てることもできない。

その時、カイチの脳裏に一つの策が閃いた。


「そうだ、シルヴァ。お前なら、ポーションを

崖の下の分身体に飲ませられるか?」


カイチは、怪我を治すために使った

治癒ポーションの空瓶をじっと見つめた。


シルヴァは少し首を傾げ

その澄んだ瞳で崖下とポーションを交互に見つめた後

しっかりと頷いた。

「……はい、多分できると思います。

私の浮力は維持できていますので

上空から正確に落とすか、口元まで運びます!」


「よし、ヴォルン!シルヴァにポーションを渡せ!」

カイチの鋭い指示を受け

ヴォルンはすぐに自らの革袋に手を突っ込んだ。

頑丈な紐で縛られた特製のポーションの瓶を取り出す。


「頼んだぞ、シルヴァ!割るんじゃないぞ!」

ヴォルンはそう言いながら、シルヴァの小さな口元へ

ポーションの瓶を差し出した。


シルヴァはそれをしっかりと牙でくわえ

再び力強く四肢を蹴って、凍てつく虚空へと舞い上がった。


――――


シルヴァはヴォルンのポーションを

しっかりと牙でくわえ、断崖絶壁へと飛び出した。


崖下からは、落下の衝撃で激しく悶える三体目のベヒモスの

地鳴りのようなうめき声が響いてくる。


さらに頭上からは、数キロメートル級の「本体」の足が

空間を押し潰すような圧迫感とともにゆっくりと

崖の方角へ移動してきていた。


アンズーでさえも浮力を失うその絶対的な領域。


しかし、加護を必要としないシルヴァ翼は

ベヒモス本体の発する影響を一切受けることなく

その暴風のなかを平然と飛行することができた。


(待っていて、今助けるわ……!)

シルヴァは翼を鋭く傾け、気流を捉えて崖底へと急速に降下していく。

十五メートル級の三体目のベヒモスは横たわり

激しい痛みに耐えながら、天を見上げて

苦しげに大きな口を開けていた。


シルヴァは巨獣の頭上

わずか数メートルの位置まで一気に肉薄した。


風に煽られることもなく、ピタリと空中でホバリングしながら

くわえていたポーションの瓶をベヒモスの開いた口の中へと

正確に落とし込んだ。


パリン……!

巨獣の鋭い牙に当たり、瓶が砕ける音が響く。


次の瞬間、溢れ出た最高級の治癒液がベヒモスの喉を潤した

傷口から淡い輝きがじわじわと広がり

折れた四肢の骨が凄まじい勢いで修復されていく。


「グルゥゥ……ォォン……!」

先ほどまでの苦痛のうめきが、力強い咆哮へと変わる。


三体目の分身体はゆっくりと

しかし確実にその太い四肢で大地を踏み締め立ち上がった。


上空で翼を広げるシルヴァを見上げるその漆黒の瞳には

先ほどまでの激しい敵意ではなく

命を救われたことへの深い困惑と

微かな感謝の光が宿っていた。


崖の上でその光景を見届けていたカイチとヴォルンは

力強く拳を握りしめた。


――――


地鳴りがピタリと止み、世界から圧倒的な圧迫感が消え失せた。


見上げるほど頭上に迫っていた

あの数キロメートル級の巨大な山が、忽然と消えたのだ。


あまりの事態に誰もが息を呑んだその瞬間

もうもうと立ち込める土煙を割り

カイチたちの目の前に新たなベヒモスの姿が現れた。


十五メートル級の分身体とは明らかに違う

世界を圧搾したような超高密度のプレッシャー。


「カイチ、四体目のベヒモスが現れたぞ……どうするんだ!?」

ヴォルンが盾を構え直しながら、驚愕の声を上げる。


しかし、カイチはただの増援ではないことに気づいていた。

周囲の景色が一変し、空間の歪みが元に戻っている。

「……いや、違う。おそらく、あいつは本体だ!

元の大きさのままでは、蟻のような我らには何もできんと

悟ったんだと思う。対等に我らを圧殺するために

自らの意志であの姿へと凝縮したのだろう」


その言葉に応じるように、目の前に立つベヒモス本体が

怒りに燃える瞳で一同を睨みつけ、地を這うような声を放った。

「人間の飼い犬ども、やってくれたな……。

我が同胞を傷つけ、崖へと落としたこと、断じて許さんぞ!」


「戦いを挑んできたのはそちらだ!

俺たちは飛んできた火の粉を払ったにすぎん!」

カイチが鋭い眼を光らせ、毅然と反論する。


不殺を貫き、先ほどシルヴァが命を救ったことすら

この怒れる主にはまだ伝わっていないのだ。


「黙れ!外道が!!」

ベヒモス本体は言葉による対話を拒絶した。


数キロメートル分の質量を十五メートルにまで

限界圧縮したベヒモス本体が大地を爆砕させながら

猛然と突進してきた。

その破壊力は、先ほどの分身体たちの比ではない。


――――


「霧が晴れてきたな……」

園長が静かに呟いた、その直後だった。


「園長!壁が……結界の壁が、完全に消滅しました!」

外で待機していた人間選抜のクルツが

悲鳴に近い声を上げる。


彼らの眼前を遮っていた

人間を拒絶する圧倒的な白い壁が

ガラスが砕け散るように忽然と消え去ったのだ。


あまりの異常事態に

ニコたちは武器を握りしめたまま

戸惑い立ち尽くしていた。


そこへ、上空から猛スピードでシルヴァが急降下してくる。

その翼は激しく震え、瞳には明らかな恐怖が宿っていた。


「園長!四体目のベヒモスが現れました……!」


「四体目だと!?」

園長が目を見開く。


「カイチさんが……あれが『本体』だと言っています!

奴が自ら小さくなって現れたのだと……!」

シルヴァが息を切らしながら補足した。


「本体だと……。結界の壁が消えたのも

奴が全質量を凝縮したせいで空間の歪みが元に戻ったからか!」


園長は瞬時に状況を察知し、シルヴァを鋭く見据えた。

「魔法も、精霊の加護も、今は使えるのか!?」


「本体にどこまで通用するかは分かりません……。

でも、今なら使えるはずです!」


「園長、助けに行きましょう!カイチさんたちが危ない!」

ニコの悲痛な叫びが、園長の背中を突いた。


躊躇している時間はない。

数キロメートル分の質量が凝縮された本体の突進など

いくらカイチたちでも持ちこたえられるはずがなかった。


「わかった、全員突入する!盾使いが先頭だ!

クルツ、ベイル、ガルド、クレイグ

俺たちの盾で道を切り拓くぞ、いいな!」


「「「はい!」」」


「ルーナ、アカネはサンとベルモットを何が何でも守れ!

ニコは最後尾だ、我らの背後を警戒しろ!

――行くぞ、遅れるな!!」


園長の怒号とともに、人間選抜の面々は武器を構え

霧の晴れ渡った神話の荒野へと一斉に地を蹴り出した。


――――


「だめだ……!このままでは、俺たちが裂け目へ落ちるぞ!!」

絶壁の淵、アンズーの悲痛な叫びが

激しい風の音に掻き消されそうになる。


限界圧縮されたベヒモス本体の突進力は

分身体とは文字通り桁が違った。


加護が戻り、どれだけ足を踏ん張ろうとも

三人をもろとも奈落の底へ突き落とさんと

圧倒的な大質量が泥泥と押し寄せてくる。


足の裏が火花を散らし、削られた岩肌が白い煙を上げる。


「アンズー……お前は加護が戻っているだろ!」

カイチが眼を血走らせ、怒号のような声を絞り出した。


「落ちそうになったら、俺を置いて今すぐ飛んで逃げろ!」


「そういうわけにいかんだろ!俺だけ助かってどうするんだ!!」


アンズーは翼を激しく羽ばたかせ、必死に風の壁を作って抵抗する。

友を見捨てる選択など、誇り高き聖獣にはあり得なかった。


「ヴォルンも連れて行け……頼んだぞ、アンズー!」

死を覚悟したカイチの声。


ヴォルンの大盾を握る腕は、疲労とあまりの圧力で

パキパキと不吉な音を立てていた。


三人の体が、ついに地割れの縁へと傾きかけた

まさにその時だった。


「――おおおおおおおッッ!!!」

霧の晴れた荒野の彼方から、地を割るような怒号が響き渡る。


突入した園長率いる盾部隊。

先頭を駆ける園長。

クルツ、ベイル、ガルド、クレイグの五名が

ドワーフの盾を構え、ベヒモス本体の巨大な後ろ足へと

狂わんばかりに突撃したのだ。


ドガァァァァンッッ!!!

五枚の盾が、ベヒモスの巨躯の支点である

後ろ足へと同時に炸裂する。


ただの体当たりではない。

踏み込みの衝撃を、盾の面からベヒモスの

巨躯の奥へと叩き込む、決死の同時打撃。


さすがの神話の主も、この完全な死角からの

不意の一撃には抗えなかった。


「――今だ、カイチ!!いなせ!!!」

荒野に園長の声が轟く。


盾部隊が決死の覚悟でベヒモスの後ろ足に突撃したことで

あれほど圧倒的だった巨躯の体勢が

わずかに横へとずれた。

前方へ突き進んでいたベヒモスの突進のベクトルが

一瞬だけ外側へと歪む。


「アンズー!ヴォルン!今だ、合わせろ!!」

四つ足で大地を踏み締めていたカイチが

鋭い咆哮で合図を送った。


その声と同時に

戻った風の加護を全身にまとったアンズーと

ドラコニクスの盾を構えるヴォルンが

息の合った正確さで体を真横へと高速でスライドさせた。


正面から力任せに押し返すのではない。

ベヒモスの突進の軌道がずれたその刹那

三人が一斉に横へ動くことで

ヴォルンの盾の面がベヒモスの胸元に対して

絶妙な「三十度の角度」を形成する。


ズシャァァァァァンッッ!!!

荒野に激しい金属摩擦音が響き渡る。


後ろ足を崩され、さらに正面の抵抗を

絶妙な角度で「いなされた」ベヒモス本体は

数キロメートル分の質量が凝縮された

自らの凄まじい突進の勢いを

もう制御することができなかった。


ヴォルンの盾の表面を滑るようにして

十五メートルの巨躯が斜め前方――裂け目へと向かって

勢いよく突っ込んでいく。


「グ、オォォォォォンッ!?」

ベヒモスの驚愕の咆哮が響く。

しかし、短すぎる手足では一度傾いた巨体を止める術はなく

その巨躯は滑り込むようにして地割れへと崩れ落ちていった。


間一髪のところで裂け目への転落を免れた

カイチ、アンズー、ヴォルンの三人は

地割れの縁で激しく荒い息を吐きながら

土煙が舞い上がる裂け目を見つめた。


人間選抜の盾部隊の命懸けの加勢

そして三人の完璧な連携による「いなし」が

ついに神話の主の暴走を止めたのだ。


――――


谷底へ落ちたベヒモスは

深く巨大な亀裂の間にその巨体を挟ませ

ぐったりと気を失っていた。


その姿を見下ろし、一同がホッとしたのも束の間だった。


――ミシィ……ミシィ……。

地の底から、鼓膜を震わせるような異様な音が響き始める。


「これは、なんの音ですか……?」

遅れて息を切らせて駆けつけたニコが、顔を青くして尋ねた。


「奴だ!奴が元に戻ろうとしているんだ!」

裂け目を覗き込んでいたアンズーが

狂気的な音の正体に気づいて悲鳴のような声を上げた。


ベヒモスの巨体が元の質量へと膨れ上がろうとして

周囲の岩盤をきしませているのだ。


「園長、ここの魔獣たちを避難させてくれ!」

カイチが鋭く指示を飛ばす。


「どういうことだ……!?」

事態の深刻さに気づかずにいた

園長が困惑の声を漏らした。


「わかるだろ!このまま奴が元の大きさに戻れば

さらに地が裂け、この土地そのものが崩壊する!」

カイチは怒鳴り声で遮った。一刻の猶予もない。


「――すまん、わかった!」

最悪の結末を理解した園長は

翻って魔獣たちの避難へと走り出した。


残された者たちへ、カイチが即座に言葉をかける。

「ニコは残れ。アンズー、お前はあいつを起こしに行けるか?」


「大丈夫だとは思うが……近づけば、また加護を失うかもしれん」

アンズーはベヒモスから放たれる圧倒的なプレッシャーに

冷や汗を流しながら答えた。


「ニコ、アンズーと一緒に行ってくれるか?」

カイチがニコの目を見つめた。


「もし奴が起きなければ、名付けをしろ。

お前の声で魂に呼び掛ければ、必ず起きるはずだ」


「えっ……勝手に名付けしてもいいんですか!?」

ニコが驚きに目を見開く。


聖なる名付けは、本来そう簡単に許されるものではない。


「そんなこと言ってられるか!

このままでは衝撃で奴の体だって持たんぞ!」

カイチが悲痛な声をあげた。


すべてを救うための、唯一の賭けだった。


「行こう、ニコ!」

アンズーが先導し

二人はきしむ裂け目の斜面を駆け下りていく。


だが、気絶しているとはいえ

ベヒモスの放つ魔力は凄まじかった。


あまりの重圧に

近づきすぎたアンズーの足元が突然ふらつく。


「くっ……ニコ、これ以上は近づけん……!」


「いいです、飛び降ります!」

ニコは躊躇わなかった。


斜面の足場を蹴り

ベヒモスの硬い背の上へと直接飛び降りた。


「起きて下さい!起きて!」

ニコは必死にベヒモスの体を両手で叩く。


しかし、巨獣はぴくりとも動かない。

離れた安全な場所から

アンズーが心配そうにその姿を見つめる。


崖の上からは、カイチとヴォルンが

祈るように身を乗り出して覗き込んでいた。


ミシィ、ミシィと、地割れが広がる音が一段と大きくなる。


「もういい、名付けをしろ、ニコ――っ!」

崖の上からカイチの叫びが響いた。


ニコは深く息を吸い、全神経をその掌に

そして眼前の巨獣の命へと集中させた。


「あなたの名前は――『デュダイン』です!」

ニコは全身の力を込め、その魂に直接語りかけた。


「デュダイン、起きて下さい!!」

ニコの悲痛な叫びが、狭い裂け目を激しく駆け上がっていく。


その言葉に、崖の上の男たちが突き動かされた。


「デュダイン!」

カイチが叫ぶ。


「デュダイン……!」

ヴォルンが拳を握りしめて呼ぶ。


「デュダイン!」

避難誘導の途中で振り返った園長も

離れた場所から声を限りに叫んだ。


「デュダイン!」「デュダイン!」「デュダイン!」

ニコの叫び声に応じるように、その場にいる全員の声が重なり

名前が波となって裂け目の底へと降り注いでいった。


――――


デュダインはニコを慈しむように見つめると

その巨体をゆっくりと持ち上げた。


「わあ、高い……!」

ニコが落ちないように必死にしがみつくと

デュダインは力強く、しかし驚くほど静かに

裂け目の壁を蹴り上げた。


地を揺るがすような跳躍。

次の瞬間、デュダインはニコを背に乗せたまま

軽々と崖の上へと降り立った。


「ニコ!」

待ち構えていたカイチとヴォルン

そして少し離れた場所でへたり込んでいたアンズーが

一斉に駆け寄る。


「無事か、ニコ!よくやった、本当に大したもんだ!」

ヴォルンが声を弾ませ、カイチも「見事だ」と深く頷いた。


ニコは照れくさそうに笑いながら

デュダインの背から降ろしてもらう。


「フッフッフ」

ニコの足が地面につくと、デュダインはその大きな鼻先を

ニコの頬にそっと寄せ、嬉しそうに甘えるような声を漏らした。


その時、周囲の森や岩陰から

ざわざわと無数の気配が湧き上がってきた。


それは、避難しかけていた

この地に住む野生の魔獣たちだった。


彼らは恐る恐る姿を現したが

そこにいるのが狂暴な化け物ではなく

正気を取り戻し、気高く聖なる光をまとった

主様(あるじさま)であることに気づいた。


「ガルルゥ……!」


「ピィー、ピィー!」

一頭の魔獣が歓喜の声をあげると

それが呼び水となった。


森の奥からも、谷の向こうからも

次々と魔獣たちが姿を現し

主様の帰還を祝うように一斉に鳴き声をあげる。


地を震わせるほどの、圧倒的な歓喜の合唱だった。


「おい、見ろ!みんな戻ってくるぞ!」

ヴォルンが指さす先から

さらに別の集団が走ってくるのが見えた。


避難を誘導していた園長たち人間と

魔獣園の魔獣たちも、危機の去ったことを

察知して戻ってきたのだ。


「カイチ!ニコ!無事か!?」

息を切らせた園長が先頭を走ってくる。


その背後では、魔獣園の魔獣たちもまた

野生の魔獣たちと一緒になって尾を振り

跳ね回り、この奇跡的な勝利を祝っていた。


崩壊の危機に瀕していた地は

いまや種族を超えた喜びと、固い絆の歓声に包まれていた。


ニコは、自分たちを優しく見守るデュダインの

大きな瞳を見上げ、その温かい体にそっと手を添えた。


第116話

心優しき主、その名はデュダイン

お読みいただきありがとうございます!


ついにデュダイン編

クライマックスまで駆け抜けることができました。


この回を書くにあたり、一番大切にしたかったのは

「強大な脅威が、実は誰よりも優しい存在だった」という構造です。


ベヒモスの「ゆっくりとした足」の場面は

そのテーマを体現するために書いた

個人的にも思い入れの強い場面です。


恐怖の対象が、実は仲間を守るために自らを制約している

——この逆転を、読者の皆さんにも

感じていただけていたら嬉しいです。


盾部隊の合流とクライマックスの「いなし」は

盾修行編からずっと積み重ねてきた

集大成のつもりで書きました。


ベイルが学んだ技術が、ここで仲間との連携技として結実する

——この繋がりを描けたことは

この作品を書いてきて良かったと思える瞬間の一つです。


そして名付けの場面。魔法も加護も届かない相手に

それでも名を刻めるのは何なのか

——この問いへの答えを、ニコというキャラクターを

通して描きたいと思っていました。


全員が声を揃えて名を呼ぶ場面は

これまで積み重ねてきた「みんなで成し遂げる」という

この物語らしい着地点になったのではないかと思います。


デュダイン編はここで一区切りとなりますが

まだこの後の展開も控えています。


続きを早く読みたいと思っていただけましたら

感想や評価で応援していただけると

とても励みになります。


引き続きどうぞよろしくお願いします!

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